いつから彼女がそばにいたのか、わからない。
だから、どこから聞かれていたのかも……俺には、わからなかった。
「…………」
なぜあのとき――……彼女に手を出したんだろうか。
彼女に……触ろうとでもしたのか?
……それすらも尚、よくわからない。
「ありがとう、絵里」
「っ……羽織」
「……私……嬉しかったよ?」
目の前で彼女が、にっこりと微笑んだ。
俺を見ても、俺のあの言葉を聞いても、何も言わずに。
ただひとこと、『もういいの』とだけ呟きながら。
「っ……」
そんな彼女を見ていたら、やるせない、なんとも言えない想いが徐々に湧いてきた。
無性に腹が立って、ワケもなくイライラしてる自分か……だからこそ頭に来る。
「……あ……」
何か、言わなければいけないとでも思ったのか。
それとも――……これまでずっと考えていたことを、口にする機会ができたからか。
1歩だけ彼女へ踏み出すと、ふたり揃って俺に顔を向けた。
……その眼差し。
ある程度予想はしていたものの、それぞれの眼差しはきれいなほど相反していた。
「俺のことは……きっと、いつか忘れるから」
ぽつりと呟いた瞬間、あたりから音が消えたんじゃないかと思うくらい、静かになった。
「君の人生は、これからだろ?」
「え……」
「……まだ、18歳。80年以上と言われている今の人生の、たかが――……」
「……やめてください」
静かな、声だった。
俺以上に穏やかで、微かで……それでいて、凛とした強い言葉。
「いくら先生でも……その言葉だけは許せません」
「……え……?」
瞳を丸くして、『何を言うんだろう』という顔をしていた彼女。
俺の言葉を聞きながら、不思議そうな顔をしていた彼女。
……それなのに。
今はただその大きな瞳に涙を溜めて、心底傷ついた表情を浮かべていた。
…………真剣に、怒っている顔。
そんな顔を見たのは、これが初めてだ。
「……私にとって、先生と過ごした時間は……そんなに浅くないんです」
きゅ、と握られた両手のひらが、微かに震えているように見えた。
今にも零れ落ちそうなほど、粒を大きくしてギリギリに留まっている涙。
もう1度まばたきがあれば間違いなく、溢れ始めるに違いない。
……1度零れれば、恐らくは止めどなく。
「あ……」
何を言えばいい。
……そして、本当は何を言いたかった……?
彼女に手を伸ばして、それを途中で止める。
きりりと俺を見つめている眼差しは、少しだけ俺を非難しているようにも見える。
咎めているような、詰問しそうな。
そんな、普段とは違う眼差し。
……だからこそ、何も言えなかった。
何もできなかった。
俺が今、自分の言葉で彼女をひどく傷つけたのは確かだから。
…………間違いのない、事実。
現実、のこと。
「…………」
被害者意識とやらにでも、冒されたのか。
まっすぐに俺を見つめている彼女がまるで、『何も知らないくせに』と言っているように見えた。
……悔しかった。
ほかならぬ、俺自身のことなのに。
……それなのに、何ひとつとして確かなことがない。
それこそ、言われた言葉ひとつを取っても、記憶にない。
わからない。
それがもどかしく、そしてひどく悔しい。
だが――……何ひとつとして、反論はできない。
確かに俺は、何も知らないから。
何ひとつとして、確かなことがないから。
……自分自身のことなのにな。
心底、揺らいでばかりの自分が情けなく思う。
「……確かに……」
「え?」
「私だけが覚えているのは、つらいです」
ぽつりと呟いた彼女が、俺をまっすぐに見つめた。
芯のある眼差しに、思わず喉が動く。
……つらい、という言葉。
それに動揺したと言うのも、あるとは思うが。
「あんなに楽しかったことや、あんなに……嬉しかったこと。……このままずっと……と思ったこと。そんな沢山のことが、私だけの『想い出』になっちゃうのは……つらいです」
静かな声で、ひとつひとつ確かめるかのように彼女が続けた。
言葉にするたび、瞳が……微かに揺れる。
楽しかったこと。
嬉しかったこと。
様々な想いが今彼女の中に巡っているのがわかって、だからこそ何も口を挟むことができなかった。
「……だけど、忘れたくないんです」
「え……?」
「ずっと、ずっと……私だけでも、覚えていたいんです」
きゅ、と両手を胸の前で合わせた彼女が、少しだけ表情を緩めたように見えた。
「私と……約束、してくれたから」
「っ……」
ぐいっと指先で涙を拭った途端、表情が変わった。
強さ、だろう。
今、1番彼女に表れているのは、それだ。
「先生は嘘なんかつかないから」
「…………」
「……先生にできないことなんて……ないんです」
いったい、どこからそれほどの深い信頼が生まれるのか。
絶対的な何かを感じて、何も口が挟めない。
約束、とはなんのことだろう。
そう思うが、俺には聞く資格などない。
……すべて、覚えていないのに。
どうして、問うことなどできよう。
「……だから、先生は……っ……先生は、絶対に……!」
1度拭われ、きれいになった瞳。
だが、今はまた新たなモノがそこにはあった。
涙を零さぬようにと懸命に耐えている姿ながらも、彼女は強い確かな眼差しでそう告げた。
凛とした姿。
それは……俺が彼女に与えた、強さなんだろうか。
さようなら、先生。
……あなたは違うから。
合わせられた丸い瞳は、まるでそう言っているように見えて仕方なかった。
「……先生に、これを」
「え?」
「ずっと、お返ししなければいけないと思って……でも、できなかったので」
そう言うと彼女は、羽織っていたジャケットのポケットから、何かを取り出した。
手のひらにすっぽりと収まってしまうほどの、小さなモノ。
だが、それを受け取るまで、俺には何かまったく見当もつかなかった。
「……それじゃ」
「え……?」
「失礼します」
ある種、呆然としていた。
渡されたモノを受け取った今が、最初で最後。
わずかとはいえ、彼女へ直に触れる機会は。
「…………」
言葉が出ず、態度にも出せず。
微動だにせず彼女を見ていたら、静かに笑ってから……目の前で両足を揃えた。
「……行こう? 絵里」
「え? ……あ……」
もしかしたら、絵里ちゃんもそうだったのかもしれない。
ほのかに笑った彼女に手を引かれてようやく、顔をそちらに向けた。
「…………」
何も言わず、こちらを一瞥してから背を向けたふたり。
かける言葉など、当然のようにない。
……だからこそ、彼女らが俺を振り返るようなこともなかった。
ただただ、静かに離れて行くふたり。
特に何かを話すでもなく、何かを見つめるでもなく。
ふたりは揃って、ゆっくりとその場から離れた。
……静かに。
特別な、音も立てず。
「………………」
そんなふたりの背を見つめるしかできなかった俺は、誰もいなくなるまで立ち尽くしていた。
……何も、言えなかった。
彼女の、あの表情と……そしてなんともいえないチカラに屈服させられて。
「…………」
手を握り締めると、そこには今までのことを確かだと主張する証拠があった。
冷たい、硬い金属。
見るまでもなく、これが……家の合鍵だということくらい、彼女が切り出したあのときすでにわかっていた。
少なくとも、彼女と出会うまでの俺ならば、絶対にしなかった行為。
合鍵を渡し、一緒に住んでいたと聞いて我が耳を疑った。
自分のテリトリーを荒らされるのは、好きじゃなかったから。
……それは、今も変わらないと思っていた。
なのに――……なぜだろう。
この、なんとも言いようのない喪失感に苛まれているのは。
「…………」
俺は、変わったんだろう。
彼女と出会い、ともに時間を過ごしたことで。
……だが、これで何もかもが終わり。
いや、振り出しに戻ってしまった。
…………なのに、何を戸惑う?
これを望んでいたはずなのに。
俺自身、こうありたいと願ったはずなのに。
それなのに――……なぜ、こんなにも報われない思いばかりがあとからあとから溢れてくるのか。
「…………」
その答えはまだ、今の俺には出せそうになかった。
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