「ごちそうさま」
「いえ、何もお構いできず……」
「そんなことないよ。……ありがとう」
残っていた紅茶を飲み干してすぐ、玄関に向かった。
ここに踏み入れたときとは、まるで違う心持ち。
それが、単純過ぎて情けなくも少しおかしい。
「……それじゃ」
「あ、はい。またいらしてくださいね」
「ありがとう」
ドアを開けてくれた彼女に礼を述べてから、ドアをくぐる。
……今度。
それがまた俺に訪れてくれる日はあるのか。
すっかり日の暮れた現在。
時間は18時を過ぎていたが、まだ孝之の帰宅の気配はなかった。
……そして、彼女も。
こんな時間にもかかわらずまだ家に居ないということは……どういうことなのか。
「……………」
不安が、募り始める。
あんなことがあった、今。
だからこそ、彼女が家に戻らないとなれば、その責任は当然――……俺にある。
「…………」
短く息を吐いてから、鍵を開けてシートに座る。
細かな水滴がフロントガラスを覆っていたので気付いたが、いつしか小雨がパラついてき出していたらしかった。
「…………」
祐恭が去ったあと、ドアを静かに閉めて鍵をかけた葉月は、またリビングへと戻っていた。
テーブルに残った、カップ。
それを持ってキッチンに向かい、シンクに下ろす。
水が張られ、そしてまた静けさを取り戻す室内。
だがなぜかそこへ体重をかけたまま手を置くと、葉月は小さくため息を漏らした。
「……よかったの?」
小さく問うてから、ゆっくりと足を向ける。
今、自分が明かりを点けるまで真っ暗だった、ダイニング。
そのテーブルに近づくと、ゆっくり椅子を引いてから腰を下ろした。
「羽織、話したいことあったんじゃないの?」
真正面に座っている、彼女。
その面持ちは暗く、表情も冴えない。
……ずっと。
もう、ずっとここに居るのだ。
何度涙を拭ったのかわからないような、赤く腫れぼったい目元。
どうしてもそれが痛々しく目につき、眉が寄る。
「……できないよ」
「え?」
「だって、私から……突き放しちゃったんだもん」
「っ……」
なんて儚い笑顔だろう。
ぽろぽろと双の瞳から涙が零れ落ちて、きゅっと胸を掴まれたようにいたたまれなくなる。
……どうしたらいい……?
まっすぐそう聞いてくる彼女に何も言えず、唇を噛むしかなかった。
「……何も、変わらないよ?」
ようやく出てきた、自分らしい彼女へ宛てた言葉。
だが、羽織は当然のように驚いた顔をしてから、否定する如く首を横に振った。
「そ、んなこと……!」
「だって……羽織が全部覚えてるじゃない」
「っ……」
先ほど、葉月が彼に言った言葉。
だが、これは事実だ。
誰も否定できない。
……だけど。
そう頭ではわかっていても、羽織が納得するのは難しいことでもある。
それがわかるから、当然そこまでしか言えない。
――……それでも。
やっぱり、事実に違わないから。
自分にできることが何かを必死に考えると同時に、葉月はテーブルに置いてある羽織の手へ両手を伸ばしていた。
「瀬尋先生の好きなものも、嫌いなものも。……一緒に行った場所も、話したことも。羽織、全部覚えてるでしょう?」
「……っ……」
泣かすのは、葉月の本意ではない。
だが、うなずいてもらえたのが何よりも嬉しかった。
……少しでもいい。
彼女に自信を持ってほしかった。
自覚してほしかった。
――……何も変わらない。
現実は残酷だが、これも変わらないこと。
「……だから、これまでもこれからも何も変わらないんだよ。瀬尋先生は、瀬尋先生だもん」
葉月とて、迷いはあった。
家の前で祐恭を見つけたとき、どうしようかと不安にもなった。
……だけど、それでも。
羽織にこう言う以上、自分が揺らぐことはできない。
だからまず、自分で確かめていた。
今も昔も、彼は何も変わっていないんだ、ということを。
「人は、可能性を諦めないから、人でいられるの。誰かを頼って信じられるから、歩いて行けるの。……だから羽織、離れたりしないで」
きゅ、と両手で包み込むように彼女の手を握り、そっと表情を伺う。
涙で明け暮れたりしないで。
これまでと同じ日々を、受け入れたりしないで。
そんな願いにもよく似た思いを、しっかりと込めてやりながら。
「瀬尋先生は今、一部の記憶を失くしてるからこそ……とても、不安定な状態だと思うの」
もちろん、葉月は知っている。
羽織も、彼と同じように不安定な状態だということを。
……脆くて、危ないということを。
でも、だからこそ羽織には知っていてほしかった。
自身の存在が、どれほど大切で重要な鍵であるかということを。
「だから、彼にとって最重要で……最も深い根底まで根ざしている羽織が、そばを離れるのはどうかと思う」
キツい物言いに取られるかもしれない。
……それをわかってというのは、ムシがよすぎるかもしれない。
でも、せめて聞いてもらいたかった。
今まで彼と話していて、確かに感じたことを。
彼もまた、無意識の内に彼女を必要としているんだということを。
――……ふたりとも同じ。
お互いにお互いを、とても強く求めている。
「……ねぇ、羽織。瀬尋先生から離れないであげて」
今、彼を独りにすることは、見捨ててしまうのと同じ。
それは当然、彼女の本意じゃない。
……羽織はもう、気付いていると思う。
だって、帰ってきてからずっと『彼を突き放した』と悔やんでいるんだから。
「瀬尋先生を支えてあげて。……見捨てないであげて」
静かに、そっと言葉を紡ぐ。
まっすぐに彼女を見て、まっすぐに思いが伝わるように。
「……逃げたり、しないで」
ぎゅ、と両手に力をこめてから静かに言うと、彼女の肩が震えて見えた。
……間違っている、かもしれない。
その答えは、葉月には出せないこと。
でも、それでもやっぱり、羽織は彼とともにあるべきだ。
その思いだけは、間違ってないと強く言える。
「……つらいよね。それはわかるよ? でも……瀬尋先生は、もっとつらいんじゃないかな」
……羽織も、それが心配なんでしょう?
小さく小さく付け加えると、唇を噛んだ彼女が静かに何度もうなずいた。
そのたびに涙が滴となって、テーブルに落ちる。
本来ならば、自分が言わなくてもわかるであろうに。
今回ばかりは、気付いているのかいないのか、どんどん違う方向へとまっすぐに突き進んで行きそうだった。
……不安定。
それが目に見えてわかる。
だから怖かった。
このまま、『今』を岐路にして、二度と戻れなくなってしまいそうな目の前のふたりが。
「……別に、このまま思い出さなくてもいいんじゃねーか?」
「っ……!!」
いつの間に帰っていたのか。
響いた声でそちらを見ると、ドアのところに帰宅したばかりの孝之が佇んでいた。
「たーくん! ……何言って……!」
何を気にするでもなく、何に臆するでもなく。
いつもと同じようにこちらへ歩いて来た彼は、すぐ横に立って羽織を見下ろすと小さく息をついた。
「冗談は言わない、人を試すようなこともない。……それが祐恭だ」
「…………」
「だから、お前と一緒に居るときの祐恭が、よっぽど俺にとっては異質だった」
……わかるな?
静かな口調で付け加えた孝之は、ゆっくりと見上げた羽織を見つめたままさらに言葉を続けた。
「いいか。アイツは、お前に会って変わったんだ。今の姿は、まさにお前と会うまでの祐恭で、ぶっちゃけ俺にとっては違和感なんてコレっぽっちもねーんだよ。……むしろ、今までのほうがよっぽど違和感ありまくりだったからな」
続けられる、彼の意見。
それに対して、否定も肯定もせず、聞き入っている羽織。
「…………」
だからこそ葉月はただ、黙ってふたりの表情を伺っていた。
口を挟む必要はない。
少なくともそう感じていたし、そう信じていたから。
「……けどな、たとえ記憶がすっぽり抜けてるっつっても、アイツが祐恭だってことに変わりねーだろ? アイツは、お前に馬鹿すぎるくらい入れ込んでて、お前がいなくちゃダメなんだぞ」
「っ……」
途端、少しだけ羽織に変化があった。
……と同時に、彼にも。
明らかに、表情に違いが出ている。
「……わかるな? だったら、これからまたアイツを変えればイイだけだろ? お前が去年、1年かけてアイツを変えたように、今年また変えればいい。……単純な話だ。なくなったんじゃない、元に戻っただけなんだから」
羽織が顔を上げたのをプラスと取ったのか、孝之はこれまでと少しだけ口調を穏やかにしてから、腕を組んだ。
その眼差しも、心なしか穏やかに見える。
……それが葉月は嬉しくもあり、いつしか口元に笑みも薄っすらと浮かんでいた。
「アイツのこと好きなんだろ? 本気で考えてんだろ?」
「……それは……」
「だったら、今までアイツがお前にしてくれたように、自分の一生懸けて身体張れ」
「……っ……」
「てめぇの全部を投げ出しても、相手のためにって思うのが愛なんだろ?」
「…………」
「うじうじ言ったって、動かなきゃ何も変わんねーんだ。アイツを変えるためには、まずお前が動くのがスジなんじゃねーのか?」
確かに見えた、反応。
目を逸らすことなく、俯くことなく、確かに取った“前”を向くための姿勢。
それらはすべて、下準備であったかもしれない。
だが、ハッキリとした意思そのものに変わりはない。
……それが、嬉しかった。
葉月も孝之も……そしてまた、羽織も。
表情に、微かな笑みが含まれていたのにそれぞれが気づいたのは、少しあとだ。
「お前ならできるってことだろ?」
「っ……」
「大事だって言われたんだろ? お前だけだって言われたんだろ? あの祐恭にそこまで言わせた女なんだぞ。そのお前がアイツを信じてやらねぇでどうすンだ」
「……そ……れは……っ」
「1度できたんだろ? なら、2度目だってちゃんとできンだろーが。……それどころか、簡単だろ? ラクにできるはずだろ?」
「でも……」
「でも、じゃねーよ。……やりもしねぇ前から、ンな簡単に諦めんな」
「っ……」
わしわし、と孝之が羽織の頭を撫でた。
正確には『撫でた』とは言わないかもしれない。
それでも、羽織が彼を見上げたとき見せた顔は、これまでと確かに違って見えた。
「……ま、そーゆーこった」
しばらく誰も何も言わずに過ごしたあと、ぽつりと孝之が呟く。
そこでようやく視線を外すと、軽く頭を掻いてからリビングへと足を向けた。
瞳に確かな光を宿した、羽織。
だがそれに反して孝之には『言うんじゃなかった』というどこか照れくささもあるように見えた。
……普段は、まず口にしないような言葉ばかり。
そんな彼らしからぬ態度に、葉月もほんのりとおかしさから笑みが漏れる。
「……羽織はきれいになったよ」
「え……?」
「それは、瀬尋先生と付き合ったからだと思うの。……彼が羽織をきれいにしたのね」
にっこりと微笑み、『ね?』と強調するように首をかしげる。
すると、目尻にほんの少し残っていた涙を、まばたきで打ち消してからすぐに……彼女らしい笑みを浮かべた。
「いつもは、たーくん……言葉が足りないかもしれないけど……今のは、十分すぎるくらい伝わってこなかった?」
ひと息置いてからくすっと笑った葉月に、羽織も微かにうなずいて同じように笑った。
――……いつ以来だろう。こんなに自然に笑った彼女を見たのは。
……そういえば、つい最近こうして『きっと大丈夫』と思ったのも、孝之が言葉をくれたときだった。
ふとそんなことを思いながら葉月が羽織の手を握ると、同じように握り返してくれたのに気付いて嬉しくなった。
孝之が口にした言葉は、葉月の言いたかったことの代弁でもある。
普段とは、逆。
彼に、すべて訳してもらったような気持ちだ。
……噛み砕けてなかったのは、私のほうだったんだね。
彼の言葉を聞いて、まずその反省が頭に浮かんだ。
孝之と葉月が互いを補っているように、祐恭と羽織もまた、互いを補いながらともに必要としている。
……ふたりで、ひとり。
昔からある単純明快な言葉ながらも、今だけは確かにその通りだと深く深くうなずいていた。
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