「はぁっ、は、あ……ッ……あぐっ……!」
がくん、と膝が途端に力を失う。
と同時に地に打ちつけ、鋭い痛みが走る。
寒さと、疲労がピークに達したんだろう。
足ががくがくと震えて言うことを聞かないだけでなく、触れようとした手さえもガクガクと震えた。
一日中……いいえ。
この場所では、もう何日も雪が降り続いていると聞く。
にもかかわらず雪が積もっていないのは、地面が熱を帯びているためだろう。
あたり一帯は工業地域だと聞いていたものの、もしかすると地下にも工場があるのかもしれない。
膝をついて初めて、地がほんのりとあたたかいことに気づいただけでなく、地鳴りのような音が身体を伝った。
……だけど、このままでいるわけにはいかない。
もっと早く。しっかり動いて。
たとえ骨が折れていようとも、地を蹴り、この場を離れなければならない。
たった一秒でさえ、同じ場所に留まり続けることはできないんだから。
「っ……!!」
ビシッ、と膝先数センチの場所に小さな窪みができた。
コンクリートが飛び散ったのは、何かが撃ち込まれた証拠。
……もう、そこまで来てる。
だから逃げなきゃ。
足を止めている場合じゃ――。
「ッ!!」
「……ここで終わりだ」
「っ……まだよ。……まだ、まだ私はっ……!」
「笑わせる。どこからそんなセリフが出るんだ? 強がりも大概にするんだな。この期に及んで見苦しいほかない」
「く……」
ジャリ、と目の前で幾つもの小石を踏みつけた革靴を睨みつけてから顔を上げると、降り続く雪とは対照的に、真っ黒いサングラスをかけた男が口元だけで笑った。
逃げられない……? いいえ、そんなことはない。
私はここまで来たんだ。
だからこそ、あのときのように捕まえられず逃げきることだってきっと――!
「ッう!?」
手近にあった小石を思いきり投げつけてから、一瞬を作り上げて立ち上がる。
逃げることこそが、今の私にできる精一杯で最大限の防御。
相手が銃を持っているのも忘れて、私は無防備にも背を向けたまま懸命に走った。
「カットー!」
あたりに張り巡らされている無機質なフェンスの角に辿り着いたとき、はるか後方から大きな声が聞こえた。
「……は……ぁ。は、……あー苦しい」
「お疲れさまでしたー」
「ホント疲れた……。何年ぶりだろ、こんな全力疾走……」
「あらー。それはちょっと運動不足ね。聞き捨てならない感じ?」
「……う」
掴んだ途端、カシャン、と小気味よく響いたフェンスに背中を預け、大きく何度も深呼吸を繰り返す。
はらはらと舞い落ちる雪が頬や首筋に当たって、火照った身体をほどよくクールダウンしてくれそうな気がして嬉しい。
……雪。
目を開けると、白よりも少し灰色がかって見える雪が、音も立てずに幾つも幾つも降り続いていた。
見まごうことなく空から降ってくるもの。
だけど、この雲がすべての空を覆うことはない。
……これは、一部分だけ。
ほんの一箇所で見られる現象。
「あら、ここホントに擦りむいてるわよ? 痛かったでしょ?」
「え? あー、大丈夫。わざとやろうと思ってのことじゃないから、そんな……いぅっ!?」
「……ほら、痛いんじゃない」
「あのね……さすがに、つつかれたら痛いってば」
「あ、ごめん」
『カット』の声と同時に駆け寄ってきた、数人のスタッフ。
そのうちのひとり、メイク担当のリラさんを滲んだ涙そのままで見つめるも、大して悪びれる様子もなく謝られた。
……もー。
忘れていれば痛くないけれど、意識しちゃったら痛いものでしょ。
血が滲んでいる膝を見つつため息をつくと、マネージャーのルイが心配そうな顔で同じように膝を見つめる。
「エステル……大丈夫? 明日、足見せる撮影あるよ?」
「え? んーと……」
「……しょーがないなー。もー。いっちょ、がんばってあげる」
「わーい! さすが、どんなときでも頼れるスペシャリスト!」
だから大好き、なんて続けながらぎゅうとハグし、すりすりと擦り寄る。
ちらりと向けた視線だけで、私が何を言いたいかすぐ察してくれた彼女は、いつもそう。
なんだかんだいっても、やっぱりすご腕メイクさんだ。
特殊メイクもささっとこなしてくれちゃうから、明日の撮影は彼女に任せておけば大丈夫。
なんの根拠もないように思われるかもしれないけれど、こういう勘は外したことないから大丈夫だろう。
「あ! エステル、コートコート!」
「え? ああ、平気。次の撮影すぐそこだよね? さっき走ったからまだ暑いし……ダッシュで行けば大丈夫」
「だ、大丈夫じゃないってば!」
「だいじょうぶー!」
ルイに手を振り、言うが早いか走りながら次の撮影場所へ。
ほかの人たちはすっぽりと頭まで覆える分厚いコートや大きな傘を持っていたけれど、別に気にならない。
『風邪を引く』以前に、こんなことをしたら身体に悪いってことはよくわかってる。
この雪はもう、昔当たり前だった“雪”とは違うんだから。
……昔、か。
記憶にあるようでない、“昔”。
自分が小さかったときを一瞬思い浮かべたものの、自然と否定するかのように緩く首が振れた。
「あー……気持ちいい」
駆け足からスピードが落ち、両手を空へと伸ばしながら、ただ歩く。
身体に悪い異物。
それでも今だけはこうしたかった。
傘を差したら、見えないものがたくさんあるような気がするのは、昔から変わらない。
今となっては、“四季”という言葉が奪われた場所。
それが、この国。
自由の利かない空に囲まれ、常に見張られている私たちは、いつの間にか自然というものに愛されない存在になっていた。
……ううん。
昔から、自然は人間を愛してくれていなかった。
だけど、私たちを許容してくれていた。住まうことを、許してくれていた。
――だけど。
あれはもう、ずっとずっと昔。今から100年以上前だと聞く。
自然が怒り、この国の地という地すべてが水に沈んだ“あの日”は。
水に浸かってしまった土地は、水が引いても以前と同じような働きをしなくなった。
まるで、こうなった原因が我々人間にあるんだといわんばかりに。
責めるように、思い知らせているかのように。
以来、自然が目に見える形で牙を剥いた。
自然形態がすべて狂い、それまでの『常識』を覆す。
異常気象が何日も何年も続き、もうダメだと誰もが思ったという。
もう、この国に人が住める余地はないんだ、と。
でも……そんなある日。突然、夜が明けるのと同じように、晴れやかで和やかな朝が訪れた。
昨日までの――ううん。数時間前までのことが嘘のような、まるで嵐の前兆を感じさせるような、そんな穏やかなときが。
また、何かが始まるんじゃないか。
また、どこかが崩れるんじゃないか。
人々は、当然のようにそう心配したけれど、それ以降これまでのような恐ろしい日々が続くことはなかった。
ただ――もう何もかも決定されたあとの世界に造り替えられたんだ、と人々が知ったのはそれから半年近く経ってからだった。
国の端から端まですべての通信手段を再度組み直し、これまでと同じような機関を立ち上げたそのとき、人間が目にしたのは、自然が我々に下した『最良』の結果だった。
もちろん、『最良』であるのは我々人間側ではなく――彼ら、自然界にとっての。
「…………」
ほつほつと頬に当たる雪に足を止めると、先ほど撮影をしていた場所からはずいぶんと離れたことに気づいた。
遠い遠い記憶の中、真っ白い雪を両手ですくいながら遊んだのは……やっぱり夢だったんだろうな。
昔、雪は『溶ければ水』だったらしいけれど、今は溶けたらそこに何も残らない。
跡形もなく消え、また空へと還る。
雪の降る場所によってそれぞれ違っている部分もあるみたいだけれど、それでも、『雪』を構成している物質には共通点がある。
化学物質
人はいつから、雪を『白き悪魔』と呼ぶようになったんだろう。
いろんな場所で降る雪の中には、反応を繰り返して最終的に水になるものもあるだろう。
でも、この場所で降り続く雪はそうならない。
雪のような物を為していた悪性のガスは、また空へ戻るだけ。
降るたびに濃度を少しずつ増しながら。
人々は、今私がいるこの場所を『晩節の地』と称していた。
確かに、間違いないだろうな。
ときおり強い吹雪に見舞われることもあるし、降り続いている雪は少しずつとはいえ確実に体温を奪っていくから。
1年中……ううん。
この場所では、『あの日』から1日も変わらず、ずっとこの雪が降り続いているという。
『あの日』。
この国から『四季』というモノが消えた日。
あの日以来、この国では各地の気候が絶えず変化し続けるようになった。
だから、こんなふうにある意味恒常の風景が見られる場所は、『スポット』と呼ばれて少し珍しがられている。
大抵は、天気や気候がころころと変わり、中には数時間の間に何度も何度も繰り返される所もあるとか。
もちろん、そういう場所に人が住まうことは不可能なため、観測地のみが設置されているだけらしいけれど。
……だって、ころころころころ目に見えているものが変わったら、疲れるし気だって狂いそうでしょう?
そういう地域の『ダイジェスト天気予報』を目にすることがあるけれど、そのたびについチャンネルを変えてしまう。
数十分ごとに刻まれているお天気マークを見ていたら、それだけでゴチソウサマだ。
「……雪、ね」
ここでは真冬がこの先も変わることなく続くだろう。
かと思えば、少し離れた場所では太陽がすべてを焦がし、水分を奪い続ける砂漠が広がっている。
異常気象と言うには長期的かつ規模が大きすぎるため、今ではただの『現象』ではなく、これらがこれから先の『恒常』になるだろうと政府機関が判断を下したのは……今からどれほど昔だったか。
といっても、私が生まれる前のことだから、よくは知らないけれど。
「…………」
ゴオ、という大きな音で左前方を見ると、工場用の大きな煙突から炎が上がったのが見えた。
炎、と言っていいものだろうか。
見えない炎――透明な、陽炎しか残さないモノが重たい色の空を焦がし揺らし続けるのを見ていたら、小さなため息が漏れた。
人はいったい、いつまでこんなことを繰り返すんだろう。
あの炎がどれほどの汚染と熱を持っているのか正確にはわからないけれど、でも、この白い毒を降り続かせる理由のひとつに実は当てはまっているんじゃないだろうか。
本当に、すべては“自然”だけのせいなの?
人類が自分でまいた種だと、どうして誰も言わないんだろう。
……ううん。
もしかしたら、言えないのかもしれない。
みんなそう思ってるからこそ、あえて口にしたらまた、世界が終わってしまいそうだものね。
「…………」
髪についた雪が目に入り軽く頭を振ると、はらはらと幾つもの平らな粒が地へ落ちた。
雪は、やまない。
まだ……ずっと。
今までも、そしてこれからも。
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