「……あ」
 再び、服や髪につき始めた雪を払うこともせず小走りで進んでいくと、前方にそびえ立つ大きな建物が見えてきた。
 それは白っぽい壁の建物らしく、少し離れているここからだと真っ白に見える。
 まるで、本物の雪の色のような……白。
 次のシーンの撮影が病院という設定だったので、それに適した場所なんだろうとは思っていたけれど……白、ね。
 確かに、それはまぁわからないでもない。
 でも。
「…………」
 ここ。
 今、私が立つ道からすぐそこの場所だけは、違和感が拭えなかった。
 あの建物へ続く大きな通りがあるのは、ここから一本隣の道。
 珍しい場所に来たのだからとあちこち見て回りながら来た私がいるのは、ひと気のないどころか、地に敷かれたコンクリートのような物もところどころ割れたり剥がれたりして、土がむき出しになっている道だ。
 雪には不似合いな鮮やかな色の草も生えていて、明るすぎる色の地表といいそれといい、雪が降る景色にはそぐわない感じだ。
 …………雪?
 あれ、そういえば。
 これまでもずっとずっと雪は降り続いていた。
 だけど……土が見えている。青々とした草が茂っている。
 確かに、この雪は水になることはないから、多く積もりもしないようだ。
 けれど、雪同士の反応でくっつきあう性質でもあるのか、塊としてではなく、ふわふわと綿のように緩く積もっている所もある。
 なのに……あそこは積もらないの?
 地表があたたかいからかとも思ったけれど、道の端でふわふわと雪が塊になっているから、そういうわけではないらしい。
 それじゃあ、“土”に反応する?
 それとも……何かほかに理由が?
「…………」
 私はここの出身でもなければ、ここで働いている人間でもない。
 だからいろいろなことはわからないけれど……でも、なんとなく。なんとなくだけど、妙な感じがした。
 あれ? って思った。
 これまであったどのフェンスよりも高い金網と、幾重にも巻かれた有刺鉄線。
 そして、文字のような何かが書き殴られていて今にも倒れそうな看板と、それを塗りつぶしでもしたかのような白いペンキの跡。
「……何かしら」
 思わず足を止め、フェンスの中を隅から隅まで調べるように見つめる。
 何もない、正方形の畑のような場所。
 ここだけは、ほかの場所とは違い、雪がまったく残っていない。
 土が見えている。
 焦げ茶色の、いかにも『土』めいた物が。
 いくつものデジタル制御された錠とチェーンが入り口らしき部分に絡んでいるので、入ろうとは思わないけれど、実際入れなさそうだ。
 ……でも、それだけじゃない。
 異様なのは、この『畑』らしきところに生えている草や花もそう。
 それらはどれもぱっと見て判別できるような形をなしてはいないけれど……でも、妙だ。
 自然界にはなさそうな、毒々しいほど鮮やかな色を持っているせいか、白を背景とした周りにこれっぽっちも溶け込んでいないせいだろうかとも思いはした。
 けれど、そっちじゃない。“枯れ方”が異常だ。
 まるで、なんらかの力が加えられて意図的に枯らされたかのようで……。
「……っ」
 意図的にだとしたら、誰の?
 思わず恐ろしい考えが頭に浮かびそうになって両腕を抱くと、さすがに冷たい風を浴びすぎたのか、ぞくりと寒気が走った。

「何をしているんですか」

「きゃぁぁああ!! っひゃあ!?」
 ぽん、と肩に手が載ると同時に耳元で聞こえた声で、反射的にその場を飛びのきフェンスに背を当てる。
 ガシャンと思ってもないほど大きな音がしたことにも驚くと、私の肩を掴んだとおぼしき人物が口元に手を当て、俯いたままお腹を抱えた。
「なっ……な!?」
「面白い反応しますね」
「くっ……な、何よ!! ていうか、誰!? アナタ!!」
 ばくばくとものすごい勢いで鳴る胸を押さえながら目の前の人間を睨むと、どうやら相当おかしかったらしく、くの字に折り曲げていた身体をようやく元に戻すと一緒にサングラスを直した。
「怪しい者じゃありませんよ」
「どこがよ!! 見た目からして、十分怪しいでしょう!」
「ひどいですね。僕は、ただのクリーニング屋ですよ?」
「……………………は?」
 跳びのいたお陰で相手と距離ができていることと、彼――髪が短いし声が低いから、多分男の人だとは思うけれど――はサングラスをしているから正確な表情はわからないけれど、でも、今明らかに『にっこり』笑ったわよね。
 ……いやあのでも、ちょっと待って?
 今確かに『クリーニング屋』って聞こえたけれど……でも、どう考えたってこんな場所にそんな職業の人は必要ないし、何より、撮影のクルーとも考えられない。
 今回の話にはそんな職業出てこないし、まして――。
「そんな黒尽くめのクリーニング屋なんて、イヤよ」
「それはごもっとも」
「えぇ……? ちょっと。それじゃあ何? アナタはなんなの?」
「でも、クリーニング屋なんですよ」
「……何ソレ」
「すみません」
 口ではそう言いながらも『あっはっは』と笑いながらなので、当然のように信ぴょう性は皆無。
 でも、服装が黒尽くめの上に、足元は編み上げブーツよ?
 当然黒で、言うまでもなく軍隊の人が履いているアレ。
「…………」
 胡散臭さ120%ってところだろう。
 どう低く見積もっても、それ以下にならない。
 サングラスで表情を隠しているところからしても、やっぱり怪しい。
「はっ!」
 ひょっとして、そのコートのポケットに突っ込んでいる手を出したが最後、長いナイフなんかが飛んでくるんじゃ……!?
「……? なんですか?」
「……別に……なんでもないけど」
 なくはないけど。
 いつの間にか彼を睨んだままじりじりとあとずさり始めると、不思議そうに首をかしげてから、不意に畑へ視線を向けた。
「あまり、近寄らないほうがいいですよ」
「え? ……あ、ああ。ここ?」
「ええ。身体にいいとは決して言えませんし」
「は……ぁ?」
 急に何を言うのかと思ったら、何それ。ていうか、どういう意味なんだろう。
 こちらは、いつそのポケットからナイフが出てくるのかと気が気じゃなかったので、つい生返事が出た。
「ただ――」
「っな……何よ」
 少しだけ声のトーンが下がると同時に、彼がこちらへ視線を向けた。
 急に変わった雰囲気に、ごくりと喉が鳴る。
 ……何? もしかして、ついに“そのとき”がきた……!?
 これまでとは違う様子に思わず身構えると、ほどなくして顎に当てていた手を外すとひらひら横に振った。
「いやー、女優さんってテレビで見るよりもずっと細いんですね。何食べたらそうなるんです?」
「……は?」
「ああ、もしかしたらモデル業のほうが本業ですか? いやー、テレビ越しでなく実際にお目にかかるとこうも不思議な感じがするんですね」
「は……はぁ……」
 あっけらかんと言われた突拍子もないことで、構えをとっていた腕から力が抜けた。
 な……んなのかしらこの人。
 なんだかよくわからないけれど、もしかしたら違った意味で『危ない人』なのかもしれない。
「…………」
 となると、長居は無用。接触も最低限に。
「……それじゃ、私はこれで」
「あ、はい。撮影がんばってくださいね」
「どうも」
 そそくさと頭を下げ、一定の距離を保ったまま早々に退避させていただく。
 面倒くさいこともそうだけど、危ないことはもっとそう。
 触らぬ神になんとやら、って言うしね。
 関わらないのが一番だし、このへんで退散するのがベストだろう。
「……なんだったのかしらあの人」
 ていうか、人の気配なんてまったくなかったのに。
 そう。
 まるで、どこからともなく湧いてきたみたいだったのよね。
 後ろからきたみたいだったけど、あのとき私は確実に“ひとり”だった。
 あのあたりは整備されていない道だからこそ、わずかでも踏めば石がはぜるのに。
 なのに……足音なんて、しなかったんだけどな。
「……あー、やめやめ。考えるのはナシ」
 一瞬怖い想像をしてしまい、それを掻き消すように腕を抱きしめたまま首を振る。
 無意識のうちに小走りからほぼダッシュに変わっていたらしく、息が上がりそうになった手前で、目的の建物の入り口が見えてきた。
 腕時計を見たまま、うろうろと所在なさげに歩いているルイが見え、たちまち身体から力が抜ける。
 ああ、よかった。
 大丈夫。さっきのはまだ何もなかった。接触も最小限。何かこちらからアクションを起こしたわけじゃなかったし、情報もいっさい与えていないはず。
「ごめん、お待たせー!」
「あっ! もー、エステル! 心配したんだからね!?」
「ごめんねー。ちょっと迷っちゃって」
 大声で彼を呼びながら手を振ると、私に気づいたらしきほかのスタッフからも『始まりますよ!』なんてまくし立てが飛んできて、慌てて中へ入った。
 だから――私は結局、自称クリーニング屋を名乗った彼がいた方向を振り返ることはなかった。
 きっともう二度と会わないだろうと思ったし、正直、気味も悪かったから。
 ……なんとなくだけど、あの畑と一緒。
 うまく表現できないけれど、なんとなく気持ちの悪いモノだったから、一緒にまとめて忘れてしまえばいい。
 そう思ったからこそ、私は努めて『いつもの日常』へ戻ろうとしていた。


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