「はい、チェックOKです!」
 モニターを見ながら続いていた長い沈黙が、ようやく解ける。
 誰も何も言わずただ見守っているだけの時間は、永遠に続くんじゃないかと思ったほど。
 そういう時間だからこそ、首を捻られたりしたらドキリとするし、いろんな人の表情ももちろん気になるわけで。
 演じている側としては、『ダメだったのかな』とか内心不安にもなってるんだから、できればもっと早く出してほしいんだけど……。
 まぁ、今回の映画の監督さんは“徹底”で有名な人だから、2回でOKが出たのはいいほうだろう。
 あ、でもさっきの雪のシーンは一発だったなぁ。
 あれはきっと、奇跡か何かが起きたに違いない。
 ま、単なる気まぐれってヤツかもしれないけど。
「お疲れさま」
「あ。ありがと」
 顔や腕など、肌が出ている部分に作られた傷のメイクを弄っていたら、ルイが『そんなことしないの』と笑いながらコートをかけてくれた。
 だって、面白いんだもん。
 この傷が1から作られていくのを見ていた私でさえ『うわ、リアル』って思ってるんだから、きっとモニターを通して見る人はもっとそう思うんだろうな。
 あ。でも、膝の傷だけはホンモノだからね?
 多分一番それっぽいって思われるんじゃないかな。
「今日はここで一応終わり……のはずだったんだけど、監督の気まぐれで、次の撮影も少しやっちゃおうってことだから……」
「……気まぐれ、ね。困ったクセだなぁ」
「まあまあ。それにほら、今日はまだ早く上がれたからいいじゃない」
「まぁね」
 渡してくれたミルクたっぷりのコーヒーを飲むと、目の前にふわりと蒸気が立った。
 やっぱり、こういうところで飲むなら温かいというより、熱いくらいのほうがおいしい。
「それで、次はどこに行くの?」
「今度は海だって」
「え、それって寒い地域の?」
「だね。今回の話は冬メインだから」
「うわー」
 雪の中の撮影より、水関係プラス極寒ってすごくイヤだ。
 だって、寒い上にさらに冷たい水触らなきゃいけないんだよ?
 確か、さすがに水に入るシーンはなかった気がするけれど……でも、やっぱりイヤだ。
 仕事だから我侭言っちゃいけないのは当然だけど、でもねぇ。
「…………」
「あ、大丈夫だよ。ロケバス、あったかいから」
「ロケバスが暖かくても、下りたら風すごいんでしょ? 寒いんでしょ?」
「え? ……う……うん。そういえば……そう、だね」
「イヤだ」
「え、エステル!」
「ルイ、私の身代わりやって」
「えぇ!? ボクじゃ無理だよ!」
「それじゃあせめて、この仕事が終わったら温泉のロケをとってきて」
「えぇー!? だって、この次はCMの撮影だから……あぁっ、また海だよ?」
「えーー」
「……うぅ、え、エステルぅ」
 あからさまに表情を崩しながら大きな声をあげると、周りのスタッフがくすくす笑いながら振り返った。
 みんな、ルイの反応が面白いんだろう。
 私がワザとそうしてるって知らずに慌てているのは、いつでも彼だけだから。
 ……面白いなぁ。
 彼が手帳を叩くたびに、ピコピコとエラー音とウィンドウがいくつも開いてしまい、一層慌てる。
 音が消えたと思ってはまた響き、消えては出ての繰り返し。
 あまりのことに、本人もどうしようかとかなり戸惑っているのがわかって思わず苦笑が漏れた。
「しょうがないなぁ。それじゃ、次の撮影のときは近くにおいしいクレープショップを探しておくってことで、引き受けてあげるわよ」
「ホント!? あ、そういうのならねぇ僕得意だよ!」
「知ってる。ルイってホント、甘いもの好きだもんね」
「えへへー。まかしといてよ! 絶対にエステルが気に入るお店見つけておくから!」
 さすがにこれ以上引っ張ったら本気で泣いてしまいそうなので、ひらひらと手を振って終了の合図。
 それを知っているリラさんだけは、盛大に噴き出すと不思議そうな顔をしたルイに『なんでもない』と首を振った。
「あ。そういえば、私のポーチって今持ってる?」
「ポーチ?」
「うん。ほら、コレくらいの花柄の……さっきの撮影のあと渡したよね?」
 コートを羽織りなおしてからルイを振り返り、両手で大きさを示してやる。
 すると、エラー音がようやく消えたらしい手帳を鞄へしまったところだった。
「うんと……え? これ?」
「そっちじゃなくて。ほら、さっき手鏡を出したアレよ。ルイに預けたよね?」
「へ!?」
 別に、彼を困らせようとして嘘をついているわけじゃない。
 撮影の合間にルイから受け取ったポーチは、ふたたび彼へ手渡したんだから。
 まあ、確かにあのときは、なんだか少しだけ忙しそうだったけど……。
「あ。ほら、サンドイッチ食べてたときよ。あのとき、渡したじゃない」
「…………」
「…………」
「……あぁああー!!?」
「っ……何よぅ」
「ご、ごごごごめっ……ごめんエステル! そうだ、そうだよ! 確かにあのとき、ボク……エステルから受け取って……うわわわ、ど、どうしよっ。どうしよう! 置いてきちゃった!」
「えぇー!?」
「どうしようーー!!? エステル、本当にごめん! ごめんね!?」
「ご……ごめん、って言われても……」
「うわあ、うわ、どうしよう……!? どうしよう!!」
 見詰め合うこと、数秒。
 唐突に『あぁ!!』と手を叩いた彼は、叫びながらパニック状態に陥った。
 ……もー。
 ルイは、いつもこうだ。
 ホントに私のこと大切に思ってくれてるのかしら……。
 おおかた、自分がサンドイッチを食べるのに邪魔だから、その辺にぽーんと置いてしまったんだろう。
 それで、シーンが変わって移動するときになっても、思い出さなかった……と。
 ま、手に持ってなければ忘れるわよね。
 ルイならばありえる。というか、そうだ。絶対そうに違いない。
「……もー。仕方ないなぁ。いいよ、私取って来るから」
「えぇ!? だ、ダメだよそんな! だってほら、もう、バスまで来ちゃったし!」
「大丈夫よ。建物まで、走ればすぐだし。それに……場所、覚えてないでしょ?」
「うぐっ」
「やっぱり」
 いたずらっぽく笑いながらくりくりと人差し指を向けると、案の定痛いところを突き刺されたみたいな顔をして、ルイが言葉に詰まった。
「それじゃ、取って来るね」
「あっ! エステル!!」
「大丈夫よ、すぐ戻るから。それより、こんな所に置いていかないでね」
「ダメだよ!! 危ないってば!」
「だいじょうぶー!」
 こちらへ手を伸ばしたまま首を振り続けるルイに背を向け、ひらひらと手を振りながら白い建物へと駆け戻る。
 アレは確か、1階の部屋だったわよね。
 といってもまあ、建物の造りがちょっと変わってるから、入口があるフロアが2階になるんだけど。
 ……そういえば。
 撮影中はもちろんだけど、やっぱりあの『自称クリーニング屋』のあの人はこれっぽっちも見かけることはなかった。
 でもま、当然よね。
 だって外見からしてものすごく危ない人っぽいし、言動だって怪しかったもん。
 きっと、スタッフの誰かに見つかってつまみ出されたとか……はたまた、工場の警備員につまみ出されたとか……そんなところなんだろうな。
 うん。そうしておこう。
 だって、そうでも考えておかないと、もしもあの場所に戻ったときに会っちゃったら、困るじゃない……?
「……っ……」
 って、なんでこのタイミングで思い出すのよ。
 我ながら自分がイヤになるけれど、でも、あのポーチは大事だし……。
 デビュー前から使ってる物だから、愛着もあれば使い勝手もいい。
 中身だって――。
「ああもうっ!」
 どうしてかあの人がポーチを手にしている姿しか想像できなくて、ぎゅっと唇を結ぶ。
 ああもぉ……こうなったら仕方ない。
 会っちゃったら、倒そう! うん、それがいい!!
 きっと見た目に反して非力な人なのよ。実は私のほうが強いかもしれないし。
 うん、そうだ。そうに違いない。そうしよう。
 うんうんと自分を納得させるように何度も何度もうなずいてシャドウパンチを繰り出すと、不安になっていた気持ちが徐々に落ち着いたような気がした。
 建物の入り口は、すぐそこ。
 ぱっと入って、さっと回収して、だっと戻ろう。
 ついでに、そのシミュレーションも繰り返しながら。


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