「……何これ……」
 さっきまでの勢いは、いったいどこへ逃げ隠れてしまったのか。
 や、ていうか、私もできれば逃げてしまいたい感じ。
 ここはまだ、あの建物の入り口から入って3歩ほど進んだだけのところ。
 なんだけど……。
「イヤな感じ……」
 眉が寄ると同時に、自然と小声になる。
 入る前から、なんとなくそんな気はしていた。
 変な感じというか……気持ち悪いというか。
 そう!
 言うなれば、あの畑を見たときと同じような、あんな感じだ。
 違和感というか、むしろそんな言葉じゃ片付けられないような気持ち悪さが、べたべたと身体に張り付いているように感じる。
「…………」
 どうしよう。
 入ろうか……って、もう入っちゃってるんだけど、でも、ポーチを取りに行くのは……危険なんじゃないか。
 そもそも、この建物の雰囲気自体がさっきまでとはまるで違うだもん。
 本当にこの建物は、さっきまで私たちが撮影していた建物なんだろうか。
 壁に走るいくつもの亀裂。
 それも、小さなものじゃない。入ればまず気付くほどの長く大きな亀裂が、ビシッと壁に斜めに入っている。
 それだけじゃない。
 さっきまでは、真っ白くてそれこそ病院の雰囲気にぴったりだった壁が、今では大きなペイントやスプレーでの落書きがされている。
 ……落書き、なのかな。
 どれもこれも意味を成す言葉だからこそ、正直言って怖い。
 『汚染』、『逃げる』、『禁止』
 ほかにももっとたくさんの言葉が書かれているけれど、そのうちの幾つかは壁ごと剥がれ落ちていたり、はたまた塗りつぶされていたりして読むことができない。
 え、ちょっと待って。どういうことなの。
 こんなペイント、さっきは気づかなかった。
 いいえ、気づかないレベルじゃないわ。明らかに目に入らなかったもの。
「…………どういうことなの……?」
 あれからまだ1時間も経っていない。
 にもかかわらずこの変貌は、なんだ。
「っ……」
 いくつもある落書きを見なければよかったのに、怖いもの見たさでついあちこちの壁へ視線を向けてしまった。
 それがいけなかったのに。

 『帰れ』、『返して』

 壁に書かれている大きな、赤い文字。
 そして、その言葉の近くには決まって“汚染”を示すマークが書き殴られていた。
 なんなのココ。
 さっきは、こんなのひとつもなかったのに。
 ……そう。『なかった』んだ。
 こんなふうに荒れている様子もなければ、イヤでも目に入るほどの文字もない。
 だって、壁一面に書かれてるんだよ?
 気付かないわけがない。
「……建物、間違えたのかな」
 造りや建っている場所自体はさっきと同じだけど、雰囲気がまるで違うためにそんな気すらした。
 むしろ、そうだったらどれほどいいか。
 正直、あまりにも違いすぎて自分で自分を疑ってしまったほうがよっぽど楽だ。
「っひ……!」
 ジャリ、と小石を踏んだ音がやけに大きく響き、情けない声が漏れる。
 慌てて両手で口を塞ぎ、乱れた呼吸を整えながら慎重に慎重に進んでいく……と、下に降りる階段が目に入った。
 さっきまでは、何も考えることなく上ったり下りたりできたのに。
 ……やっぱり、もしかしたらひとりで来たのは間違いだったのかもしれない。
 ああ、そうか。そういうことなんだ。
 さっきまではあんなに大勢でこの場所にいたから、何も不安に思わなかったんだ。
 だけど今は、私以外に人の気配がしない。
 だから、いろんなことを考えすぎて、不安になって――。
「っいぇ……!?」
 荒れている様子も一面の落書きも一切無視して気持ちの問題で締めくくろうとした矢先、左側に見えた部屋のような場所に、男の人がふたり居るのに気づいた。
 ……び……びっくりした。
 っていうか、あれ?
 さっき、こんな所に部屋なんてなかったよね?
 “部屋”と呼ぶにはドアもなければ仕切りもないただの空間みたいな所だけど、ふたりは膝丈の小さなテーブルを挟んで座っているから、まぁ、一応部屋に見えなくもない。
 やたらゴツくて、人相もよくない……怖そうな人たち。
 私が声を上げても何も言わないってことは、もしかすると私が入って来たときから気付いていたのかも。
「…………」
「…………」
 じぃっと見つめられたまま何も言われないのは、ある意味怖い。
 ……まぁ、ヘンに声をかけられても怖いんだけど。
「え……えっと……あの。……ポーチを忘れて……」
 別にやましいことはないし、彼らに何か言われたわけでもない。
 だけどなぜか、ここに入ってきた言い訳をするかのように両手を所在なさげに弄りながら、そんなことを口走っていた。
「…………」
 でも、ふたりは私に何も言うことなく、ふいっと視線を戻してしまった。
 何やら、テーブルの上に置かれている紙のようなものを見ているらしく、ぼそぼそとした話し声は聞こえるけれど、どうやら私からは意識を外されたようでもある。
 ……いい、のかな。入っちゃって。
 って別に何も言われてないし……いいのよね……?
 さっきとは違って完全無視をされてる状態だけれど、これはこれでわずかに不安は残る。
 でも何も言わないし……ね。一応私の目的は言ったんだから、止められないってことはオーケーってことなんでしょ。
「……お邪魔します」
 小さく小さく呟いてから恐る恐る歩を進めてみるけれど、あのふたりは振り向くこともなかった。
 もしかしたら、私と同じように勝手にここに入って来た人なのかもしれない。
 …………。
 え、犯罪者……とかじゃ、ないよね?
 歩くたびに、ジャリジャリと響く音で恐怖心を煽られたのか、そんな怖い考えが浮かび頬が引きつった。
 ちっ……違う。違う違う違う! そんなことない!!
 大丈夫!!
 だけど……でも……万が一、とか……?
「っ!」
 ぞくりと背中が粟立った瞬間、振り返ることもできず猛ダッシュで階段を駆け下りると、一目散にポーチがあるであろう場所へと駆けていた。

「は……ぁ、はぁ、は……、あ……くるし……っ」
 近くにあった壁へもたれて咳き込み、荒い息を整える。
 右手には、ポーチ。
 やっぱり、思っていた場所にちゃんとあった。
 周りの景色は、さっきまでと全然違うのに……ね。
 でも、それでハッキリした。
 やっぱりここは、さっき撮影で使った建物に間違いないんだ、って。
「…………」
 曲げていた腰を戻して背を正し、耳を澄ませる。
 だけど、何も音はしない。
 代わりに、キィンという金属音みたいなのが聞こえるほど。
 誰もいない、のよね。
 崩れた壁や書き殴られた文字は相変わらずだけど、でも、それ以外は撮影のときと変わっていない……みたいだ。
「……戻らなくちゃ」
 ぎゅっと両腕を抱きしめると、ちょっとだけ緊張が緩んだような気がした。
 けれども、この場所が気持ち悪いことに変わりない。
 さっきの人たちの素性もわからないし、この建物の変わりようも……やっぱり『異常』だ。
 …………。
 ……ああもうっ。
「っ……」
 浮かんでしまった嫌な考えを払うように首を振り、ポーチを抱きしめながら元来た道をまたダッシュで戻ることにした。
 ルイと別れてからそんなに時間も経ってないけれど、でも、万が一こんな場所に置いていかれでもしたら大変だ。
 ひとりじゃ絶対に戻れない。
 それこそ、愛しい愛しい我が家に1秒でも早く戻りたくて――というか、誰か知っている人がいる場所に今すぐ帰りたくて、ちょっとだけ涙が浮かんだ。
 こんな場所、やっぱりひとりで来るんじゃなかった。
 でも、ルイだったらきっとポーチなんて見つけられずに、入り口ですぐ退散よね。
 きっと『おかしいよ! あの場所ヘンだよ!』って涙ながら言うに違いない。

「――――……!」

「ッなっ……!?」
 そんなルイの姿が浮かんでちょっとだけ顔がほころびかけた、瞬間。
 遠くから聞こえた、ガタンという音と子どものような声に、びくりとその場を飛びのいていた。
 な……何……? 何、今の。
 確かに今、何か聞こえた。
 笑い声みたいな……子どもの声みたいな、そんな感じの音が。
 ……このフロアだったよね……。
 階段はもう少し先だし、それに、ひとつひとつの部屋自体そんなに広くないみたいだから、なんとなくだけど方向は掴めた。
 って、別に掴めたとはいえ『確かめに行く』選択肢はないんだけど。
「…………」
 ぎゅうっとポーチを抱きしめ、どくんどくんと大きく身体に響いている鼓動に、奥歯を噛み締める。
 怖いもの見たさ、ってワケじゃない。
 ワケじゃないけれど……やっぱり、なんか、イヤ……じゃない?
 もしも『誘拐』とかだったりしたら……ねぇ。
 このままここを立ち去ってしまったら、見捨てるのと一緒になってしまう。
 やっぱりあの人たち、悪い人か何かなのかな……。
 さっき、入り口で見たミリタリーパンツを穿いている男の人たちがふたたび頭に浮かび、ごくりと喉が鳴った。
 ちょ……ちょっとだけ。
 ほんのちょっとだけ、こう……ね? ちょこっと、見るだけ。
 柱の陰から、ちょこーっと……こっそり? 見るだけ。そう。見るだけだから。
 それでもし誘拐とかそういう事件的な何かの雰囲気があったら、一目散に逃げたあとで通報するから。
 恐怖からくる好奇心もあいまってごくりと喉を鳴らすと、なぜか勇気という名のちょっとした力が身体にみなぎった気がした。


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