「…………」
 曲がり角のたび息を潜め、そっと奥を伺ってから――顔だけを出して先を確認する。
 こうして進んできた距離20m弱。
 振り返ればさっき声を聞いた場所が見えるから、まだまだ先は長そうだ。
 ……でも、本当にあれは子どもの声だったんだろうか。
 もしかしたら、外で誰かがふざけている声が、そう聞こえただけなんじゃ?
 恐怖と、そして『そうであったらいい』と思っている気持ちから、どうしてもそんなふうに考えたくなる。
 …………。
 やっぱり、帰ろうか。
 みんな待ってるし、それにやっぱり、怖――
「っ……!!」
 そんなことを考えた瞬間、また、あの声が聞こえた。
 甲高い、子どものような笑い声。
 それが無邪気にフロアへ響くその恐怖たるや、筆舌しがたい。
 ……う……。なんか、足がすくむ……。
 ジャリジャリっと靴を滑らせてあとずさりながらも、やっぱり、最初にくる感情は『恐怖』そのもので、怖くて怖くて逃げようにもうまく足が動かなくなってしまった。
 刹那。

 ぐいっ

「っひ……!」
 ぽん、ではなく、どちらかというと、がしっと後ろに引っ張られるような力で肩を掴まれた。
「ッきゃぁああぁあ!!!」
 思いきり叫んでしゃがみこみ、咄嗟に両手で頭を抱えるように耳を塞ぐ。
 イヤだ、イヤだ、イヤだっ……!
 やっぱり、こんなことしなければよかった。
 声が聞こえても、そのまま放って逃げ出せばよかったんだ。
 だって、そうすれば今ごろ、こんな所で殺されたりせずに大人しく帰れたのに!
 無事にお家へ帰れたのに……っ!!
「イヤぁあっ……!」
 半泣き状態で首を振り、ぎゅうっと肩を掻き抱く。――と。
「……なんて声出すんですか……」
「…………へ……?」
「あー……。まだ耳がちょっと」
「…………」
「…………」
「あぁあああ!!?」
 まったくこの場にそぐわない雰囲気の声で振り向くと、耳に手を当てて何やら迷惑そうな顔をした黒い人が立っていた。
 く……忘れもしないわよ。
 このとぼけた顔というか、何も考えてなさそうなぽやぽやしたサングラス男!!
 てっきり、肩を掴んできたのはさっき入り口にいた屈強な男の人たちだと思っていたから、拍子抜けしつつも、その反動で怒りが込み上げてきた。
「ちょっと! 何よアナタ!!」
「はい?」
「はい、じゃないわよ!! 何してるの!? こんな所で!!」
 勢いよく立ち上がって指をさし、キッと睨みつける。
 けれども彼は、あの畑で会ったときとまったく変わらない雰囲気そのままに、まるで降参を示すがごとく両手のひらをこちらに向けた。
 その様子がまるで、『少し落ち着け』とでも言わんばかりに思え、無性に腹が立ってくる。
 そりゃ、確かにびっくりさせようと思ってやったわけじゃないだろうけど、でも、ものすごくびっくりしたんだから腹の虫だってそう簡単にはおさまるわけがない。
「……ふぅん……。何よ、2対1ってわけ?」
「はい?」
「大の男が寄ってたかって、女ひとりにふたりも揃うの? ……しかも、おんなじ黒尽くめの格好しちゃって」
 すっと瞳が細くなったのは、相手が予想に反してふたりだったから。
 さっき畑で会った彼の後方少し離れた場所にもうひとり、同じく黒づくめの格好をしている人が見えて、舌打ちする。
 さすがに、2対1じゃ敵わない。
 後ろの男性はサングラスをしてないからハッキリと顔が見えるけれど、手前ののほほんな彼は依然として何を考えているかわからなかった。
 だから、厄介なのよ。
 目を見れないと、どう行動するかまったく読めないから。
 それこそ、動きようがなくなってしまう。
「……怪しいわね。アナタたち、誰? いったい何が目的なの?」
「いえ、ですから。何度も申しあげていますが、しがないクリーニング屋でして――」
「だから! そうじゃなくて!」
「……うーん。ですが、本当に怪しい者では……」
「十分怪しいのよ! って、近づかないでったら!!」
 首を振って苦笑を浮かべた彼がこちらへ手を伸ばしたのを見て、ざっと後ろへ飛ぶ。
 護身術なんてかじってすらいないけど、型だけは、これでも女優の端くれ。
 ちゃんとしたプロに稽古つけてもらったんだから、それっぽくは見える。
 ほんの少し。少しだけでいいから、これで相手が怯んでくれればそれでよかった。
ていうか実際、それ以上のことなんて私にはできないんだから。
「クリーニング屋だかなんだか知らないけど、そうじゃないの! 私が聞いてるのは、職業ってことよ!」
「クリーニング屋って、十分職業じゃないですか?」
「っだから! どこの世界に、そんな黒尽くめのアヤシイクリーニング屋がいるって言うのよ!!」
「いるじゃないですか、ここに」
「ちがーう!」
 はっはっはと軽快に笑われて繰り返されるのは、同じ答え。
 堂々巡りってこういうことを言うのかしら……。
 腕を曲げて身体よりも前に突き出したままの状態から、力が抜けそうになる。
「……でも」
「っ、何よ」
 急に目の前の彼が何か思わくげに顎に手を当て、うーんと唸った。
 ……?
 あまり明るくない屋内のサングラス越しだからよくはわからないけれど、外していた視線をぴったりと向けられて眉が寄る。

「どちらかというと、あなたのほうが怪しいですよ?」

「……え?」
 いきなり、何を言い出すんだろう。
 アヤシイって……え、私が?
 意味のわからないことを急に言われてぱちぱち何度もまばたきをしながら眉を寄せ、一層訝しげに彼を見つめる。
 だけど、まるで私のそんな素振りを気にもしていないかのように、彼は口元を緩めてからくすくすと笑った。
「ずっと見てましたけど、こそこそしてて……実は泥棒なのかと思いましたよ」
「んなっ……!」
 突然言い渡された言葉は、あまりにも想像の範疇を飛び抜けていた。
「きょろきょろ周囲も気にしてましたし、足の運びなんかも……なんとなく手練(てだ)れた感じがありましたし」
「う。そ……それは……」
「図星なんですか?」
「違うわよ!!」
 いったいいつから見られてたのかはわからないけれど、きっと口ぶりからして一部始終なんだろう。
 でも、指摘に反論できずにいたからって、まるで『犯人』扱いをするのはどうかと思う。
 失礼しちゃうわ。
「っていうか、アナタ!」
「はい?」
 なんとなく分が悪い気がして何か言ってやろうと人差し指を再び向けると、きょとんとした顔であたりを見回してから、芝居がかった演技よろしく自分で自分を指差した。
「ずっと見てたって言ってたけど……何よ。やっぱり怪しい人なんじゃない!」
「……はい?」
「だって、そうでしょ? いったいどこから見てたのか知らないけど……でも、人のことをずーっとつけ回すみたいに見てるなんて、気持ち悪いわ! それこそ、犯罪よ! 犯罪!!」
「あー……確かに、言われてみればそうかもしれませんね。すみません」
「え」
 あっさりと非を認めた上での謝罪。
 てっきり違うとかなんとか言葉巧みに言いくるめられるんじゃないかと思っていたから、拍子抜けだ。
「……って、だから! そうじゃないの! あ、謝ったって遅いんだから! アナタたちが怪しい人だってことは、言い逃れできな――って、ちょっと!」
 滑舌よく、それはそれは懸命に頭の中でセリフをまとめていたのに、彼は不意に天井を見つめたかと思いきや、こちらへなんの躊躇なく歩を進めた歩いて来た。
 一瞬びっくりして反応ができなかったけど、でも、またサッと先ほどと同じような拳法の型を取る。
「こっ……来ないで!」
「いえ、あのですね」
「それはこっちのセリフよ! やっ……そ、それ以上近づいたら、痛い目に遭うわよ!?」
「そうなんですか?」
「そっ、そうなのっ!!」
 スタスタと歩いてくる彼との距離を保つべくあとずさるものの、どうしたって歩幅が違うから、一気にすぼまった。
 っ……ここに来て、急に行動に出るなんて……!
「や、やめてっ! それ以上来たら、本当にっ……ホントに――!」

「危ないですよ」

「っ、え……!?」
 一瞬。
 本当に、瞬きをするような……ほんの一瞬のことだった。
「……ッ……!!」
「だから、危ないって言ったじゃないですか」
「な……っ」
 ぐいっと強い力で手を引かれ、否応なしに身体が瞬時に移動した。
 その、直後。さっきまで私が立っていた場所の天井が崩れ、分厚い破片が音を立てて床に穴を開けたではないか。
「ひぇ……」
 砂塵が舞い上がる光景を目の当たりにしてしばらく経ってから、ようやくことの重大さがひしひしと身に沁みてきた。
 ……な……んで……。
 音なんて、聞こえなかったのに。
 崩れる前触れなんて、何ひとつなかったのに。
 なのにどうしてこの人は、崩れることを予知したんだろう。
「あまり、ひとりでうろうろしないほうがいいですよ?」
 ここ、意外と脆い箇所多いですから。
 そう言ってにっこりとすぐそばで笑った彼は、やっぱり何を考えているのか読めないような口調で首をかしげた。
 ……でも。
「そ、そうね……」
 つぅっと嫌な汗が背中を伝うと同時に、どっと全身に冷や汗をかいた私には、乾いた笑いを精一杯浮かべることしかできなかった。


ひとつ戻る  目次へ  次へ