「……アナタって、本当に何者なの?」
 つい先ほど、崩落した場所から少し離れた曲がり角。
 そこへ彼らと一緒に身を潜めたところで、ようやく口が開く。
「クリーニング屋ですが?」
「…………またそれ」
 壁にもたれたままもうひとりの人と話し込んでいたサングラスの彼は、振り返るなりまた同じセリフを口にした。
 彼が連れ立っている男の人は、床に小型のトランクを開いたまま何か作業をしている。
 ちょうど、作られた死角でちゃんと見ることはできないけれど、さっきちょっと覗いたら、機械みたいな物と書類、そして幾つかの小瓶が入っているように見えた。
「はー……わかった。じゃあ、質問を変えるわ」
 多分、何度同じことを聞いても彼は『クリーニング』だと答えるだろう。
 なんとなくそんな気がして、ため息が漏れる。

「アナタのナンバーは、何?」

 バッ
「っ……!!」
 重たい音が聞こえたのは気のせいではなく、当然比喩でもなんでもなく、実際に目の前で瞬間的に起きた。
 な……によ、これ……ぇ。
 まったく躊躇なく金属音が響き、背筋が凍る。
 先ほどまでトランクを弄っていた男性が、急に身体ごとこちらを向いたのだ。
 いつの間にか、鉛色の鈍く光る銃をこちらに向けて。
 ……な、んなのよ……!
「ちょ……っと待ってよね……! 私は何も、悪いことなんかっ……!」
 咄嗟に両手こそ挙げたものの、ふつふつとした怒りにも似た感情が沸き上がり、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
 この国では“防衛”のための銃の所持は合法だ。
 けれど、そんなに身近に存在しているわけではなく、私の周りでは所持している人のほうが少ない。
 警察や弁護士など、身に危機を覚えるような職業の人間は持っていてもおかしくないだろうけれど、でも……待ってよ、何よそれ。
 ていうかやっぱりアナタたち、ただのクリーニング屋なんかじゃないじゃない……!
「……っ」
「失礼しました」
「なに、よぉ……」
 サングラスの男性がわずかに唇を動かしたかと思いきや、びったりと向けられたままだった銃口が、ゆっくり下ろされた。
 へなへなと身体から抜けた力に逆らえず、崩れるようにお尻を付く。
 だけど、彼はただ苦く笑うだけだし、銃を向けた人はこっちを見もしなかった。
「やっぱり……っ……やっぱり、クリーニングなんて嘘じゃない! ウソツキ! 卑怯者っ!」
「この状況では、何を言われても仕方ないですね。……すみません」
「うー……もう、なんなのよ……!」
 緊張が緩んだせいか涙が浮かび、慌ててしばたたく。
 でも、悔しいのは当然。
 彼をにらみつけると、もう一度『すみません』と言って頭を下げた。
「ですが、こちらとしても驚いたんですよ? 急に、ナンバーがどうのなんて仰るんですから」
「……だって、しょうがないじゃない。気になったんだから……」
 実は、さっき天井が崩れたすぐあとで、もうひとり黒尽くめの人間が合流したのだ。
 でも、その人だけ違和感があった。
 その原因は、ほかのふたりとは随分違う華奢な雰囲気。
 声は聞こえなかったけれど、手振り身振りから、もしかしたら女性だったんじゃないかと思う。
 ……でね?
 そのとき、キラっと彼女――多分、だけど一応――の胸元で光った物があって。
 何かと思ってじぃっと観察していたら、どうやらバッシのような物だとわかった。
 ひとことふたこと交わした彼女は、そのあとすぐに場所を離れたんだけど……でも改めて男性ふたりの胸元を確認したら――あったのよ。
 ふたりとも重たそうな黒いコートを着込んでいたからわからなかったけれど、その下の服の胸元に、彼女に見たのと寸分違わない丸いシルバーのバッジが。
「……たまたま見えちゃったんだから、しょうがないじゃない」
 これじゃあまるで、拗ねた子どもだ。
 唇を尖らせて視線を外した私を見て苦笑を浮かべる彼には、何も言えない。
 確かに、こんな不可解な状況下だし、気付かない人は気付かないだろう。
 私だって、彼女が来なければ気付いてなかったはずだ。
 でも、彼女だけはほかのふたりと違ってコートが少し大きいらしく、立ち上がったときに膨らんだせいでバッジが光ったから、たまたま目に付いたようなもの。
 自然にしていたら、まったくわからない。
 少なくとも、今、目の前のふたりのように振舞われたら。
「……アナタ以外の人には、バッジにナンバーが刻まれてた。さっき来た人は、『FY』。そして――その人は、『FV』」
 じぃっと目の前の彼を見つめたままだったけれど、その向こうにいる男性のことを口にするときになったら、なぜか小声になった。
 って、さっき本当に怖かったせいよね。
 そのせいでヘンな遠慮ができてしまった。
「でも、アナタだけは数字がない。……だから、どういうことなのかな、と」
 ……そう思っただけなのに。
 相変わらず、ぶちぶちと文句を言うように続けると、また彼が『すみません』と口にした。
 ……うー。
 少しだけ笑うのを堪えているような表情からして、もしかすると私はまだ泣きそうな顔をしているのかもしれない。
「それでアナタは、何番なの? Fいくつ? ていうか……そもそも、その『F』ってなんなの?」
 いつまでも推し負けているわけにはいかない。
 そもそも、この人たちがただの『クリーニング屋』じゃないことが明らかになった以上、敵か味方かもわからないのよ?
 そりゃ確かに、さっきは……私が怪我しそうになったのを、未然に防いでくれたけど……。
 だけど、見たところその『F』って刻まれたバッジ以外は目立った物もないし、警察や公的機関の章もない。
 だから、危害を加えられない保証があると判断するのは尚早でしかないだろう。
 それこそ、さっきだって危うく殺されるところだったんだから。
「……わかりました」
「え?」
「正直、そこを突かれたのは初めてなので……ね」
 ゆっくりとうなずいたのは、どういう意味だったんだろう。
 でも、小さく笑った彼は、コートを少しだけ手でつまむと隠れていたバッジを見せてくれた。
「実はまだ僕はナンバーを与えてもらえてないんですよ」
「……え?」
「ほら。ないでしょう? ナンバー」
 ご丁寧に指差されたバッジをしっかと見つめると、確かに……そこには、『F』に続くナンバーが刻まれていなかった。
 でも、その代わりに『S』という文字が刻まれている。
「じゃあ、それは?」
「え?」
「確かに、ほかの人と違ってナンバーはないけど、でもアナタだけ『FS』なんて……ちょっと特別なんじゃないの?」
 瞳を細めて、彼にとって痛いんじゃないかと思える所を突いてやる。
 ……が。
「あはは。これは、単なる『salesman』の『S』ですよ」
「セールスぅ?」
「ええ。クリーニング屋ですから。あ、これでも営業担当なんですよ?」
「………まだ言う」
「本当のことです」
 おかしそうに笑われ、悔しいよりも逆に恥ずかしくなった。
 ……何よそれ。
 ある意味の自信を持って言っただけに、反動が大きい。
 絶対、何かしら意味があると思ったのに……なんだか、拍子抜けだ。
「それにしても……そうですか」
「何よ」
「いや……エステルさんって、意外に鋭いんですね」
「失礼ね! どういう意味よ!」
「あはは、すみません」
 感心するみたいに顎に手を当てて『ほお』なんて言われたのが頭にきて、大声とともに立ち上がっていた。
 それでわかったんだけど、どうやら彼の後ろの人は、何やらヘッドフォンを耳に当てて作業していたらしい。
 ちらりと視線を向けられて慌てて口に手を当てると、何ごともなかったかのようにまた作業に戻ったのが見えた。
「……え?」
 そんなときだ。
 ほんの一瞬だけ何か聞こえた気がしてあたりを見回すと、サングラスの彼が立ち上がって――左前方を見つめた。
 ちょうど、ここは廊下の曲がり角になっているので、その方向は丸見え。
 だから何かあるのかと思ったんだけど……私には、何もない静かな空間が広がってるようにしか見えなかった。

「一室確保。及び、未開者5名、目視確認完了」
「了解。踏み込まず、待機」

 普通だった。
 それこそ、目の前にいる私と喋るくらいの声量で、彼は唇を動かした。
 正面を向いたまま、何か特別なことをするでもなく……両手をコートのポケットへ突っ込んだままで。
「…………」
 さらり、と聞こえた言葉。
 でも、そのときの彼の顔は、今まで私に対していたモノとは――ううん。
 これまで、私に一度も見せたことのないような表情で、思わず喉が鳴った。
 ……本当に、さらり、と。
 真剣というよりは、むしろこのほうが自然といった感じの顔。
 …………。となると、やっぱり私に見せているモノはすべてワザとなんだろうな。
 自然とそう考えがまとまり、しげしげと彼の横顔を見つめたまま唇が開いた。

「……レジェスト・ベル」

 バッ!
 また。……まただ。
 さっきの。あの――銃を突然向けられた、あのときと同じ反応がまた起きた。
「え……?」
 驚いたというよりは、まるで何か異質なモノを見るような表情をふたり同時に向けられて、自然に口元へ手がいく。
「…………」
「…………」
「…………」
 誰も何も言わず、ふたりは相変わらず私を振り返ったままの表情。そして、光景。
 先ほどと唯一違う点と挙げるとすれば、今回は銃を向けられていないということだろうか。
「……え……? あの……何か、悪いこと言った……?」
 ぽつり、と自然に出てしまった言葉。
 あれはむしろ、私にとっての『反射』だと言ってもいい。
 なぜならば、彼が今“誰か”と話したときに遣った言葉は、幼いころ父に教え込まれた言葉だったからだ。
 あれは、私にとっての日常。
 確かに、わかるといっても日常会話程度かもしれないけれど、でも、耳に入れば考えるまでもなく自然に意味が浮かぶ。
 だから、他意なんてなかった。
 これまで聞く機会なんてほとんどどころか――父以外の人からは聞くこともなかった言葉だけに、なんとなく懐かしいような……嬉しいような、そんなことを感じたせい。
 だから、勝手に身体が反応した。
 ただそれだけ、だったんだけど。
「…………」
 予想外の反応。
 まさに、『意外』ってやつだ。
 でもまさか、名称を口にしただけでこれほど反応されるなんて思わなかった。
「……ふ……」
「っ……な……何よ」
 手のひらで口元をしっかり押さえたままふたりを代わりばんこに見つめていると、驚いたように口を開いていたサングラスの彼が、一変して――なぜか笑い始めた。
 意味がわからなくて、気分が悪くなる。
 どうして笑われているのかもわからなければ、なぜ彼らがここまでの反応を示したのかもわからないっていうのに、こんな……ああなんだろう。
 気分が悪いというよりは、そう。
 この建物に入ったときと同じ、なんとなく“嫌な感じ”がした。
「ちょっと! なんなのよっ! 私、別に……っ別に、何もおかしな――」
 とはいえ、笑われたままなのは単に悔しくて、この雰囲気を跳ねのけるべくあえて強い口調で彼を見上げる。
 すると、まるで『違う』とでも言わんばかりに、彼は手袋をはめたままの手のひらを突き出すと左右に振った。
「エステルさん」
「……何よ」

「あなたこそ、いったい何者なんですか?」

「……っ」
 まだ、口元には笑みがある。
 だけど、まっすぐに私を見つめたサングラスごしの瞳だけは、笑っていないように見えた。
 まるで、私のことを可か否か見定めているような……なんとも居心地の悪い雰囲気に、ごくりと喉が鳴る。
「バッジといい、レジェストといい……ただの女優さんとは考えにくいですね」
「……別に、それは……」
「バッジの件は、まぁ、ありえないこともないでしょう。……ですが、今のは違う。憶測もハッタリも通用しない」
「…………」
「アレだけは、明らかに『知っている』人間でなければ、口にしない言葉です」
 口調は穏やかなのに、一歩こちらへ踏みこまれた途端、ぞくりとした恐怖にも似た感情が背を走った。
 ……殺されたりは……きっと、しないだろう。
 でも、何か。
 何か、そんなものとは違う次元の何かが、迫っているような気がして恐怖を覚えた。
「一瞬を逃さない洞察力。そして、一般に知られることも話題に上がることも決してないのに、言い当てた古い隠語」
 ジャリ、とブーツが小石を踏み、砕ける音がした。
 まっすぐに見つめられた瞳はなぜか逸らすことができず、見つめ返したままで喉を鳴らすしかできない。
 ……きっと、外したら……いけない。
 直感というか本能というかがそう告げていて、あとずさりながらも、私はそれに従った。
「改めてお聞きしましょう。あなたは、誰なんですか?」
 静かな口調での、詰問。
 これまでどんな経験の中でも味わったことのない“今”に、身体が拒否反応を示す。
 ……怖い。逃げ出したい。
 あのとき――あの、入り口で味わったモノなんかの、比じゃない。
 本当に、怖い。
 怖くて怖くて、たまらない。
 全身が『いけない』と警鐘を鳴らしたのは、恐らくコレが初めてだ。
 ……やっぱり、あの笑顔も口調も……作りものだったのね。
 笑っているのにそうは見えない彼を見たまま、気持ちが萎れてしまわないように唇を軽く噛む。
 ――エステル。
 いいえ。
 『Esther(エステル)
 アナタは、女優でしょう?
 これまでだって、仕事で嫌な思いも怖い思いもたくさんしてきた。
 でも、そのたびに背を伸ばして、まっすぐ相手を見つめて……しっかりと声を出した。
 『聞こえない』なんて言われたら、それで私はおしまいだから。
 負けないように。くじけないように。
 どれほど強くきつい風当たりにも、背を向けることなく、真正面から受けてきた。
「……私は……」
 だから、大丈夫。
 今だって、別に取って食われたりするわけじゃないはずよ。
 だもの、震えなんてないはっきりした声で、相手に教えてやればいい。
 自分がこれまでの19年間、父に授けられた名前を。
「……私は、エステル。エステル・ユ――」

 ガシャアン!!

「っな……!」
 キッと真正面の彼を見つめたまま、唇を動かした途端。
 まるで何かが割れたか崩れたかしたような大きな音が、フロア全体に響き渡った。
「え、何っ!?」
 同時に、タタタっと軽い音が遠ざかる。
 あの音はまるで、子どもの足音のような……!
「は……子ども!」
「エステルさん!」
 呟いた瞬間、彼らと出会う直前まで自分がしようとしていたことを思い出した。
 まさか……本当に? 本当に、子供がいたの?
 こんな、廃墟寸前の建物の中に?
 ひと気がまったくない、『普通』から大きくかけ離れたココに……!?
「エステルさん、待ってください!」
「何してるのよ!! 子どもがひとりでいるのよ!?」
 考えるよりも先に起きた嫌な考えから、彼らを置いて駆けだしていた。
 聞こえてきた方向はもちろん、彼が向いていた左前方の奥。
 瓦礫があちこちで牙を剥いている廊下を一目散に駆けると、後ろからふたりが慌てた様子で走ってくるのが目に入った。


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