姿も影も見えなかったけれど、多分あれは子どもなんだ。
走り去る駆け音とか……とにかく、いろいろ。
色んなことから、直感的にそう思った。
「……っ」
声が聞こえたときも、おかしいと思った。
でも、やっぱりこの建物は最初からおかしかったんだ。
あの、不可解な畑が隣接している場所なんだから、『正常』であるはずがない。
「え……部屋?」
思いきり走ってきたので、半分ほど行き過ぎてしまったところでその存在に気がついた。
壁際に、まるで教室のような造りの部屋があったのだ。
とはいえ、引き戸はまるで壊されたばかりのよう。
ささくれ立つトゲは褪せておらず、足元には今しがた砕けたばかりのようなガラスが散乱している。
ここから……子どもが?
音の方向と雰囲気からしても、もしかしたらそうなのかもしれない。
そう判断して用心しつつ中を覗い――た途端、自分の目を疑いたくなったけれど、その前にひゅっと喉が空気で鳴った。
「ッ……」
なにこれ。
ぞくりと、嫌な感じから身体が拒否反応を示したかのように総毛立つ。
真っ白い、部屋。
中は狭く――というか、元々あまり広くなかった部屋にもかかわらず、無理矢理物を詰め込んで狭くしたみたいな。
そんな、“違和感”にあふれた場所だった。
……でも、それだけじゃない。
確かに、音がなかったから誰もいないと勝手に思ったのは私だ。
けど……ここを出て行ったのは、足音からしてもひとりの……恐らく、子ども。
そんな子に対して、大人ふたりが対していたのかと推測できたせいで、やはり異常だと判断した。
「アナタたち……あの子に何したの……?」
こんな口を利けたのは、そこにいたのが女性だったから。
床に敷き詰められた布団に立ち上がるでも座るでもなくいた彼女らは、へらへらと生気ない笑みを浮かべたまま、口元だけをつりあげた。
「……何してるの、なんて聞かれたの久しぶりね」
「久しぶりね」
抑揚のない、まったいらな口調。
そこに一切の感情が感じられず、淡々と……まるで子どものように彼女らは話した。
「あの子は放っておけばいいのよ」
「そうよ。どうせ助からないんだから」
「ッ……な……!」
いったい、どういう意味で言ったんだろう。
外の環境のことだろうか。
はたまた、子どもだからなのか。
それとも――。
「口と鼻、しっかり押さえてください」
「え?」
すっ、と背中に気配を感じた瞬間、少し上から声が降ってきた。
「っわ!?」
まるでおもちゃでも弄るかのように、サングラスの彼が指先で小さなビー玉みたいな物をふたりに向かって弾いたのだ。
途端、布団の隙間に見えていたわずかな白い床へ当たり、ポンッと軽い小さな音とともに濃いピンク色の煙を漂わせる。
「……ッ!!」
一瞬遅れて両手で鼻と口を覆い、張本人の彼を軽く睨み上げる。
だけど、彼はまったく気にしていない様子で、閉じたコートの襟で口元を隠したままふたりへと視線を向けていた。
「……!」
思わず、『あ』と声を出しそうになった。
それほど鮮やかに、静かに……女性ふたりが、膝を折って布団へと伏せたではないか。
「もう大丈夫ですよ」
「……なっ……」
にっこりとまではいかないものの、口元を緩めた彼に囁かれて、思いきり眉が寄った。
「何が大丈夫なの!? だって、この人たちっ……まさか……アナタ、殺したんじゃ……っ」
「物騒なこと言いますね」
「だって、全然動かないじゃない! 大丈夫なの!?」
「大丈夫ですよ。一時的ですから」
「一時的な何よっ!」
危うく私まで被害に遭うところだったにもかかわらず、この笑みはいったいなんだろう。
ってまあ、私なんて『要警護』でもなければ『重要人物』でもないから、何も言えないけど。
どうせ、彼らにしてみれば『得体の知れない要注意人物』でしかないんだろうし。
「……っあ。ねぇ、あの子っ! あの子……大丈夫なの……!?」
ふたりの女性に近づいた『FV』のバッジをつけた彼を見たところで、思い出した。
彼女らが言った『助からない』という言葉が嫌な響きを身体に残したのか、それまでは一切触れようとも思ってなかったのに、咄嗟に彼のコートを掴んでしまい、あとになって少しばかり驚いた。
「大丈夫ですよ」
「ちょっ……! 何を根拠に!」
ふっと笑った彼が、まったく躊躇なくうなずいた。
そこには感情がさほど込められておらず、だからこそ『ああそうなんだ、よかった』とうなずけるはずがなく、むしろほんの少しだけ怒りが込み上げる。
「我々は、クリーニング屋ですから」
「っ……」
なぜか。
これまで、何度となく聞いたその単語が耳に入った途端、身体に入っていた余計な力が抜けた。
呆れたわけではない。納得したわけでもない。
ただ――“クリーニング”。
改めてその言葉の意味を考えようと思ったせいか、頭から否定するではなくなぜかその単語から思い浮かぶことを考える。
「…………」
「ですから、大丈夫です」
コートを掴んだままもう一度彼を見あげたとき、ふっとうなずかれてなぜか……根拠はないけれど、でも、『そうだ』と素直に納得できた自分もいた。
……大丈夫……な気がする。
彼が言ったからではなく、そう、思った。
「さ、それでは行きましょうか」
「…………は?」
さも当たり前といった感じに向けられた言葉と視線に、瞳が丸くなった。
「なっ……え? は……? え、私も!?」
「当たり前ですよ。何言ってるんですか、今さら」
「え!? ちょっ……ちょっと待ってよ! どうして? なんでそうなるの!?」
「僕らと一緒にいたほうがいいですよ?」
「どうしてよ! 私には、何もメリットなんてないわ!」
売り言葉に買い言葉、だったのかもしれない。
だって、こんな怖いというか……正直こんな気持ち悪い場所に独りで残されたりなんかしたら、絶対におかしくなるってわかってるのに。
むしろ、『それじゃ、待っててください』なんて言われても絶対にイヤだと言うつもりだったんだけど、なぜか、面と向かって『行こう』と誘われたら、ついそんな言葉が出てしまったのだ。
……そう言ってしまった以上、簡単に『じゃ、そうする』と言えないのが私のいけないところ……であり、長所だと思いたい。
簡単に言葉を変えるのは、自分の信念までをも簡単に曲げているような気がしてイヤだから。
「ですが、エステルさん」
「何よ」
「痛い目に遭いたくはないでしょう?」
ぴたり。
諭すでも脅すでもなく響いたひとことは、間違いなく私の行動を決定づけた。
「…………」
「急ぎましょう」
「…………」
私の反応を見たのに笑顔の彼と、仏頂面もいいところの唇を真一文字に結んで何も言えない私と。
“YES”からは遠い表情を浮かべていたにもかかわらず、彼は構うことなく先に進んだ。
あたかも、私があとを付いてくることは『絶対』だと言わんばかりの仕草で。
…………。
なんか……確かに核心をついたひとことだったけど、彼の表情というか……口ぶりと言うかが、なんか気になる。
っていうか、気に入らない。
「……ああもうっ……! なんなのよ!」
だけど。
少し離れた場所から重たそうなドアを開く音が聞こえた瞬間、『もしかしたらここに置いていかれるかもしれない』という焦りが湧き、強く地面を蹴りつけていた。
確かに、彼の言うことはもっともなんだろう。
でも、言われるままに動くのはなんとなく悔しい。
「……くっ」
ドアの元で、私が来るのを待っていたかのように身体を向けていた彼が見えた瞬間、やっぱり自然と眉が寄った。
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