「っ……わ!」
 開かれたドアに近づいた途端、気圧の関係かものすごい風が建物の中に入り込み、目を開けていられなかった。
 庇うように腕を顔の前に出し、それからゆっくりと瞳を開ける。
「え……? 畑?」
 外に出てしまうと、先ほどの風が嘘みたいに静かだった。
 しんしんと降り続ける雪は何に邪魔されることもなく、はらはらとまっすぐ地へ落ちている。
 風はやんだ。そして、思考もぽかんと止まる。
 目に入った光景が、思ってなかったところと繋がっていてか、拍子抜けしたのもあるだろう。
「ええ。エステルさんが見た畑と同じ物が、10ほど」
「……10も?」
 隣に立ったままの彼は、私ではなく畑を見つめたままうなずいた。
 そのとき、小さく何かしゃべった気がしたのは、つい先ほど聞いた“レジェスト・ベル”での誰かとの通信だったのかもしれない。
「っわ!?」
「着ていたほうがいいですよ」
「なっ……!? 何よ急に!」
 はらはらと落ちてくる雪と空を見上げていたら、いきなり目の前が真っ黒に塗りつぶされた。
 息苦しさと重たさと、驚き。
 それらを払うように両手で掴むと、それまで彼が着ていたコートを被せられたんだということに、ようやく気付く。
「……あ……あのねぇ」
「なんですか?」
「いくら『着てろ』って言われても……これじゃ、重たすぎて動けないんだけど……」
「そうですか?」
「そうよ」
 好意は、まぁ、ありがたく頂戴しよう。
 だけど、本当に重たいのよ。比喩ではなく。
 サイズが大きいのもあるかもしれないけれど、そういう重たさとは少し違うのよね。
 それこそ、材質からして重たいとでもいうか……。
 丈夫にできているのかはたまた明確な理由があるのかはわからないけれど、まるで鋼でも縫い付けられてるかのような重たさだ。
 ……それにしても……だ。
「…………」
 コートを脱いだ彼を見て、つい瞳が丸くなった。
 雰囲気が、今までとまったく違いすぎていて、まるで別人だと言ってもいいほど。
 黒のシャツに、黒のネクタイ。
 そして、その上に着ている、同じく重たそうな色をした少し厚い上着。
 それは例えるならば軍服のようで、バッジや章のような物もついていれば、アンプルのような物も幾つか見えたりする。
 どう見ても『クリーニング屋』ではないのは、明らか。
 だけど、警察でもなければ、軍隊でもない。
 いったい何者なの……?
「っ……」
 幾つも付いているバッジの中で、ひときわ目立つモノがあった。
 先ほどの『FS』と刻まれたバッジのすぐ隣。
 そこにはまるで、今にも動き出すんじゃないかと思えるほど精巧に作られている、バッジがあった。

 正面を向いた、牡山羊の顔のレリーフ。

 鋭い瞳はもちろんだけど、何よりも目を引くのは――その、ツノだ。
 うねるように弧を描いた2本のツノは、先端を鋭く尖らせている。
 それだけでも、きっと一度見たら忘れないだろう。
 だけどそのバッジは、そんな肖像であるにも関わらず、真っ黒で……それこそ、黒い鉱石のような輝きを見せていた。
「でも、そのコートなら大丈夫ですよ?」
「……っえ? あ……そうかしら……」
 思わず見入っていたら、気付いたかのように彼がこちらを向いた。

「何が当たっても、痛くないようになってますから」

「…………え!?」
 にこやかな笑みとともにさらりと呟かれた言葉に、一瞬反応が遅れた。
 ちょ……ちょっと待ってよ。
 それってどういう意味?
 ていうか、まさかそんな……ねぇ……? ねぇ!?
 あるワケないわよね!?
 彼が言う『何が』の意味が易々と想像できて、すぅっと血の気が引くのがわかった。
「ちょっ……ちょっと待って! ねぇ、当たるって何が――」
 ぐいっと彼の腕を取り、『違うわよね!?』と言うつもりで声を出したとき。
「ッ……な……!?」
 少し離れた場所で発砲音のようなものが聞こえ、妙な響きを持ってあたりにこだました。
「なっ……な……!?」
 ぱくぱくと金魚のように口を動かし、ぎゅうっと彼にしがみつきながら背後へ隠れる。
 どこ!?
 音の元がわからなくて目だけをあちこちへ動かすものの、中心は見つけることができない。
「あっ!?」
 何も言わずに掴んでいた彼が動き、そのまま引っ張られる格好で畑の中を進む。
 しがみつくようにしていた私をまったく気にせず進んでいく彼は、当然こちらを振り返ることもなくて。
 ど……どうすれば……?
 頭からすっぽりとコートを被ったまま彼を掴みながらも、どうしたものかと思わずこの状況で悩む。
 だって、付いていったら邪魔な気もするし……でも、かといってここで手を離しても何か言われそうな上に、独りになるのだけはやっぱりイヤで。
「…………」
 ……平気よね……?
 迷うことなく歩を進める彼は、きっと音の方向がわかっているんだろう。
 その上で、向かっている。
 不安からか眉を寄せて彼を見上げてみるものの、どこか遠くを見ているような眼差しで、緩めることなく歩を進めた。
「っきゃ……!?」
 すぐ、近くだ。
 パァンという何かが弾けるような音と、そして何人かの人が地を踏み鳴らすような音。
 それに伴って怒声も聞こえてきて、一気に空気が張り詰めた。
「……え……」
 その途端。
 彼が急に足を止め、そしてわずかな動きを見せた。
 ……何を――。
「ッ……!」
 懐からおもむろに取り出されたのは、大きな銀色のモノ。
 何か、じゃない。
 こんなもの、たったひとつしかないんだから。
「ちょ、ちょっ……待ってよ、そんなっ……!」
 それが何か、なんてすぐにわかった。
 なぜならば、先ほど実際にコレと同じ物を向けられたんだから。
 ……でも、ちょっと違う。
 あの人の持っていたモノよりは、コレのほうが少し大きめ。
 鈍く光る銃身は同じだけど、雰囲気もまるで違っていた。
「めっ……目の前で人殺しなんてイヤよ!?」
「大丈夫ですよ。殺傷能力はありませんから」
「……え……? それって、どうい――」

 ダンッ

「…………え……」
 言い終わる前に、目の前で引き金が引かれた。
 迷うことなく、微動だにせず……狙いを、定めて。
 小さく小さく聞こえた呻きのような声が、耳から離れなかった。
「な……にを……」
 時間が遅れて、どくどくと激しい鼓動が打ち付け始める。
 全身の血液がうるさいくらい音を立てて身体をめぐり、渇いた喉を動かせば張りつきでもするかのように痛みが走る。
「殺したりしないって……傷もつけないって、今言ったじゃない……!!」
 衝撃と恐怖から力が入らなくなってその場へ座り込むと、ザッと音を立てて彼が前方へ歩いていった。
 両手を地につけたまま眺めているも、歯がゆさというか、なんともいえない……まるで裏切られたみたいな気持ちが湧いてきて、唇を噛む。
 ……ウソツキ……。
 少し離れた場所に集まる、黒の集団。
 彼らは互いに何かを話したりうなずきあったりしながら、動きを止めない。
 それはまるで、映画のワンシーンのよう。
 『ヤったか?』
 『ええ、やりました』
 『よし。それじゃ、引き上げるぞ。くれぐれも証拠を残すな』
 『了解』
 言葉を当てはめるなら、こんな言葉がぴったりだ。
「……っ……」
 彼の銃を食らったのは、あの、建物の入り口にいたふたりの男性のひとりだった。
 倒れたまま動かない男性を、黒い服を着込んだ人々が慣れた手つきで運んでいく。
 そのとき、横づけされた黒塗りの大きな車から出て来たのは、そんな彼らとは正反対の白い服を着た人々。
 ばらばらと数人降りてきたかと思いきや、躊躇することなく担架でその人を車へと運ぶ。
「……あっ……!」
 ドアが閉まる寸前、車内に子どもの姿がちらりと見えた。
 降り続ける雪を見つめたまま、表情を変えない子。
 だけど、その方向にはあの建物があって。
 ……何を、思ってるのかな……。
 バタン、と音を立てて閉まったドアを見つめたまま、ふと、そんなことが思い浮かんだ。
「大丈夫ですか?」
「ッ……」
 土であることも構わず座り込んでいたら、目の前に見慣れた黒いブーツが現れた。
「……何よ人殺し」
「殺してませんってば」
「ウソツキ! だって、あの人動かなかったじゃない!!」
 担架で運ばれていくのを見ていたけれど、ぴくりとも動かなかった。
 血が出てるのかどうかはわからないけれど、でも、銃弾が当たったんだ。
 タダで済むはずがない。
「もぉ……何よ……っなんなのよ、アナタたち……! 何者なの!?」
 頭がうまく働かず、考えも何もかもがぐちゃぐちゃだ。
 両手で頭を抱えるように髪に触ると、目の高さを合わせて座った彼が、すまなそうに笑った。
「大丈夫ですよ。彼は、ちゃんと生きてます」
「どうしてそんなこと言えるのよ……! 撃ったくせに!」
「仕方がなかったんです。あのままでは、あなたが撃たれてましたよ?」
「……え……?」
 まっすぐに瞳を見て呟かれ、少し遅れてからぞくりと身体が震える。
「見えませんでしたか? 彼らは、まっすぐにあなただけを狙っていたんですよ」
「…………う、そ……」
 だって、私はあのとき……彼の陰に隠れていたのに。
 彼らの姿は見えなかったし、だからこそ彼らからも見えないとばかり思っていたのに。
「彼らに撃ったのは、先ほど女性たちに使った物と同じ種類です。だから、致命傷にはなりませんよ」
「……そうなの……?」
「ええ」
 でもまぁ、かなり痛いと思いますけれどね。
 そう苦笑交じりに呟いた彼を見て、急にへなへなと身体から力が抜けた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないわよ……」
 その場に倒れこみそうになるのを必死にこらえながら両手で身体を支えると、彼が手を差し出した。
「立てますか?」
「腰が抜けて立てない」
「はは。……まぁ、無理もない。こればかりは、作り物じゃないですしね」
「っ!」
 『立てない』と言った人間を、これほど簡単に立ち上がらせるのって……コツとかそういうモノだけじゃないと思う。
 だって、立ち上がった本人が1番びっくりしてるんだから。
「……まぁ、二度とないと思いますけれど」
「った!?」
 引っ張られた腕と彼とを見つめたままでいたら、ぽん、と腰を叩かれた。
「ちょ、ちょっと! 何す――あ……れ?」
「それじゃ、これで」
「……え!? あ、ちょっ……ちょっと!?」
 いきなり何をするのかと彼に食いかかろうとした途端、手を離されているにもかかわらず、しっかりと難なく両足で立っているのに気付いた。
 ……あれ……え、どうして?
 さっきまでは、確かに身体へ力が入らなかったのに。
 って、そうじゃなくて!
「ちょっと! 待ちなさいよ!!」
 こちらを振り返ることなく歩いていった彼の背中に声をかけ、1、2歩駆ける。
 だけど、彼は一瞬こちらを振り返るも、手を振っただけで足は止めようとしなかった。
「ねぇ!! アナタは誰なの!? 名前は!?」
 彼の歩いていく、その先。
 そこに止まった1台の黒い車は、先ほど走り去ったのとは別の物だった。
 ……だけど、雰囲気は同じ。
 きっと、彼もあれでココを立ち去るんだろう。
「私はっ……私は、エステル・ユズリハ! あなたは!? ッ……名乗ったんだから、ちゃんと応えて!!」
 精一杯の声を振り絞って、全身で叫んでやる。
 ――と、それまで何を言っても決して止まらなかった彼が、立ち止まってからゆっくりと振り返った。
「……なるほど」
「え……?」
「ユズリハさんでしたか。……どうりで、いい名のはずだ」
「っ……は?」
 一瞬だけ。
 遠く離れている彼が、笑ったように見えた。
「あ!? ちょっ……待ちなさいよ! まだアナタの名前、聞いてな――」
「エステルーー!!!」
「っ……ルイ……?」
「エステルッ! どこにいたんだよ! 心配したんだよ!?」
「え、あっ……」
「みんな、必死で探したんだから!! どうしたんだよ! 心配したじゃないか!!」
「……ご、ごめんっ。……ごめん……!」
 後ろから名前を呼ばれて振り返ると、必死の形相をしたルイが、すごい勢いで走ってきた。
 がしっと力強く肩を掴まれ、そのまま彼が息を整える。
「ッ……あ……!?」
 そのとき。
 顔だけで、サングラスの彼を振り返ったんだけれど……すでに、そこには誰の姿もなかった。
 黒い車も消え、雪だけが残っている。
 ……ただ、ひとつ。
 先ほど、確かにここで何かがあったという証拠だけは、埋もれることなく道や畑に残されていた。

 あれから、2日ほど経っただろうか。
 ルイだけじゃなくてたくさんのスタッフや監督、そして共演者のみなさんに謝り倒した私は、ようやくゆっくりとした時間を過ごしていた。
「…………」
 お気に入りのマグカップで、いつものように熱いコーヒーを飲む。
 ……と言っても、残念ながら家じゃなくて事務所だから、あんまり落ち着くこともできないんだけれど。
「っ……!」
 そんなときだ。
 偶然目を通していた新聞の第一面に、気になる記事を見つけたのは。
「ルイ!!」
「うぇっ……? 何? エステル。どうしたの?」
「新聞! 今すぐ、売ってる新聞全部買って来て!!」
「えぇ……!? ど、どうしたの? 急に」
「いいから、とにかくっ! ……お願い!!」
「……う、うんっ……わかった!」
 ガタンっと音を立てて椅子から立ち上がったまま、両手をついて食い入るように記事を見つめる。
 一昨日。
 あの――あの、撮影を行なったあの場所で、合成麻薬の取引及び製造を行なっていた組織の幹部が、逮捕されたという記事だった。
 場所も名前も、間違いない。
 犯人の顔写真が載っていたけれど、それも確かに、あのとき撃たれた男性に間違いなかった。
「…………」
 ……でも、違う。
 新聞にははっきりと『警察』の文字があるものの、あのときあの場所に警察関係者らしき人は誰もいなかった。
 確かに、私が知らない場所では動いていたのかもしれない。
 だけど、私がこの目で見たのは黒い服と白い服をそれぞれ着込んだ、何も目立つマークを持たない人たちばかり。
 警察車両はもちろん、それを連想させるようなマークを持つ人は、誰ひとりとしていなかった。
 それに、ルイが私を呼びに来たあとも警察車両とすれ違うようなことはなかったし、それどころか……あの場所で銃の発砲騒ぎがあったなんてこと自体、彼らは知らなかった。
「…………」
 いったい誰なの?
 何を聞いても詳しいことは話さず、嘘くさい笑みで『クリーニング屋』を名乗っていた彼。
 でも、確かに……警察じゃない、ほかの組織の人間であることに間違いないだろう。
「え、エステルぅー! 買って来たよー!」
「ありがとう!」
 よろよろと、両手に持てるだけの新聞を持って来たルイがテーブルにそれを広げた。
 途端に倒れこみ、ぜーぜーと荒く息をつく。
「……もー。体力ないんだから」
「そ、そんなこと……言ったって……げほげほ」
 彼を尻目に新聞を開き、記事を探していく。
 一般紙の第一面に載っている以上、たとえ娯楽紙であっても取り上げてないはずはない。
 そう思って、すべての新聞を彼に頼んだのだ。
「…………」
 どうしても、情報が欲しかった。
 これだけの数があれば、何かひとつくらいはちゃんとした情報があるんじゃないかって……そう思ったから。
「…………」
 ふと視線を壁際の棚に向けると、そこには紙袋がひとつ。
 中身は――そう。
 あのとき以来、彼に借りたままになっているあのコートだ。
 何か手がかりがないかと思っていろいろ探ってみたんだけど……特に、これといった物は出てこなかった。
 ただ、ひとつ。
 襟の部分に埋め込まれている銀のプレートに刻まれた、『J』という文字を除いて。
「…………」
 あれは、事実なんだ。
 あのとき彼に会ったことも、彼らとともに、この捕り物騒ぎの渦中にいたのも。

 ――結局。
 どの新聞やニュースからも、彼らに関する情報を得ることはできなかった。
 ……ますます、アヤシイ。
 当然だけど、『クリーニング屋』であるわけがないし、新聞に載らない以上、表立って行動できる組織でないことも確かだろう。
「…………」
 あのとき。
 あの――彼がコートを脱いだとき目に入った、牡山羊のバッジ。
 あれだけはいつまで時間が経っても色褪せることなく、脳裏に強く焼きついている。
 彼らはいったい、何者なの?
「……黒山羊……」
 このとき、ぽつりと呟いた言葉。
 これがこのあと、私の身に大きく関わって来ることになるなど、このときの私は思ってもいなかった。


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