「…………」
 疑えばキリがない。
 ……つまり、信じるしかないってことね。
 じぃっと見つめたまま考えをまとめると、小さくため息が漏れた。
「わかったわ。ジェド、ね。信じる」
「ありがとうございます」
 そこで初めて、彼が静かに頭を下げた。
 まるで、(うやうや)しくあいさつされるかの如く。
「あ。ねぇ、コート……そうよ、コート! アナタに返したいんだけど」
「え? お持ちなんですか? まだ」
「当たり前でしょ。捨てたりしないわよ」
 コートのことを持ち出した瞬間、彼がこれまで見せたことのなかったような驚いた表情を見せた。
 ……失礼しちゃうわね。
 そりゃあ、得体も素性もわからないような人の物だけど、助けてもらったのは事実。
 恩を仇で返すようなことはしない。
 ……一応、あの日と今日のことは恩としておくわ。
「コート、いつ返したらいい?」
「捨ててくださっても構わないのですが……」
「そうはいかないわよ。物を無駄にするの、好きじゃないの」
 はいそうですかなんて言えるわけがない。
 眉を寄せてしっかりと抗議の色を示してやると、ふっと笑ってから腕を組んだ。
「エステルさんって、意外に律儀なんですね」
「ちょっと。意外にって何よ。ていうか、アナタ『意外』って言葉遣いすぎよ?」
 お陰で、こっちまで影響が及んでるんだから。
 それに、そんなところを感心されても、困ってしまう。
 そもそもこの人は、私のことをどういう人間だと思ってるのかしら。
 毎回毎回、失礼しちゃうわよ。
「わかりました。それでは、また次回お会いしたときにでも」
「……次回って、いつよ」
「うーん……そうですね。まぁ、近い内にでも……また」
「また、って……『また』、何かに巻き込まれるんじゃないでしょうね」
「さあ。そこは確約できませんが、でも、きっとまた近い内にお会いできると思います」
「…………何を根拠に」
「勘ですよ。なんとなくです」
 人差し指を立てて笑った彼を見るも、眉は寄ったまま。
 コートを返せるのは、ちょっとほっとするけれど……でも、また会うことをあらかじめ予告されると、気分はよくない。
 これまで、今日を含めて2回しかこの人と会ってないけれど、でも、前回も今回も同じように“捕りもの騒ぎ”の渦中なわけで。
 次もまた何かあるんじゃないかと勘ぐってしまうのも、仕方ないわよね。
「連絡は取れないの?」
「申し訳ありませんが、いたしかねます」
「……まったく」
 手っ取り早いのはそれなのに、何よもう。
 それこそ、連絡さえ取ることができれば、いつ遭遇するやもしれない事件に巻き込まれなくて済むのに。
 ……私はもう、あたりまえの日常を穏便に過ごしたいのよ。
 彼らとの非日常すぎる時間は、求めてないんだから。
「確かに連絡は取れませんが……でも、いつだって会えますよ」
「どうして言いきれるの?」
「ほら。現に、今日だって会えたじゃないですか」
 にっこり。
 諭されるような、なだめられるような。
 そんな口調で『ね?』と続けた彼は、これまで見たこともなかったような、少し幼い表情を見せた。
「……そういうものなの?」
「そういうものです」
 大きくうなずかれてしまえば、それ以上何か言うことはできない。
 でも、別に私……会いたいとか思ってなかったんだけど。
 そりゃあ確かに、コートを返したいとはずっと思っていたけれど、生憎今日は持ち合わせてないし。
「……あ、そうそう」
「え?」
「よかったらコレ、飲んでください」
「……は?」
 まるで、『今思い出した』ような素振りを見せた彼が、どこから取り出したのか1本の缶コーヒーを差し出した。
「何、コレ」
「いえ、別に深い意味はないのですが……買ったものの、結局飲まなかったので」
 もしよかったら、どうぞ。
 そう言って手渡された缶コーヒーは、まだ少しだけ冷えていた。
「…………」
「なんですか?」
「……いかがわしい薬とか、入ってないでしょうね」
「はは。それは大丈夫ですよ。普通に買った物ですから」
「本当に?」
「ええ」
 じぃっと彼を見つめてから再び缶コーヒーを見ると、確かにまぁ……普通に市販されているような物だった。
 ……特に、変わった様子もないわね。
 まぁ、彼らの場合、どんな手段を用いて毒を入れることが可能なのか、わかったモンじゃないけど。
「……っ……」
 などと思いながら、ラベルを正面から目にしたとき、思わず瞳が丸くなった。
「どうしました?」
 静かに。まるで、私がどう思っているかなんて知らないみたいに、ジェドが口を開いた。
「別に……」
 口数少なくなってしまったのは、仕方ないと思う。
 なぜなら、これは見慣れた――いえ。
 正確には、ずっと昔、たびたび何度も目にしていたデザインの缶だったからだ。
 最近どころか、ここ何年もコレを見ることなんてなかったのに。
 探そうと思っていたわけじゃないけれど、でも、普通のお店ではまず見かけることがなかった缶だ。
「昔……このコーヒーが好きで、よく飲んでた人……知ってるから」
 ぽつりぽつりと、缶を見つめたまま呟き、ぎゅっと握る手に力をこめる。
 すると、彼は特に気にする様子もなく、『そうですか』とだけ呟いた。
 ずっと……ううん。もう、二度と見ることはないんだろうなって思っていたのに。
 あの人がいなくなったあの日から、思い出と一緒に封印した記憶がふと色鮮やかに脳裏へ蘇る。
「……では、この辺で」
「え?」
「失礼します」
「あっ!? ちょっ……!」
 コーヒーの缶に見入っていたら、不意に彼が手を上げて『では』と小さく微笑んだ。
「お仕事がんばってくださいね」
「え? あ……ありがと……ってそうじゃなくて!」
 一瞬、微笑むと同時にファンの人からもらうような言葉を投げかけられ、動きが止まった。
 その間に、彼はそそくさとその場をあとにしてしまう。
 あの――雪のときと、同じように。
「ちょっと! 絶対よ!? 絶対、今度会ったらコート持って帰ってよね!」
「お約束します」
 すでに遠く離れた彼に向かって声をはりあげると、あのときとは違って、今度は振り返りながら手をあげた。
「……ジェド」
 彼が自ら告げた、名前。
 疑えばキリがないうえに、これが本物だという確かな証拠もない。
 でも、彼に辿り着くための手がかりのひとつを手に入れられたような気がして、思いのほか自分が落ち着いている気がした。
「……ホントに……何者なのかしら」
 すでに姿はないものの、彼が確かに歩いていった道を見つめていると、ぽつりとそんな言葉が漏れた。

「せんぱぁーい!」
「……元気ね。相変わらず」
 いつもどおりの、事務所の廊下にて。
 次のCMの商品を手にしていると、前方からぶんぶんと手を振りながらアンジュが走ってきた。
「えへへー。聞いてくださいよぅ」
「なぁに? また彼氏でもできたの?」
「えっ、どうしてわかったんですか?」
「……懲りないわね、アナタ」
「えへへ。褒められちゃいました」
「褒めてません」
 隣に並ぶや否や、ごろごろとまるで猫みたいに人懐っこく擦り寄ってくる。
 ――というのも。
 あの日以来、なぜかアンジュはこうして私にべったりと張りついてくることが多くなった。
 若干心配してはいたんだけれど、彼女を事務所まで連れ帰ってほどなくすると、ジェドが言ったとおりアンジュは何もなかったかのようにぱっちりと目を覚ました。
 集まったスタッフや同じ事務所の仲間が見守る中で、『お腹空いた』と言いながら。
「…………」
 隣で、止まることなく続いている“新しい彼氏”の情報を聞き流しながら、ふと……ジェドのことが浮かぶ。
 ……副作用、本当に出なかったなぁ。
 心配しすぎていたのが、馬鹿みたいなほどに。
 CMで使うシャンプーのサンプルを持ち直してから、ジーンズの後ろポケットに手を入れる。
 指先に当たる、あのときもらった解毒薬。
 結局使うことはなく、かといって捨てることもできず……コートと同じように、今でも私のそばにある。
 ……今度会ったら、コートと一緒に返そう。
 きっとまた彼は『律儀』だとかなんとか言うだろうけれど、まぁ、いいわ。
「ねぇ、先輩ー。聞いてますぅ?」
「ん。聞いてるわよ」
「ホントですか? 何かほかのこと考えてませんでした?」
「考えてないったら。……それで? 今度の彼氏は何してる人なの?」
 ふっとひとりでに笑みがもれてしまった瞬間、不服そうな顔で覗き込まれた。
 慌てて表情を戻し、こほんと咳払いをひとつ。
 すると、満面の笑みを浮かべながらアンジュが胸を張った。

「今度の彼は、警察官です!」

 やっぱり安心が第一ですよね。
 えっへんと胸を張りながらそんなことを口にした彼女を、つい笑ってしまったのは仕方ないと思う。
 ……安心、ね。
 確かに、ヘタな冒険心よりもずっと大事だと思うわ。
「殊勝な心がけね」
「えへへ。褒められちゃった」
「はいはい」
 ぽんぽんと頭を撫でてやりながら廊下をともに進むと、また、アンジュはその彼氏のことを嬉しそうに話し始めた。


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