私は別に、当たり前が嫌いなわけでもなければ、日常を持てあましてるわけでもない。
 穏やかな日々を過ごせることはとてもいいことだと思っているし、だからこそわざわざ危険を冒してまで、安寧な日々をぶち壊そうと思ってない。
 ……思ってないわよ。
 これっぽっちも。
 思ってなんか……っ――!
「……ッ……」
 どくどくと早鐘のように打ちつける鼓動を落ち着かせようと、大きく……だけどあくまでも静かに深呼吸を繰り返す。
 ぎゅうっと抱きしめたままの、荷物から香る化粧品特有の匂いだけが、今を現実なんだと思わせていた。
 何コレ。
 細い細い、それこそ路地というよりは建物の隙間みたいな場所へ身を潜め、壁へびったり背をつける。
 汚れるかどうかなんて、考える余裕もなかった。
 どうしよう……ってとにかく、隠れるしかない。
 今は誰にも、見つかってしまわないように。
「…………」
 とにかく、もうそれだけ。
 大きく上下する肩を掻き抱くように腕を回すと、若干震えているのがわかった。
 ……そう、よね。
 そりゃ、当然よ。
 だってこんな状況――ものすごく、怖いもの。
 逃げ出したいって、思ってる。
 イヤなの。ものすごく、イヤ。
 どこに隠れようとも“絶対”なんてないんじゃないかって思うくらい、嫌な予感が拭い去れない。
 見つかる。
 どんな場所に身を潜めようと、どれほど厳重な警備についてもらおうと。
 頭に浮かぶのは、『もうダメだ』という諦めの言葉だけで、それしか浮かばない自身に腹が立つ。
 だけど、人間には限界があって。どうしようもできないことが、当然あって。
「なんなのよ、もぉ……っ!」
 これまで出遭ったどんなモノとも違う恐怖と直面した今、情けないくらい、どうすればいいかの理性が迷子だった。

 ことの発端は、つい先ほど。
 ロゼのワインみたいな、ピンクがかった紫の空がきれいだなぁと、見上げたまま歩いていた。
 同じ空が家からも見えるってことはわかっているけれど、でも、なんだかあまりにも特別に思えて。
 行き交う人々の目も何もかも気にせずに見ながらいたら、自然と頬が緩んでいた。
 ……きれいだな。
 ああ、久しく空なんて見上げてなかったんじゃないかしら。
 コツコツ、と響くのは自分のサンダルの音だけ。
 何度か転びかけて(くじ)いた苦い過去があるのと、そんな怪我を理由に仕事を休めないことから、ヒールは低いものばかり。
 だけど、歩けば武器になりそうなほど鋭くて硬い音がするから、なんだか不思議。
 ……なんて、思ってた。
「……?」
 足を止めるまでもなく、感じたことがひとつ。
 それは、これまで幾人もの人々とすれ違ってきた中でもまったく揃わなかったのに、今、幾つかの足音が揃っているということだ。
 おかしい、わよね。
 偶然にしては、数が多い。
 ふたつ……ううん。もしかしたら、もっと。
 “尾行されている”状況は、演技上でしか味わったことがないから、確かなことは言えない。
 でも、音がするの。
 追いかけてくるでも、追い越すでもなく……ただただ、“ついてくる”音が。
「…………」
 ザワ、と心と一緒に周りの空気が嫌な音を立てて騒がしくなり、同時に自然と歩調が速まる。
 ぎゅっと重たい紙袋を抱きしめて前のめりに歩き、平静を装いながら、ひたすらに場所を探す。
 逃げきれる場所は、どこ。
 もちろん、そんなモノがないことはわかっている。
 だけど、せめて助けてもらえる場所を。
 できれば、警察とか……!
 顔を動かさずに目だけで警察のマークを探すものの、一向に見当たらないのが悔しい。
 ありったけの神経を後ろに張り巡らせたまま、慌ててどうしようもなくならないように、自身を自身で落ち着かせる。
 大丈夫よ。
 ない、ことなんてないんだから。
 警察に行けば、助けてもらえる。
 たとえ勘違いだとしても、私の今の嫌な気持ちすべてを、取り除くことができる。
 そう思って、通りを歩いた。俯いて、誰とも目を合わさずに。
 知らない人は、みんな信じられない。
 嫌な人間に成り下がったものだと思いながらも、今だけは、警察官だけを探し求めていた。
「っ……!」
 目に入った、見慣れたマーク。
 あれこそ、間違いない。
 私を助けてくれる人がいる、確かな場所だ。
 制服を着て歩哨している人が見えた瞬間、ほっとしたせいか涙が滲んだ。
 行き交う人々を掻きわけるように、足早に近づく。
 よかった。
 もう、これで大丈夫。
 もう何も、心配ない。
 タタッと小走りでそこへ向かい、呼び止めるように手を伸ばす。
「あの――」
 私を、見つけて。
 そして、保護して。

 助けて。

 唇をそう動かそうとした瞬間、横から現れたひとりの人間が、いともたやすくそれを打ち砕くとも知らずに。
「ッ……」
 黒尽くめ。
 ジェドたちとはまったくと言っていいほど違う種類の人が、忽然と現れた。
 途端に勢いが削げ、急ブレーキをかけたかのように足が止まる。
 なんで……?
 現れたその人は、私に背を向ける形で、ひたすら警察官と話し込んでいた。
 さっきまでは、あれほどはっきり見えていた姿が、今はまったく見えない。
 ……そう。
 まるで、彼の視界から私を消し去るかのように。
「ッ……!!」
 ゾクっ、と嫌な感じが身体を走った。
 目が、合った。
 一瞬だけだけど、間違いない。
 大きな身振り手振りで話し込んでいるその人と――今、確かに。
 ッ……ヤバイ。
 これまで出会ったどんな人も、その比じゃない。
 明らかに、違う。
 異様と言ってもいいくらいの、嫌な感じがした。
 ダメ。行ってはダメ。
 見つかっては――ダメ。
「くっ……!」
 方向を真横に変え、走り出す。
 すると、慌てたように彼がこちらへ手を伸ばした。
 駆けて駆けて駆け、人の波を縫うように反対方向へ駆ける。
 少しずつ繁華街から住宅街へと景色が移り、人の波が途切れ始めたことに気づいたのは、だいぶあとになってから。
 でも、逃げなきゃいけないの。
 見つかったんだもの。
 バレてるんだ。
 もう――逃げられない、かもしれない。
 だけど、だからってその場にいられるほど愚かでもなければ、希望を捨て切れているわけでもなく。
 もしかしたらっ……!
 もしかしたら、なんとかなるかもしれないじゃない。
 だって、あのとき確かに、彼は言ったんだから。

 『いつだって会えますよ』

 ジェドは確かに、そう言ったんだから!!
「ッ……く!」
 あとを付いてくる足音が、ほんの少しだけ離れたような気がした。
 でも、振り切れてはいない。
 どうしよう。どうしたらいいの? こういうときは――ああもう、どうすればいいのよ!!
 どうしようもない状況に、唇を噛んで眉を寄せる。
 ……何よっ……何よ、何よ、何よ、何よぉっ……!

「いつでも会えるって言うなら、ピンチのときこそ駆けつけなさいよ!!」

 カツカツとヒールを高らかに鳴らしながら小走りで叫ぶと、とんでもない事態を打破できない自分にイライラしてか声が荒んだ。

「呼びました?」

「っひぇ!?」
 まさに路地からの、襲来だった。
 ひゅっと姿を現したジェドが片手で私を受け止め、すぐここの壁へ引っ張り込まれる。
 まさに一瞬。
 狭い路地というか建物の間というかのこの場所で、こんな芸当を見せられるとは想像もしなかっただけに、突然のことで持っていたものがバラバラと足元へ落ちた。
 くっ……こんなときに……!!
「あー……」
「ちょっと!!」
 何か言いたげな顔をしながら私とそれらとを見比べるジェドを見ていたら、急に腹が立った。
「はい?」
「はい、じゃないわよ! 呑気に……っ!」
 ぐいっと胸倉を掴みかかり、顔をぐっと近づけてごにょごにょとまくし立てる。
 人の気も知らないで……!
 のほほーんとしたその顔を見ているのが、なんだかもう、悔しくてたまらなかった。
「なんなの!? これ!」
「これ、と仰いますと?」
「ッ……だぁからぁッ……!!」
 イライライラ。
 限界に達しでもしたのか、ぷっちんと小さな音が聞こえた気がした。

「なんとかしてよ、あれを!!」

 ぐいっと両手で彼の頬を包んでから、視線を首ごとそちらへと無理矢理向けてやる。
 すると、しばらくその方向を見つめていたかと思ったら、眉を寄せて『うーん』と小さく唸った。
「……エステルさん」
「何よ」
「あなた、また何かしたんですか?」
「なっ……!?」
 言うにこと欠いて、それ!?
 しかも、ものすごく疑いの眼差しともいえるモノを向けただけじゃなく、『また』よ? 『また』!
「あのねぇ!」
「あまり感心しませんね。首を突っ込みすぎるのも」
「失礼ね! 私がいつ、どこで『何かした』のよ!!」
 バシバシと手近にあった壁を叩きながらキッパリ否定すると、少しだけ驚いたように、ぱちぱちと瞬きを見せた。
 でもその顔、この状況は完全に私のせいだって言いたげね。腹立つ!
「ていうか、私は一度だって首を突っ込んだことも何かしたこともないわよ!! むしろ、アナタたちのほうが、何かと関わってきてるんでしょう!?」
 誤解だと言われれば否定できない。
 だって、別に彼らは意図的に私と接触してきたわけじゃないんだから。
 それは確かに、わかってる。
 わかってはいるんだけど、まるで『あなたが悪い』みたいな言い方をされたのがどうしようもなく悔しくてか、彼らを悪者に仕立てあげてしまった。
「っ……!」
 これでも、小声で話しているつもりだった。
 だけど、もしかしたら知らない間に大きな声で……それこそ、この一帯に聞こえるくらいの大声を出していたのかもしれない。
 鋭いブレーキの音でそちらを見ると、大きな車から数人の黒尽くめの男たちが降りてくるのが目に入る。
「……狙われてるんですか?」
「らしいわね。私にはまったく理由がわからないんだけど」
 びったりと背を壁に預け、心の中で『見つかりませんように』と唱えながら彼らの様子を伺う。
 そんな私と同じように彼らを見つめていたジェドも、小声で囁いた。
 ……同じ黒尽くめ、には違いないんだけどね。
 彼らを見ているジェドの顔がすぐここにあるんだけど、なぜか彼らとは違うものだと認識してしまうわけで。
 それが、これまで彼と関わって来た時間があるからなのか、はたまた……第六感とも言うべきモノなのか、その判断は微妙につくことがなかった。
「エステルさん」
「何」
「いえ……実は、ひとついいことを考えたんですが」
「……いいこと……?」
 彼らの動向を見守るように視線を固定したままでいたら、少し上からジェドが提案を持ちかけてきた。
 でも……おかしいわね。『いいこと』って言われたのに、どうして『いいこと』が思い浮かばないんだろう。
「…………」
 にこにこと私を見ているというのも理由のひとつにはあるかもしれないんだけれど、でも、なんかね?
 なんとなーくだけど、その顔を見れば見るほど眉が寄るのだ。
「……何? その、『いいこと』って」
 このとき、本当は聞かなければよかったんだろうか。
 答えを、求めてはいけなかったんじゃないだろうか。
 ……そうは思ったけれど、もう遅い。
 『あ』って思ったときには、勝手に口が動いてしまっていたんだから。
「エステルさん」
「……何よ、だから……」

「誘拐、されちゃいましょう」

「…………は?」
 にこにこと笑いながら言われた言葉の意味が一瞬わからなくて、しばらく経ってからじわじわと思考回路が鈍く動き始めた。
 誘拐? え、何? 急に。
 っていうか、目の前のこの人はいったい何を言い出したんだろうか。
「誘拐って……え? 誰に?」
「僕に」
「……は…………ハァ!?」
 思いきり眉を寄せ、思いきり『何言ってるの!?』オーラたっぷりに彼を見返す。
 だけど、相変わらず読めないような表情を浮かべているだけで、ジェドはまったく態度を崩さなかった。
「うぇ!?」
 一瞬の隙とやらがあったんだろうか。
 あれこれ考えることが多すぎて、頭が拒否反応を起こしそうになった――ちょうどそのとき、目の前でにっこり笑ったジェドが、がっしと両手で私の肩を掴み込んだ。
「ちょっ……冗談よね!?」
「まさか」
 サングラス越しに見えている、笑っているようで、まったく笑ってない瞳。
 ああ、そういえばこんな近くでそのまなざし見るの、もしかしたら初めてかもしれないわ。
 色こそわからないけれど、確実に目が合った瞬間、表情が凍りつくとともに喉が鳴った。

「冗談は嫌いなんです」

 にっこりと笑っているのに。
 さっきと同じ、穏やかな顔なのに。
 なぜかジェドを見つめていたら、冷や汗が出てきた。
「なっ……」
 あんぐりと口を情けなく開けたまま、考えること数秒間。
 彼は、何を言ったのか。
 ……いや、ちょっと待って。それ以前に、え……っと。
 …………。
 ………………。
 これって………ひょっとして、まさか。
「え。ピンチ、ってヤツ……?」
 ぽつり、と唇が動いたのを真正面から見ていたであろうジェドは、すっと瞳を細めてから――。
「仰る通りです」
 と、優しく笑った。
「さすがは、エステルさん。相変わらず鋭いですね」
「ちょっ……いや、っていうか、あのね? いや、べ、別にっ……そのっ……これって、鋭いとか鈍いとか、そういうのってまったく関係ないんじゃ……!」
「さ、それじゃ行きましょうか」
「あ、ちょっ!? ちょっと!!」
 ぐいっと肩を引き寄せて方向を変えられ、大通りからどんどん遠ざかるかのように、ぐるっと『回れ右』をさせられる。
 先ほどまで見張られているようだった彼らに、背を向ける形。
 だから、もしも彼らが私たちに気づいていたら………あっさりとやられてしまう、隙だらけの格好だ。
 でも、ジェドは何も言わずにただただ奥へと向かって歩き続けた。
 口元には、やっぱりあの何を考えているのかわからないような、穏やかな笑みを浮かべて。
「…………」
 そんな彼の横顔を見つめていたら、ぽーんと目の前にひとつのフレーズが浮かんだのは言うまでもない。

 エステル・ユズリハ――謎の失踪。

 そんなフレーズを考えたと知ってか知らずか、ジェドが笑いかけた次の瞬間、私の運命が音を立てて決定づけられたような気がしたのは、もちろん言うまでもない。

 ……ちなみに。
 一瞬意識が軽く飛びそうになったのも……と、付け加えておこうかしら。


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