『帰ってきて……! お願いです! どうか、彼女を帰してください!!』

 涙をいっぱいに溜めた、というより駄々漏れ状態。
 事務所の会見と称した『エステル奪還の巻』みたいな映像が、各テレビ局で同じように放送されている。
『エステルぅぅううぅ!! お願いだからぁっ……無事に帰ってきてよぉぉお!』
「…………」
 ソファに肘を突いたままリモコンを弄り、他局へ回してみる。
 だけどやっぱり、同じように泣きながら両手をぎゅっと組み合わせている、ルイの映像が流れていた。
 ……もう、かれこれ30分は経っていると思う。
 ぐしぐしと真っ白いハンカチで涙を拭いながら、赤く腫らせた目をさらに赤くさせる彼を見ていたら、ものすごく……もう、もんのすごく、申し訳なくって、すぐにでも電話してやりたい気分だ。
「お茶のお代わりですか?」
「違うわよ」
 振り向いた瞬間、黒檀のデスクに向かっていたジェドが、顔を上げて笑った。
 後ろには、大きなガラスの窓がある。
 そのせいか、彼の姿がなんだかやけに眩しく見えて、黒尽くめのクセに……と、ちょっぴり腹が立ったのは気のせいじゃなかった。

 あれは、もう3日も前のこと。
 最近変な感じがするな……と思ってた矢先のことだったから、私自身ものすごく驚いた。
 でも、事実は事実。
 『襲われる』と、身の危険を感じて逃げ出そうとしたときにジェドが現れて、『あ、助かる?』と思った瞬間『さらわれてください』と笑顔で言われて。
 ……もう、頭が拒否反応を起こしそうよ。
 結局、あれからジェドに誘拐された私は、丁重な扱いを受けている人質ってことになるんだろうか。
 まぁ、痛めつけられるようなことも、怪しい薬の実験体になるようなこともこれまでなかったし、大丈夫……だと思いたいんだけど、ね。
「ここ?」
「ええ。どうぞ」
 案内されるまま連れられて来た先こそ、彼らのアジトに間違いないと思ってた……んだけど。
「……ここ、さっきも来たわ」
 駐車場から直接エレベーターに乗せられて、降りたフロア。
 そこは、数十分前に見たのと寸分たがわぬ景色が広がる場所だった。
「化粧品営業部でしょ?」
「ご存知なんですか?」
「そりゃあね。なんせ、数時間に渡って絡まれたんだから」
「はは、なるほど。じゃあ、これは差し詰め手土産ってところですか」
「……笑いごとじゃないわよ」
 くくっとおかしそうに言われ、眉が寄る。
 あれも、一種の拘束といえるだろう。
 ふと、あのときの抜け目ない笑顔をたたえた、歳のわからない男性の姿が目に浮かんで、ため息が小さく漏れる。
 コツコツと響く足音も、デジャヴでしかない。
 徐々に近づいてくる、突き当りの受付のおじさんとだって、会うのは今日が初めてだったのに、これでもう3度目の『こんにちは』よ。
「…………」
 出るとき、なかば強引に押し付けられたあの化粧品類は、今はジェドが持ってくれている。
 にもかかわらず、ここを出てから数十分の間でどっと疲労したせいか、身体全体が重くて仕方なかった。
「おはようございます」
「おはよう」
「……え?」
 おじさんの前でジェドが足を揃えたかと思いきや、敬礼のような素振りをして頭を下げた。
 これまで一度も見たことのない姿で、思わずまばたく。
「いつから、これほど有名な方と通ずるようになったのかね」
「ええ、まぁ。いろいろとありまして」
「なるほど。君を北部へ行かせたのは、間違いだったかな」
「そんな。ご自身が譲られたんじゃないですか」
「……そうだったかな?」
 ジェドはもちろんだけど、おじさんの雰囲気もさっきまでとは違っていた。
 こんなふうに気さくに話をするなんてことは欠片もなかったし、冗談めいた話をしてくれそうな雰囲気でもなかったのに。
「…………」
 なんとも言えない不思議な光景を見ている気がして、頭の中に『?』がいっぱいになる。
「それでは、失礼します」
「ああ。よろしく頼むよ」
「承知しました」
 ジェドが一歩下がって私に並ぶと、『行きましょうか』とにっこり笑った。
 そのとき受付のおじさんを見てみると、同じように笑って手を軽く上げてまでいるわけで。
 …………?
 なんだろう、この違和感。
 さっきと全然違うふたりの態度が気になりすぎて、寄った眉はいくらがんばってみても戻ってくれそうにない。
「エステルさん? どうしました?」
「や、どうもこうも――って……え?」
 ジェドについて、今度はさっきと違う方向へ足を進めたものの、目の前の光景に瞳が丸くなる。
 壁……ね。
 うん。間違いない。
 ジェドが私を振り返っているその数十センチ先に見えているのは、間違いなく真っ白い壁そのものだ。
「あの。ジェド?」
「どうしました?」
「いや、それはこっちのセリフ」
 ぱちくり、と何度かまばたきをしてから、その都度見直す。
 だけど、何度やってもそこにあるのは白い壁で。
 見直したからといって、それがドアに変わってくれるようなことはまずなかった。
「アナタ……どこへ行くつもり?」
「え? 我々の本部、ですが」
「……どこにあるのよ」
「ですから、この先に」
「そうじゃなくてっ! ドアよ、ドア!! ドアはいったいどこにあるのか、って聞いてるの!」
 びしっと壁を指差しながら、大きな声でまくしたてる。
 だけど、ジェドはまるで『困ったなぁ』とでも言わんばかりの顔で、私を見てから頭をかいた。
 ちょっと、何よ。
 これじゃまるで、私だけが変な人みたいじゃない。
 どっちが変なのよ! 常識的に考えて!
「ったく。こんなときに冗談はやめてちょうだい。だったらむしろ、普通に警察へ連れて行ってくれたほうが、私だって助か――」
 ジェドを疑いの眼差しで見つめたまま、文句のひとつふたつみっつくらい言ってやろうと思った、その瞬間。

 苦笑を浮かべたままのジェドが、目の前の壁へ足を突っ込んだ。

「ッ……な!?」
 人間って本当にびっくりすると、一瞬心臓が止まったんじゃないかってくらい、音がやむのね。
 動きが止まるだけじゃなく、時間とか、流れとか、そういうものすべてが停止したような……そんな気になる。
「……き……」
「エステルさん?」
「きぃやあああぁぁ!? なっ……んなっ!? 何ソレ!! 何ソレ!?」
 ヒステリック気味に叫んでしまったのだって、無理はないと思う。
 だって……だ、だってだってだって!!
 おかしいでしょ!? ありえないでしょ!?
 足っ……あし、あ、足! 足が!!
 足が、ないのよ!? 壁、突き破ってるのよ!? 変な人ーー!!!
「イヤー!! 気持ち悪い!!」
「……ひどいですね」
「だ、だって! そんなっ……そんな……ええ!? 何ソレ! おかしいわよ!!」
 今ではもう、足どころか右半身すべてが壁に飲まれている状態。
 そんな姿で切なそうに見られても、こっちだって困る。
「そうは言われましても……」
「いやいやいや、こっちのほうが困るわよ!」
 ぎゅうっと両手で両肩を抱くようにしながらジェドを見つめていると、小さく笑――え?
「……え」
「一緒に来ていただかないと、困るんですよ」

 もう一度、彼は私の前に全身を現した。

「…………」
 一瞬、何が起こったのかわからず、また時が止まる。
 さっきまで壁に間違いなく消失していた、彼の手も、足も、顔も、とにかくもう、すべてがきちんとここに形を成していて。
「あの……エステルさん?」
「……何コレ……」
「いえ……あの……」
 近づいて彼をぺたぺたと触ってみるものの、当然触れることができるし、感触だって普通。
 何。
 アレはいったい、なんだったの。
 手を口元に当てながら、ジェドと彼の後方にある壁とを見比べてみるものの、当然ワケはわからないまま。
 壁は普通の壁にしか見えないし、ジェドも――なんか困ってるように見えるけど、でも、普通だし。
 いくら首を捻って考えてはみても、当然というべきか、何も変なところなんて見つけることができなかった。
「では、いらしていただけますか?」
「どこへ?」
「ですから、我々の本部です」
「……だから、どこにあるの? その本部って」
 ジェドから手を離して見上げると、コホン、とひとつ咳払いをしてから、改めて手のひらを上に壁を指した。
 …………。
「だから。そこは壁でしょう? それに、そんな気持ち悪いところはイヤよ」
 眉を寄せながら、しっかりと抗議。
 だけど、ジェドはまた困ったように笑いながら、私と壁とを見比べた。
 や、あのね。そんな顔されても、こっちだって困るわよ。
 むしろ、ワケのわからないものを見せつけられて、できることならここからとっとと帰りたい気分なんだから。
「大丈夫ですよ。痛くも痒くもありませんから」
「……そうは言っても……」
「まぁ、一度いらしてみてください」
「…………けど……」
「案外、楽しいところかもしれませんよ?」
「そんなワケないでしょ」
「さぁ……それは、見ていただけない以上は、なんとも」
「…………」
 なんだか一瞬自分が『聞き分けのない駄々をこねてる子ども』に感じられたのは、気のせいだろうか。
 ……ううん、違う。
 今のジェドの顔といい、口調といい……あれはもう、間違いなく『ゴマをすってでも機嫌を直してもらう』みたいな感じだったもの。
 …………。
 なんか、そう思っちゃうと……シャクよね。
 まるで私が彼を困らせているようで――ってまぁ、困らせてるんだろうけれど。
 うー……。でも、なんか……なんだかなぁ……。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「あーーもう!」
 じぃーっと、それこそ何も言わずに彼を見つめていたけれど、サングラス越しということもあってか、まったく彼の考えていることが読めなかった。
 ただひとつ。
 明らかに、『なんとかしてもらえませんか?』と言っているような表情だけは、嫌ってほど伝わってきたけどね。
「わかったわよ! 行けばいいんでしょう? 行けば!」
「そうしていただけると、助かります」
 ため息をついてから彼に一歩踏み出すと、途端に表情と態度を変えた。
 変わり身、早すぎじゃない?
 あまりにもこれまでと雰囲気が違いすぎて、面食らいそうになる。
 ……これだから、この人は……。
「さ、どうぞ」
「わかったわよ」
 騙されたとは思っても、あとの祭り。
 渋々、彼に促されるまま歩を進めるほかないんだものね。
「……え?」
 壁が目の前に迫った瞬間。
 すでに、半分以上壁に呑まれているジェドが、小さく笑って私を振り向いた。

「ようこそ、『BLACK DiamonD』へ」

 ほんの一瞬、間近で見ることができた彼の瞳は、笑っているような笑っていないような……。
 そんな、不思議な色を放っているように思えた。


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