「お茶のお代わりですか?」
「……だから、違うって言ってるじゃない」
 革張りのソファへ身体を預けたまま、テレビからジェドへと視線を移す。
 だけど、いくら私が不機嫌そうに言ってみたところで、彼はまったく態度を崩すことがなかった。
 3日。
 この場所へ連れて来られてから、もう3日が過ぎた。
 アレ以来、私はどうやら『失踪』ということになっているらしく、面白いくらいに世の中が騒ぎ立てている。
 ……って、『面白い』なんて言っちゃいけないんだろうけれど。
 事情を知らない人たち――特に、ルイとか、関係者の人々――にとっては、私がもしかしたら殺されているかもしれない、なんて最悪の事態まで考えているだろうし、知り合いや友人だって、心配しているかもしれない。
 ……ましてや、ジェドを含めてここにいる人たちは、恐らくある種のスペシャリストと呼ばれる人たちに間違いないだろうから、例えわずかであっても、情報が漏れるようなことはないはず。
 この場所は、間違いなく外の世界からシャットアウトされている、いわゆる水面下の場所。
 そう。
 なんせ、彼ら――“Errand of Dark Goat(黒山羊の遣使)”が籍を置いている場所なんだから。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
 じぃーっと部屋のあちこちを物色するように眺めていたら、ひょっこり顔を出した女性もまた、ジェドと同じことを口にした。
 サイドで纏められた、緩いウェーブがかった漆黒の髪。
 ぱっちりとした大きな瞳のかわいらしい彼女もまた、黒山羊のひとりで。
 着込んでいる少し大きな上着には、見たことのある“FY”と刻まれたシルバーのバッジが光っている。
「……結構よ」
 そう。
 ジェドと初めて行動をともにした、あの、白い建物で見た数字だ。
「遠慮しないでくださいね? 大事なお客様なんですから」
「……そうかしら」
「そうですよ! だって、ねぇ?」
「そそ。なんせ、有名人なんスから」
「しかも、S級のね」
 少し離れた場所へ向かって、彼女が声をかけた瞬間。
 ジェドとは違う、ふたつの返事がすぐに聞こえた。
 彼らもまた、黒山羊の人々。
 胸元に光るバッジには“FW”と“FV”という数字が刻まれている。
 ……FV。
 そのバッジをつけている人は、肩まで伸びた髪をさらりと動かしながら、私に笑いかけた。
 けど、同じように笑えるはずがない。
 だって、この人は私の初体験を奪った人なんだから。
「…………」
「あー……。もしかして、やっぱり……怒ってます?」
 じぃーっと無言のまま見つめていたら、気まずそうに視線を逸らしてから、あははと乾いた笑いを見せた。
 どうやら、私が何を言わんとしていたのか、わかったらしい。
 ……ふ。
 まぁ、さすがにきれいさっぱり忘れ去られたら、それはそれで寂しいものがあるんだけど。
「……別に、そういう訳じゃないけれど」
 ふいっと視線を逸らしながら、呟くように唇を動かす。
 この、人のよさそうな笑顔を浮かべている彼は、とてもじゃないけれど――あのとき、私にびったりと銃を向けてきた人には見えない。
 鼻先だったのよね。
 演技じゃない、ホンモノの殺気。
 しっかと引き金にかかっていた指からしても、彼はあのとき私を間違いなく殺せる立場にいた。
 もしもあのとき……私が何か妙な素振りをしていたとしたら。
「…………」
 それを思うと、今でもやっぱり身体が震えてしまいそうだ。
「……? エステルさん?」
 なんとなく気まずい雰囲気が漂ってしまったのを肌で感じ、誰の顔も見ずにソファから立ち上がる。
 すると、来るとは思っていたけれど……やっぱり、ジェドが声をかけてきた。
「どちらへ?」
「散歩」
「……散歩、ですか?」
「そう。散歩よ、散歩!」
 別に、口から出任せを言ったワケじゃない。
 でも『散歩』と言ってしまった以上は、それを貫き通すほかない。
 ……散歩、ね。
 私もよく言ったものだと思うけれど、まぁ、仕方ない。
「それじゃ……失礼」
 割と大き目のドアへ手のひらを当てて振り返ると、動きを止めた黒山羊の面々と目が合った。
 何を言われても、仕方ないと思ってる。
 でもこういう雰囲気って、苦手なのよね。
 苦手っていうか、なんていうか……。
「……やだなぁ、もう」
 自分で作り出しちゃったんだから文句を言える立場じゃないんだけど、やっぱりイヤだ。
 ……不器用、なのよね。私。
 あとで『ああすればよかったのに』とか『こう言えばよかったのに』なんて振り返ることはできるんだけど、残念ながら、その場でそうすることができないわけで。
「はー……」
 もうちょっと、愛想があればいいのに。
 そうすれば、あのときだって――きっと、もっとみんなにいい印象を与えることができたであろうに。
 ……ダメな子。
 ぽりぽりと頭を指先でかきながら廊下を進むと、窓から見える自分の知らない景色に、やっぱり足が止まった。

「…………」
 真っ白い廊下の、左側。
 そこは、ガラス張りの壁になっていた。
 ……壁っていうのかな。
 大きな窓だといっても、違和感はない。
 覗き込むまでもなく、眼下に広がる景色。
 それは、例えるならば――そうだなぁ。
 どことなく市場みたいな雰囲気がある。
 市場と言っても、野菜とか魚とかそういう市場ではなくて、株式とか……そっち関係の『市場』。
 機械を操作する人々もいれば、大声で何かを懸命に伝えている人もいる。
 若い人もいれば、歳をとった人まで。
 男女関係なく多くの人でごった返しているこの場所は、ジェドが私を誘拐めいた導きをした、彼らの組織の中枢。
 『BLACK DiamonD』の、核ともいえる場所。
「…………」
 っていうか、いいのかしら。
 こんな場所に、何も知らないような私を連れて来たりなんかして。
 だって、文字通り『何も知らない』のよ?
 まさに、素人。
 “ど”がつくくらいの、ね。
 ……なのに。
「いいのかしら……」
 窓から下を見ていたら、幾人かの――というよりもっと多い人々が、私を見ているのがわかった。
 ……まあ、目立つといえば目立つだろう。
 ほかの誰とも違って、ひと目で普段着とわかるような格好なんだから。
 それに、これでも一応名前と顔が一般に知れ渡っている立場で。
「……居づらいなぁ」
 口元を押さえながら呟くと、自然と苦笑が浮かんだ。
 ジェドが私をここに連れて来たということは、当然、ほかの人々も知ってのことなんだろうけれど……でも、気分いいものじゃないわよね。
 まるで、見世物のパンダ気分だ。
「…………」
 廊下を歩けば、人々が道を空けてくれる。
 ……だけど、好奇の眼差しのオマケ付きで。
 ここにいれば確かに安全なのかもしれないけれど……やっぱり、ね。
 どっちが自分にとっていいのかと聞かれても、正直即答はできない。

 ここ、“BLACK DiamonD”には、多くの人々が出入りしている。
 だけど、当然ながら彼らはみな組織関係者であって、私のように一般人ではない。
 まず、ここへの入り口。
 そこからしてみたって、当たり前だけど……誰でも歓迎って雰囲気じゃないし。
「…………」
 ひたりと手を壁に添えると、ひんやりとした冷たさが伝わってきた。
 黒を掲げている組織のクセに、内部は真っ白。
 そのギャップに、少しだけ笑いそうになる。
 私が入って来た入り口は、一見ただの壁にしか見えない場所だけれど、一歩踏み込むと考えられないような造りのドアで。
 立体ホログラム、なのだ。壁自体が、偽モノ。
 スクリーンも何もない場所に作り出された、映像という名の幻。
 ……でも、実際、目にはハッキリと見えているからこそ、惑わされてしまう。
 現に、私だってそうだ。
 初めてあの場所に来たときは、受付のおじさんに『どうぞ、右へ』と言われたからまじまじと見るようなこともなかったし、壁だと思い込んでいたからあえてそちらに触れようとも思わなかった。
 でも実際は、壁なんかじゃなくて。
 手を伸ばしても、触れることはおろか、温度を感じることすらできない場所。
 そんな入り口の奥に用意されていた本当のドアも、厳重なセキュリティチェックが幾重にも施された、一般にはないタイプのドアだった。
 でも、そのドアの奥には……もっと驚くような場所が広がっていて。
 この数日の間で、驚かないことはなかったと言ってもいいほど。
 私が持っていた常識という概念すべてを根底から覆されたような、そんな気すら覚えた。
「…………」
 手を添えた壁伝いにゆっくりと歩を進めると、細長い廊下に、靴音が響いた。
 この場所で、こんな靴を履いているのは、恐らく私だけだろうと思う。
 みんな同じようなシャツとネクタイを締めて、ブーツだったり……革靴だったり。
 尖ったヒールのサンダルを履いているのは、私だけ。
 スカートを穿いて、サンダルを履いて、そしてカーディガンを羽織って。
 外に出れば幾らでもいる格好だけど、ここでは通用しない。
 この、特殊機関である……この場所では。


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