「ッ……エステルさ――」
「何よそれっ……私が、どんな思いしたか……!!」
 俯いたままぎゅうっと瞳を閉じると、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
 幾筋も跡を残し、さらに新しい滴が頬を伝う。
 ジェドの姿を見ることができないのは、涙のせいだけじゃない。
 ……見れないと言うよりは、見たくない。
 そう言ったほうが、しっくりくるかも。
 出そうになる嗚咽を必死にこらえながら涙を拭うと、開いた目の先に、彼のブーツの先が入った。
「その……ただ、あれは……」
「っ……ひっ……く」
 今ごろになって、身体が震えた。
 ……怖かった。あの雰囲気に、押し潰されると本当に思った。
 ジェドの、あの瞳。
 鋭い貫くような視線に耐えきれず、何度視線を外そうとしたか。
 ……でも、それはできなくて。
 そうしようと思うたびに、彼は私を見る視線を少しずつ変えていた。
 捕えて、離さない。真実を吐くまでは、絶対に。
 まるでそう言われているような気がして、気丈に振舞おうと思いながらも、すぐにその場から逃げ出したい気持ちで……ソファに当てていた両手には、ものすごい力がこもっていたのだ。
「ッ! エステルさ……!」

「怖かった……っ」

 どうしようかと、迷いの生じていた彼の左腕。
 それを縋りつくように両手でつかんだ瞬間、搾り出すように本音がこぼれた。
「……どうしようってっ……ホントに、私……!」
 ぎゅうっと力を込めて首を振り、静かに小さく、言葉を続ける。
 すると、それまで困ったように反応を見せていたジェドが、動きを止めた。
「……すみません、そんなつもりじゃ……」
「ひっ……何よそれぇ……っ」
 ぐしぐしっと溢れてくる涙を拭ってから、涙声のまま顔を上げる。
 そこには、困惑一色のジェドがいて。
 ……そんな顔、見たことないわよ。
 さっきのお返しとばかりにもっと困らせてやろうかとも思ったんだけど、でも、目が合ったらそんな余計なことは考えられなかった。
「何よ……もぉ……っ」
 そう言いながらも、ぎゅうっと彼の腕を掴んだまま。
 ……ほっとした、からだろう。
 彼が、さっきまで――あのときみたいに、冷たい言動だけをする人じゃないとわかった気がして。
 予想外のことをしてやると、そのときの反応はいたって普通なんだ、って。
 ちゃんと温かい血の通ってる、普通の人なんだって。
 ……そう、思うことができたから。
「ジェ――」
「あぁー!!?」
 ようやくしゃくりが治まりかけ、ひと息ついてから顔を上げようとしたとき。
 ここよりも遥かに離れたところから、大きくて高い声が飛んできた。
「ちょっ……チーフ!! 何してるんですか!?」
 パタパタというより、バタバタというか、切羽詰まったような音が最初はひとつだけだった。
 だけど、そちらへ顔を向けようとしたときには、なぜか複数に増えていた。
「あーあ。ダメじゃないですか。女の子泣かせたりしたら」
「そうっスよー。チーフが泣かせてどうするんスか」
「……いや、それは――」
「言い訳なんて必要ないです! チーフがエステルちゃん泣かせたっていう事実に変わりないんですから!」
「……いや、だからそ――」
「そもそもっ!! 女の子泣かせるなんて、敵ですよ敵!! 大罪です! 許すわけにはいきません!!」
「シズル……」
「いや、あながちシズルの言うことも間違ってないと思うんスけど」
「そーそ。なんせ、相手はあの“国民的アイドル”のエステルちゃんですから」
「そうですよ! 彼女は国民的アイドルなんですよ!? 全国民敵に回したと言っても、過言じゃないです!」
「や……あの。アイドルじゃないんですけど、私……」
「まあまあ」
 いったいどこから現れたのかと思うほどの光景が、目の前で展開している。
 黒い服を着込んだ面々は、目ざとく私たちを見つけると、一目散に集まってきた。
 口々にああだこうだと自分の意見を述べ、眉を寄せたまま弁解しようとするジェドにその余地を与えない。
 中でも、『シズル』と呼ばれている――『FY』のバッジを付けている――子の言葉には、特にジェドも困っているようだった。
 ……なんか、楽しんでるみたいね。みんな。
 手を振って一応“アイドル”というところを否定しておいたけれど、別にそこはどちらでもいいらしい。
 そりゃまぁ確かに、そっち関係の人間であることに変わりはないから、いちいち言うまでもないかもしれないけど。
 ……でも。
「…………」
 やいのやいのと言われているジェドは、明らかに押されていた。
 今の彼からは、怖さなんて微塵も感じられず、あのときの雰囲気はこれっぽっちもまとっていない。
 そのせいか、困ったように眉を寄せて懸命に言い訳をしようとしているのを見ていたら、ふいにおかしくなった。
「っ……やだ、おかし……」
 いつの間にか、アレほど瞳にたまっていた涙も目尻にわずかに残る程度だった。
 指先でそれを拭ってから首を振り、くすくすと漏れる笑い声をそのままに彼らを見つめる。
 すると、ジェドはもちろんだけど、ほかのメンバーも動きを止めて少し驚いたように私を見つめた。
 ……そりゃそうよね。
 だって私、この人たちの前でこんなふうに笑うのなんて……初めてなんだから。
「あはは。や……ごめっ……なんか、おかしくて……。……ぷくく」
 ひらひらと手を振って『なんでもない』と主張しながらも、やっぱり笑いが漏れてくる。
 別に、そこまでおかしいなんて思ってなかったんだけどな。
 もしかしたら、これまでずっと緊迫というか押し込められていた感情が、今になって一気に吹き出して来たせいかもしれない。
 ああ、そうよ。
 壊れた、っていうのが正解かもね。
「あははっ……おかし……!」
 だけど、いつの間にか黒山羊の面々の顔も、驚いた表情から……少しだけ柔和な顔つきへと変化が見られた。
 ――もちろん、ジェドにも。
 それが目に入って安心したせいか、やっぱり私の笑いはしばらくおさまることがなくて。
 結局、それから数分くらいは、妙な雰囲気だけがその場をしっかり占めていたみたいだった。

「どうです? エステルさん」
「え?」

「いっそのこと、ここに引っ越してきませんか?」

「……は?」
 久しぶりに見た外の世界の空は、焼けるようなオレンジと淡い紫に染まっていた。
 ……あのときと、一緒。
 まだ、今みたいに“失踪”だのなんだのと世間が騒いでなかったあの日の夕方と。
「えーと。今、なんて?」
「冗談のつもりはありませんよ。これまで使っていただいていた部屋も、そのまま使っていただいて問題ないですし。一応、このビルの高層階はマンションという表向きですからね。仕事のときはお付きの方に下まで迎えに来てもらえば、特に問題はないでしょう」
「いや……ちょ……」

「それに、名目上は“解放”になりますが――あなたが我々と『共存』していくことには、変わりありませんから」

 にっこりと。
 まったく毒のないような笑みを浮かべた彼は、ひきつった私の表情なんて見なかったみたいに、にこにこと同意を仰ぐかのごとく首をかしげた。
 ……この顔。
 これ、すぐに冷徹なモノへ変化するんだから。
 プロと言えば確かにそうだろう。
 でも、ねぇ。
「……嘘臭いわね」
「ひどいですね」
「ホントのことよ」
 じぃっと視線を向けたまま口を動かすと、一瞬だけ、困ったように苦笑を見せた。
 ……まぁいいわ。
 確かに、彼の言葉に間違いはないんだから仕方ない。
 むしろ、仰る通り。その通り、ってヤツで。
「……はぁ」
 すっかり固まってしまった身体をほぐそうと両手を上へ挙げて伸びをすると、凝り固まっていた気持ちまでもが、一緒に伸びたような気がした。
「CMの件も、考えておいてくださいね」
「……えぇ?」
 せっかく、しばらく考え込んでから『まあいいか』と思えたのに、彼はどんどん次の話題を吹っかけてきた。
 何よ……この速いテンポは。
 眉を寄せて思いきり不服を表情で示してやるものの、ジェドは相変わらずにこにこと笑みを張り付かせたまま人差し指を立てた。
「エステルさんが我々と繋がったと知れば、当然集まってくる人間がいます」
「……まぁ、そうでしょうね……」
「そうすれば、手間が省けるじゃないですか」
「は?」
「一網打尽、ですね。こちらの手間が省ける上に、エステルさんの警護もできる。一石二鳥じゃないですか」
「いや、あの……だからね? そういうことは、笑顔で言うべきじゃ――」
「それがいい。そうしましょう」
「……ちょっと」
 ぽん、と手を叩いて『それがいい』としきりにうなずく彼に、今はもう疑念の眼差ししか向かわなかった。
 何が、『そうしましょう』よ。
 張本人の私の意見は、そっちのけにして。
 失礼しちゃうわ。
 私をなんだと思ってるのよ。
「…………」
 そう言ってやりたいのはやまやまだけど、聞かなくてもわかってるから、あえて口には出さない。
 だって、惨めじゃない?
 『もちろん、我々にとってエステルさんは誰よりも有益なオトリですよ』って微笑まれるのは、目に見えてるんだから。
 ……なんだかなぁ。
 そりゃまぁ、危ない目に遭わなくなるっていうのは、安心だけど……ね。
 でもやっぱり、いまいち手放しで喜べることじゃない。
 当然だけど。
「あ、そうそう。失踪の問題は、宝くじでも当たったことにしたらどうですか?」
「は……ぁ?」
「ほら。マンションをぽんと買えるほどの額が手に入って、誰にも内緒で引越しを済ませていた……と。姿をくらませていたのは、そういう理由だと公表してみては?」
「……あのね」
「ああ、ご心配なく。すでに、シズルがご自宅へ向かっているはずです。ご存じのとおり、部屋には家具などがひとしきりそろっていますが、どうしても持ち出したいものがありましたら、ピックアップしておいてください。後日改めて、作業班とともにお邪魔しますので」
「あのねぇ……!」
 ぽんぽんと澱みない声で次から次にアイディアを出されても、『そうね。いい考えだわ』なんていえるはずはもちろんない。
 ていうか、後半はすでに決定事項らしいけど、どういうこと?
 シズルがすでにウチにいるなんて、そんなの初耳すぎてびっくりするんだけど。
 ていうか、この状況なら『実は合いカギも入手しています』って言われても、逆に驚かないわ。
「はー……。そんな嘘、誰が信じるのよ」
「僕は信じますよ?」
「……あ、そう」
 深い深いため息とともに囁くと、独り言のつもりだったのに、ジェドはしっかりと返事をくれた。
 ていうか、笑顔でそんなこと言われると何も返せないんだけれど。
「…………」
 呆れ半分、だけど逆らえない雰囲気もわずかにある。
 でも、馬鹿げてるわ。
 そんなこと、ルイに言ったって信じてもらえないに決まってるわよ。
「……まったく」
「駄目ですか?」
「ダメとかイイとか……そういう問題じゃないでしょ?」
 いたって普通の顔で訊ねられても、私だって困る。
 だって、その答えを出すのは私たちなんかじゃなくて――これを聞いた、たくさんの人々なんだから。
「あー……どうしようかしらね」
 もう一度大きく伸びをしながら息を止め、腕を下ろすと同時に息を吐く。
 すでに沈んだ夕日は見ることができなかったけれど、名残として色づいている空は相変わらずそこに残っている。
 久しぶりに戻る、自宅。
 そして、迷惑をかけてしまったたくさんの人々が待っているであろう事務所。
 その方向を見つめて口を結ぶと、やんわりと緩むのがわかった。
 ……明日から、始まるってことね。
 また、違った意味での新しい日が。
「……ね」
 そういう意味を込めてジェドに笑うと、知ってか知らずか、同じように笑ったのが少し意外だった。

 ――後日。
 大勢の記者やレポーターが所狭しとひしめき合っている事務所の玄関前で、おもむろに開いた口からは……こんなことが滑り出た。

「実はその……宝くじが当たりまして……」

 たくさんのフラッシュとマイクを向けられながらも、まったく動揺することなく言えたのは――やっぱり職業柄のモノもあるんだろうか。
 事前に何度もリハーサルをしたわけじゃない。
 でも、ルイたちにもそう言ってしまった以上、ここで違うことを言うわけにもいかなくて。
 ……ああもう。
 これだから、嘘って嫌いなのよ。
 『どうしてですか』とか『なぜ行方をくらましたんですか』なんてことを異口同音にマシンガンみたいに向けられて、返事がなかなか切り出せなかった。
 きっと今ごろ、この様子を黒山羊の面々も見てるんでしょうね。
 その中でも若干1名は――くつくつとおかしそうに笑いながら。
「ご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
 深く頭を下げ、しばらくそのままで止まる。
 ……これでもう、逃げることはできない。
 そう。
 私は、捕まったんだと思うのが、一番しっくりくる。
 同じなのね。きっと。
 一度、ダイヤに取り込まれたら抜け出すことができない、ひと筋の光のように。
 ……ブラックダイヤモンド。
 同じものをいつか、私もこの手にするかもしれない。
 もっとも――私の場合は、自身を着飾るために、だけどね。
 深々と下げていた頭を元に戻したとき、レンズの向こうに居るであろう彼らに対して、無意識の内にそう答えを出していた。


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