ぴんぽーん

「はーい」
 よそとはいえ、やはり聞こえるのは同じチャイム。
 ……まぁ、当然だろうな。
 なんせここは、自分の隣の部屋なんだから。
 そんなことを考えながら、自分の部屋と同じ造りのドアの前に佇む。
 手には、四角い菓子折。
 なんてことはない。単なる、引越しのあいさつだ。
「…………」
 部屋から聞こえてきたのは、若そうな女性の声。
 だからこそ、思わず身体が強張ると同時に、眉が寄った。
 ……正直、苦手なのだ。
 何を話せば? どんな態度をとれば?
 生まれてこの方、“愛想”というものには不自由しっぱなし。
 そのせいか、今年はいよいよ三十路。
 それでも何かと両親にうるさく言われないのは、やはり自分が男だからか。
 妹はとっくに嫁へ行ったが、お陰でなんの気兼ねもなく実家に顔を見せることができる。
「………………」
 が、しかし。
 安心していた俺も、この前ついに両親の計画にハメられた。
 まさかあの母親が無理矢理に見合い話を持ってくるなど、思いもしなかったのに。
 去年の年末と同様に、今年のお盆でさえも何かと忙しくて結局帰れずじまいだったのだが、もしかしたらそれが引き金になったのかもしれない。
 ……別に、幼い従兄弟や甥姪たちに、お年玉をくれてやるのが嫌なわけじゃない。
 そうじゃないんだが、本家ということもあってか、続々と人間が来る。
 イコール、のんびりすることができないわけで。
 そんな思いもあってか、母親には『仕事で帰れない』と4割程度の嘘をついた。
 だが、考えていた以上にあっさりと『あ、そう。じゃ、しょうがないわね』なんて返事をもらって、あのときは少しばかり傷ついてもいたというのに……まさか見合いを決行されるとは。
「っ……」
 ガチャガチャ、とドアの向こうから音がした。
 昨日引越してきて、やっとひと通りの荷物の整理がついた本日、近所の和菓子屋で折り詰めを作ってもらった。
 自分の部屋は、ここのすぐ左隣。
 ちょうど3階建ての1番上で、かつ角部屋というなかなかの好条件。
 すぐ下の階の住人は、俺よりも少し年上らしき男性だった。
 ……が、しかし。
 隣。
 本当にすぐ隣のこの部屋に住むのが、女性とは。
 …………下見のときは、わからなかったな。
 今になって、ものすごく後悔する。
「……っと、お待たせしましたー」
「ッ……」
 ガッチャン、とひときわ大きな音のあと、ドアからなんともいえない雰囲気が漂ってきた。
 途端、若干鳥肌が立つ。
 ……苦手だ。
 心底、この雰囲気が苦手だ。
 部屋から聞こえてくる音楽番組の音も、自分の部屋とはまた違う匂いも。
 そして何より、この甘そうな声が。
 ドアにかけられた細い白い指と、微かに見えた茶色の髪がまず目に入って、思わず喉が鳴った。
 ――……が、しかし。
 次の瞬間、生涯これまで味わったことのないほどの驚きと衝撃とをいっぺんに手に入れる羽目になった。
「ごめんなさーい。なんか、部屋とかちょっと散らかってて……」
 にこにこと笑いながら、顔を覗かせた住人。
 その顔を見て、危うく菓子折を足の上に落とすところだった。
「ッ……な……!!」
「え? ……っ……うわ!? え、あ……えぇ!?」
 ごくり、と大きく喉が鳴った。
 そして情けなくも口が半開きになる。
 俺をまっすぐに見つめたまま、口元をひきつらせ、驚きからか丸くなった瞳。
 それぞれを確認してから全体像として“彼女”を認識するまで、もしかしたら1分弱は経っていたかもしれない。

「み……やざき……ッ!?」

 ぎりぎり、と歯を食いしばりながら声が出た。
 張本人を目の前にして、ほかに何を言うことがあろう。
 ……だが、しかし。
 意外にも彼女は、一瞬露骨に感情を表に出しながらも、次の瞬間にはすんなりと現実を受け入れたようにも見えた。
「え……っとぉ……なんでドクターが?」
「違う」
「あ」
 ぽりぽり、と首筋を掻いた宮崎に、眉を寄せて即否定する。
 ああ、そうとも。自分でも知ってはいる。
 生徒らが人のことを勝手に『ドクター』と呼んでいることもな。
 どうやら、高鷲(たかす)という苗字の響きかららしいが、正直不愉快このうえない。
 ほかにも、もろもろと自分に関する噂と呼ぶほどでもない生徒の戯言を耳にはするが、今さらなんとも思わなくなった。
 うちの学校からも行く人間がほとんどいない外語大卒であることを言われるのは、何も生徒ばかりでないからな。
 嫉妬か、それともほかの何かか。理由はわからないが、なんにせよ面倒なことに変わりはない。
 そもそも、正直言ってしまえば、他人にそこまで興味はないんだ。
 誰がどうなったとか、どう思っているとか、どうでもいいじゃないか。そんなことは。
 自分自身にのみアンテナを張っていれば、それで十分。
 なぜそう思わない人間が多いのかと、呆れることも多い。
 面倒なことに関わないよう、石橋を叩いて渡るどころか、設計の段階からまず調べ上げるという方法で生きてきたのに……なぜこうなった。
 なぜ、学内イチ面倒で、学内イチ厄介な生徒と称されている宮崎穂澄(ほずみ)なんかがここにいるんだ。
 コイツの住所はここだったか?
 教員をしているとはいえ、いちいち生徒の住所まで把握していなかったが、まさかこんなところに住んでいたとは。
 すでに手続きを終えてしまったからこそ、そう簡単に変更はできないが……しかし。
 今からでも、引っ越しの手続きをする必要があるのではないかと瞬時に思えた。
「宮崎。貴様、ここに住んでいるのか?」
「住んでるけど」
「…………」
「……何よ」
 一応と思って確認した途端、当然の反応をされて思わず口をつぐむ。
 ……やはりここがお前の住まいか。
 瞳が細くなると同時にため息が漏れ、一瞬眩暈がした。
「……お前、まさかとは思うがひとり暮らしじゃないだろうな」
「やだー違うに決まってるでしょー?」
「嘘はつかないほうがいいぞ」
「うぐ! なっ……なんでわかったの!?」
「…………お前」
「え。……ああっ!? もしかして引っかけた!? やだ! すっごいずるい!! 何それ! 馬鹿じゃないの!?」
「宮崎ぃ……ッ!」
「ひぇ!?」
 ちらりと見えた玄関先からして、“家庭”の雰囲気がしなかったためにカマをかけてみたが、まさかその通りだったとは。
 ……お前、どうしてくれるんだ。
 高校生の分際で独り暮らしなど、考えられないことだぞ。
 それどころか、間違いなく校則に違反しているだろう。
 というか、そもそも親の問題だな。
 こういう場合はまず……どうしたらいいんだ。担任に告げるべきなのか。
「じゃっ!!」
「ッ……待て!!」
 思いきりドアノブを引っ張ったのが見え、反射的にドアを足で止める。
 だが、まるでしつこい勧誘にでも遭ったかのように、宮崎は情けなく眉を寄せた。
「え、ちょ! なんなんですか、いったい!!」
「何じゃないだろう! どういうことだ、宮崎! 貴様、なぜこんなところに住んでいる!!」
 ガタガタとドアを鳴らしながらはいるものの、力の差は歴然。
 とてもじゃないが俺に敵うはずないだろうに、ものすごく悔しそうな顔で宮崎はなおもドアノブから手を離さなかった。
「いやぁああ! なんでもするから! ちょ、ホントに!! なんでもするから、学校にだけは言わないで!!」
「馬鹿なことを言うんじゃない!!」
「やだってばぁあ! 私、めっちゃがんばってるんだよ!? 敷金も礼金も自分で用意して、ママのことだって納得させるためにめっちゃがんばったんだから!!」
「そういう問題じゃないだろう!」
「じゃあどういう問題なのよ!!」
 がんばったを連呼されたところで、そうですかと手を離せるわけがない。
 片手でドアノブをつかみながら、あまりにも必死に抵抗する宮崎にため息が漏れる。
 普段とはまるで違うんだな。
 学校では、それこそどんなときでも余裕綽々の顔で、教師を相手にしても揚げ足をきっちり取ってくるくせに。
 今目の前にいるのは、年相応の女子高生でしかない。
「うぐっ……! 何よこの冷血人間!! いーじゃないのよ!! これでも、ちゃんとバイト代で生活してるんだから!!」
「何!? お前バイトもしてるのか!? 規則違反だろうがそれは!!」
「うわ、しまった!!」
 言い訳のつもりなんだろうが、とっさのことで口を滑らせたな。
 それにしても、なんということか。
 まさか、独り暮らしのうえに禁止されているバイトまでしていたとは。
 ……宮崎貴様……!
 どうして俺に見つかったんだ、お前は。
 どうせなら、もっと面倒見のいい教師にでも見つかればよかったものを。
 …………ああ、面倒くさい。
 俺がコイツの後始末をしなければならないのかと思っただけで、たちまち頭痛がしそうだ。
「……あっ。うそうそ! わたしー、実はおねーちゃんの帰りを待っててー。留守番ってヤツ?」
「そんな訳ないだろうが」
「うっ」
 ぱっと表情を変えた宮崎を見たまま、瞳を細める。
 この期に及んでまだシラを切ろうとするとは、頭が悪いんじゃないのかお前は。
 俺の授業中、コイツは居眠りの常習犯で、ほかの教科の内職作業は当たり前という、とんでもなくレベルの低い生徒で。
 テストの点数もよくはなく、何度となく職員室へ呼び出したこともあった。
 ……いや、過去形になどとてもじゃないができないな。
 少なくとも、おそらくコイツが卒業するまではきっと続いていくだろうから。
「っ……じゃあ、どうすればいいんですか!!」
「何?」
「だから! 私!!」
 窮鼠、猫を噛む。
 とうとう追い詰められて、まっすぐから俺を見てきたか。
 まぁ、コイツに限ってとてもじゃないがネズミのような小さな生物には見えないけどな。
 唇を噛んだまま上目づかいで睨んでいる宮崎を見ながら、呆れからのため息がふたたび漏れた。


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