「…………すまない」
ため息が聞こえたような気がしたあとで、彼が小さく謝罪を口にした。
途端、ちくりと胸が痛む。
……だって、先に謝らなきゃいけないのは私なのに。
勝手に拗ねて、勝手に困らせてる私が、悪いんだから。
なのに、彼はさらに驚くようなことを口にした。
「……悔しかったんだ」
聞こえた声は、これまで聞いたことのないような声だった。
「今日、数学の新藤先生に言われたんだよ。宮崎はよっぽど高鷲先生のことが嫌いなんですかね、って」
「っ……」
「何かしたんじゃないですか、って。……ああ、したとも。それは認める。でも――……前者は認めたくない。ただ……否定するだけの強さが、咄嗟に出てこなかった」
授業中も、それ以外でも、こんなに弱い部分を見せられたことはない。
イコール、声だってそう。
まるで、叱られたときの男の子みたいに小さくて、弱くて、普段の強気な態度なんて微塵も感じられなかった。
「お前は、俺以外の授業をきちんと臨んでいるだろう? だから……俺以外のヤツにはいい顔を見せるのに俺にはそんな素振りがないから、だから……なんでだ、って。俺の授業だからこそ、きちんと出てほしかったんだ」
――……すまない。
再度聞こえた謝罪で、身体が動いた。
「……宮崎……」
「…………ごめんなさい」
「っ……」
「そんなふうに思ってたなんて……知らなかったから……」
静かに鍵を回し、ドアを開け放つ。
絶対、みっともない顔になってる。
もしかしたら、ツケマだって取れてるかもしれない。
ううん、それこそマスカラで目元が黒くなってるかもしれない。
……でも、いいもん。
それで笑ったら、怒ってやるんだから。
「ごめんなさい」
手を伸ばし、スーツを掴む。
当然のように身体を寄せると、何よりも冷たさが先に来た。
この時期の夜は、かなり冷える。
冷たい、なんてものじゃない。
なのに……ずっと、ここにいてくれた。
ほかでもない、私のために。
「……悪かった」
「っ……」
おずおずと彼の腕が背中に回り、ゆっくり抱きしめられた。
少しだけ煙草の匂いがして、だからこそ……嬉しくて。
ああ、本当に今抱きしめられてるんだって思うと、何よりもほっとする。
「……私も悔しかったの」
緩く首を振ってから、目元を簡単にぬぐって彼を見上げる。
すると、いつにも増して優しい……というよりは、それこそ今にも泣いてしまいそうな、かなり困った顔をしていた。
「だって……私じゃない子に、優しい顔するから」
語尾に行くに従って、視線が落ちた。
……でも、もう1回上げる。
唇が尖ってたような気がしないでもないけれど、そこはもう気にしないことにした。
「…………ねぇ、あのとき……私がちゃんと答えてたら、嬉しかった?」
「何?」
「褒めてくれた?」
「っ……」
自分らしくない声だな、とは思った。
でも、どうやら声だけじゃなかったらしい。
一瞬目を見張った彼が、喉を鳴らす。
「……簡単に、みんなの前で褒めてやることはできないかもしれないが……それでも、こうして……ふたりきりのときなら、いつでも褒めてやる」
「ほんと?」
「ああ」
こほん、と小さな咳払いとともに一瞬外れた視線が、ふたたび戻った。
気のせいじゃないよね?
ほんの少しだけ、頬が赤く見えるのは。
……なんでそういう反応するかなぁ。
かわいいって思っちゃうじゃない。
特別って……何よりの自信になるから、たまらない。
「じゃあ、今度からそうする」
「……何?」
「だから、ちゃんと私のことだけ見てて」
「っ……」
「褒めてくれなくてもいいから。……だから……私だけ、見ててよ?」
ぼそぼそと言いきると同時に、頬が熱くなった気がした。
でもそれは、私だけのせいじゃないらしい。
ゆっくり触れた大きな手のひらは、まったく冷たくなくて。
視線を上げてすぐ目に入ったいつもとは違う表情に、今度は私の喉が動く。
「っ……違うでしょ」
ちゅ、と頬に口づけられてすぐ、眉が寄った。
だって、違う。
私が望んだのは、こんな展開じゃない。
「な――……っ……」
「誰にでもできるキスは、いらない」
代わりに手を伸ばし、頬に触れる。
ほんの少し冷えた肌。
だけど、自分の手が温かいからか、心地よく感じた。
「……ちゃんと……ちゅーして」
「っ……」
眉を寄せ、精一杯引き寄せる。
自然とつま先立ちになったことで、足裏の冷たさが少しだけ減った。
「ん……っ」
唇を重ね、舌先で舐める。
まだ、数えるくらいしかしてないキス。
だけど、毎回違う……大事なもの。
「っ……ん、ん……」
おずおずと舌先に触れ、ひくん、と身体が反応しそうになった。
代わりに、鼻にかかった“女”の声が漏れる。
「は……っ」
短く息を吸ってから、もう1度。
ときおり聞こえる濡れた音が、最初のころと違って心地よく耳に響く。
『もっと』
まるで、どちらともなくそう言ってるみたいだ。
「……ね……」
「ん……?」
「…………なんて呼んだらいい?」
「……何?」
「先生のこと……なんて呼んだらいいの?」
久しぶりに口にした『先生』って呼称。
ちょっと前までは当たり前だったし何もヘンに思わなかったのに、すごく違和感がある。
だって、目の前のこの人は『先生』だけど『先生』じゃない。
もう、今は違う人。
だって……私のカレシだもん。
「なんて、って……別に、好きに呼べばいいだろう?」
「……いいの?」
「ああ」
じぃ、と彼を見たままでいたら、しばらくは目が合っていたものの、ふいと逸らされた。
彼のこんな顔、ほかの誰も見たことがないだろう。
……ううん。
彼がこんな顔をするなんて、誰も知らない。
私以外は。
「……里逸」
「っ……」
「ダメ?」
「いや……構わない」
「ホントに? だって……呼び捨てなのに? いいの?」
「ああ」
1字ずつ丁寧に囁くと、なんだかすごく不思議な感じがした。
りーち、じゃなくて。りいち。
ダメかな、って思ったの。ほんの少しだけ。
だって……年下だし、呼び捨てなんてすごく嫌がるんじゃないか、って。
なのに、口にしてみると、彼は一瞬驚いた様子だったものの、むず痒そうに口を結んだ。
……えへへ。
やだな、かわいい。
私だけの特別が、こうしてひとつずつ増えていくことが、何よりもたまらなく嬉しい。
「穂澄」
「っ……」
耳元で囁かれた名前に、身体が粟立つ。
……やだ。
こんな感じ、初めて。
「もう1回呼んで……」
「……穂澄」
どうしよう。
ぎゅう、と抱きついたままただ首を横に振るしかできない。
唇を噛んでも、やっぱり勝手に顔がにやける。
……どうしよ。
私、もうだめかもしれない。
「どうした?」
「っ……だ、って……」
「何?」
「だって……聞きなれてるはずなのに、全然違うんだもん」
彼の胸に手を当てて、ほんの少しだけ距離を作る。
まっすぐからなんて、目を見れるはずない。
……でも、少しだけ。
ほんのちょっとだけちらりと見あげると、途端に里逸もまた目を見張った。
きっと、今の自分の顔は見れたものじゃない。
いつだって完璧で、どこからどう見られても大丈夫なように、計算づくした上でのものじゃないから。
……でも、いいもん。
文句言われたら、私だっていっぱい反論するから。
「……もう……どうしよう。嬉しくて……顔が戻らないじゃない」
スーツを握りしめたまま、視線が落ちる。
だけどまた勝手に顔が緩んで、私らしくない声が漏れた。
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