「……なぁに?」
 うっかり愛想皆無の声が出そうになったけれど、寸前でどうにかなった。
 でも、表情はまだそこまで復帰できない。
 ……どうせ拗ねてる子どもと一緒だもん。
 けど、こればっかりはどうしようもない。
「これは、どういう意味だ」
「え?」
 スーツ姿のままの彼が突き出したのは、今日の午前中にやったあのプリント。
 隅っこに書いたときまんまの字が見えて、視線が逸れる。
「……別に。そのままの意味だけど」
「そのまま?」
「そうよ。そのまんま」
 履いたままだったブーツを脱いで上がると、代わりに彼が戸口へ入ってきた。
 いかにもってくらい、仕事帰りそのものの格好。
 私の足元に置いたサラリーマンがよく持ってるような鞄の中には、プリントの束や本のようなものも見える。
「どうしていつも、俺の授業だけ真面目に受けないんだ」
「……それは……」
「それは、なんだ?」
「…………だって」
「……あのな。だってじゃないだろう?」
 目の前で腕を組んだ彼と、少し高い位置にいる私の目線がほぼイコールになる。
 だから、まっすぐ前は見れない。
 ……絶対、あの『お前はしょうがないヤツだな』って顔してるんだもん。
 嫌いじゃないよ? その顔だって、当然。
 でも、今は見ない。見たくない。
 理由もなく責められるのは好きじゃないから。
「……まったく。田原は真面目に受けていただろう? だからこそ、お前ももう少し――」
「っ……なんで」
「何?」

「なんでそこで、あの子の名前が出てくるのよ……ッ……!」

 はぁ、と彼がため息をついた途端、ぼそりと聞こえた言葉に目を見開いていた。
 途端、フラッシュバックするのはあの光景。
 『正しい』
 ほんのわずかに表情を緩めた彼が言ったひとことは、大きすぎるもの。
 もしかしたら、みんなにはわからなかったかもしれない。
 気づかなかったかもしれない。
 でも、私は違う。
 今までずっと彼を見てきた私には、些細な表情の変化だって見逃すはずないし、わからないはずないんだから。
 これは絶対。
 だからこそ――……彼が表情を緩めたあの一瞬が、ふたたび蘇る。
「ッ……」
「帰って。もうやだ、帰って!」
「な……っ……なんだ、急に」
「何じゃない! いいからもう帰って!!」
「っ……宮崎!?」
「何もわかってない……!!」
 靴下のまま戸口に降りてすぐ、コンクリートの冷たさがじわりと足裏から広がる。
 だけど、彼の顔を見ずにぐいっと身体を押して外に出す。
 残念ながら、ドアは押し開きのタイプ。
 ノブを片手で握って彼を押しのけると、数歩よろけたように見えたけれど、構わないし確認だってしたりしない。
 やってはいけないことをした。
 そうしたら――……謝るのがスジなんじゃないの?
「宮崎!」
 バタン、ガチャン。
 ドアノブを思いきり引っ張って鍵を回し、ノブをつかんだ手に力がこもった。
 当然、奥歯は噛みしめっぱなし。
 ……なんだか久しぶりだ。
 こんなに悔しい思いをしたのは。
「ッ……なんで、ほかの子の名前出すのよ、ばかぁ……!」
 ガン、とドアを叩きつけ、置いたままの腕へもたれるように額を付ける。
 なんなの。
 なんなのよ、いったい……!
 私がこんなふうに思ってるなんて、知らないくせに。
 私があのとき、どんな思いでいたかなんて、知らないくせに……!
 なのに、あの子を見習えですって?
 ふざけないでよ……!!
「何も知らないくせに……ぃ」
 情けなくも声が潤みを帯び、それが悔しくて唇を噛み締める。
 確かに、あの子が答えたときの彼は、すごく嬉しそうだった。
 でも――……じゃあ、同じだった?
 もしもあのとき私が答えたら、あんなふうに嬉しそうにしてくれたの?
 ……違うでしょ。
 私がいくらがんばっても、あんな顔なんてしてくれないクセに。
「宮崎……っ……違う、そうじゃない!」
 少しだけこもったような声が、ドア越しに聞こえた。
 だけど、当然鍵を開けてやるようなことはない。
 なんでそこにいるのよ。
 ……帰ればいいのに。
 部屋に戻ればいいのに……っ。
 こんな私なんか、ほっとけばいいのに。
「……っ……ふ」
 なんで優しいの?
 明らかに困惑した声が聞こえた途端、涙がこぼれる。
 だって、何も悪くないんだよ?
 全部私のわがままなんだよ?
 なのに……っ……なのに、なんで離れていかないの?
 なんで……大事にしてくれるの?
 ……もぉ、なんなのよ。
 これじゃ謝れなくなるじゃない。
「宮崎、すまない……違うんだ。何も、お前を怒らせようと思ったわけじゃない」
 もしかしたら、彼も同じようにドアへ手を当ててくれているだろうか。
 1枚隔てた向こうにある気配が近いように感じて、目を閉じたまま……つい耳をそばだてる。
 大好きな人。
 大好きな声。
 ……でも……そばにいられるようになるまで、知らなかったよ?
 こんなに優しい人だったなんて。
「悪かった。……そうじゃないんだ。頼むから、ここを開けてくれ」
 懇願にも似た言葉だったけれど、はいそうですかと簡単に開けられるわけがない。
 人間、意地ってものもある。
 あとは――……タイミング。
 きっかけがなければ、意固地な気持ちはそうそう簡単に動かせないんだから。
 

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