翌日は、コレといって何が変わるでもない日常が待っていた。
 ……おかしい。こういうものなのか?
 昔、考えていたようなことは起きなかったぞ。
 もっとこう……いや、別に……まぁいい。
 バラ色だとかやけに華やいで見えるとか、現実においてそれはないはずだから。
「そこまで。……では、次の単元を」
 普通に学校へ来て、普通に教壇に立つ。
 ……ただひとつ、普通じゃなかったこと。
 それはやはり、今朝から宮崎が部屋に来たことだろう。
 正直、どう接していいものかと悩んだのだがな。
 やはりそのあたりはあの子の性格によって、全面的に救われた気分だが。
 …………そういえば、例の影山教諭だが。
 その日の内に警察が動いた上、懲戒免職処分が下ったという話を聞いた。
 そんな話は、当然どこからでも漏れ、そして一度そうなれば際限なく広がる。
 事実、学校内は今朝からずっとその話で持ちきりだった。
 まぁ……どこが発信源なのかなど、考えるまでもなくひとりしか思い浮かばないが。
「宮崎」
「あ、はーい」
 ……変わるんじゃなかったのか、お前は。
 少しだけ、これでも淡い期待を抱いていたのに。
 なのに、だ。
 やはり彼女は、彼女らしく。
 どうやらこれからも、その態度を崩すことはないらしい。
「……えっと……どこからだっけ?」
「もう。ここでしょ?」
「そっかそっか。ありがとー」
 眉を寄せて教科書を持った宮崎に、隣の席にいた葉山がさりげなく箇所を教えた。
 とはいえ、なんなんだその態度は。
 一時期の怖いくらいよくできた宮崎ではなく、まるで……そう、引っ越した翌日くらいに見ていた彼女の姿そのもので、眉がひくりと上がる。
 ……お前な。
 呆れるよりも先に、湧き上がるちょっとした怒り。
 よく言うだろう?
 かわいさあまって憎さ百倍、と。
 だいたい、普通は逆だろうが。
 せめて、ほかの教師の授業は置いておいたとしても、俺の授業だけは真面目に取り組むのが筋なんじゃないのか?
 片手で持ったままの教科書が少しだけ歪んで、瞳が細る。

「……こほん。ぶらんにゅーとぅもろー。まいくいーとあぶれっくふぁーすと」

「なっ……!?」
「んーと……え……えごい……」
「ちょっと待て!」
 しかめっ面して思いきり教科書へ顔を近づけたのを見て、慌てて止める。
 ……な……なんなんだ今のは!!
 というかお前、それは幾らなんでも通用しないだろう!!
 あまりといえばあまりすぎる出来事に、クラス中が爆笑に呑まれた。
「おまっ……宮崎! お前、この前はあれほど流暢に読んでいたじゃないか!」
「えー。そうですかー? でも私、英語って苦手だし……」
「何!?」
 うーん、ととぼける彼女に、ぽかんと口が開いたままわなわな拳が震える。
 ……っく。
 いくらそんなかわいい顔をしたところで、駄目なものは駄目だからな。
 顎に人差し指を当てて首をかしげられると、一瞬眩暈はしたが。
「……宮崎。あとで職員室に来い」
「はぁーい」
 にこにこにっこり。
 無邪気すぎる笑顔が眩しかったのか、はたまたがっかリしたのか。
 恐らくどちらのせいでもあるだろうが、どっかりと両肩に疲労が蓄積したのを感じた。

「高鷲セーンセ」
「っ……お前か」
「えへへ」
 なんともテンションの下がった授業を終えてから、ひとり廊下を歩いていたとき。
 やけに明るい声とともに、宮崎がすぐ隣へ並んだ。
「……お前な。どういうつもりなんだ?」
 授業態度が好転するどころか、まったくの正反対。
 相変わらず机の上には教科書とシャーペン1本のみで、ときどき視線が逸れたかと思いきや“内職”をしているらしく数学の教科書がちらりと見えた。
 ……はー……。
 俺の読みとやらが、ことごとく崩壊していく。

「だって、こうでもしなきゃ大っぴらに会えないじゃない」

「……な……」
「だから、コレも計算のウチっていうの?」
 くすっと笑った彼女が、俺を見上げてにんまりと笑った。
 あまりの態度の違いに、一瞬口が開く。
「前から、呼び出されるのが普通だったしね。だもん、今さら回数が増えたところで、何も不思議はないでしょ?」
 けろり、と言われた言葉。
 それは筋とか道理とか、そういう問題じゃないんだが……しかし。
「…………お前な」
 もしかして、そんなところまで計算づくだったんだろうか。
 危うく『それもそうだな』などと思ってしまいそうになり、慌てて律する。
「……痣になっちゃったね」
「ん? ……ああ、コレか」
 少しだけ眉を寄せている彼女を見てから指先で顎に触ると、痛みが鈍く走るものの、そこまでではないのが現実。
 ……すっかり忘れていたな、昨日の……あの時間があったから。
 などとは、口が裂けても言えないが。
「まぁ、じきによくなるだろう。……どうせそこまで目立ってもない」
「……口は?」
「まぁ、大丈夫だ」
 ぼそぼそとしたやり取り。
 だが、だからこそ秘密めいていて、内心特別な思いが生まれる。
 …………。
 ……一瞬、背徳感などという不届き極まりない単語が思い浮かび、慌てて首を振って消したのも事実だが。
「……もう1回」
「ん?」
「ちゃんと……消毒、したほうがイイ?」
「ッな……!」
 上目遣いに首を傾げた彼女が、人差し指を唇に当てた。
 その意図が十分すぎるほど伝わって、瞳が丸くなると同時に――少しだけ顔が熱くなる。
「っ……お前は……」
「えへへ」
 視線を逸らし、反射的に口元を手で押さえていた。
 蘇る、感覚。
 なんともいえないあの感じが胸の奥から身体へと広がりかけ、慌てて首を振る。
 ……まったく。
 まぁ……不埒なのは、俺のほうかもしれないが。
「ごめんね」
「……なんだ急に」
 まっすぐ視線を向けたまま、ともに歩いていたとき。
 不意に、宮崎が小さく謝罪した。
 だが、いったい何に対することなのかがわからず、もう1度そちらへ顔が向く。

「やっぱり私……センセの困った顔見るの、好きかも」

「っな……」
 あまりにも無邪気な顔でくすくす笑われ、何も言えなかった。
 ……だが……そうだな。
 あえてひとつだけ言うとすれば――。

 仕方ない、じゃないか。

 そんな彼女だからこそ、俺が惹かれたんだから。
 ……と纏めるほかなかった。


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