「コーヒーか、お茶か紅茶。何かご馳走してあげる」
「……何?」
 湯が沸いたことを主張していた電気ケトルを止めたあと、宮崎がこちらに視線だけを向けた。
 ……なんだその顔は。俺が何かしたのか?
 そう思ってしまいたくなりそうな不機嫌さは、それこそさっきまでとは別人。
 これまでの、俺をひたすら避けていた彼女に戻ってしまったような錯覚を覚える。
 ………………いや。
 決して先ほどのことは、錯覚でもなんでもないが。
「……別に、どれでも……」
「だから! それが1番ダメだって言ってるでしょ!」
 ぽつりと呟いた途端、まるで噛み付くような勢いで宮崎が睨んだ。
 あまりの反応の違いに、思わず瞳を丸くする。
「じゃあ、コーヒーでいい」
「……ったく」
 それが果たして、正解の答えだったんだろうか。
 微妙にすっきりはしないものの、宮崎はそれ以上何を言うでもなく視線を逸らした。
 すぐに漂ってくる、コーヒーの香り。
 これがいつもとはまったく違う特別なものように思えて、少しだけ張りつめていたものが薄れたように思えた。
「はい」
「……ああ」
 突き出すように渡されたマグカップ。
 黒い液体は、いかにもというほど苦々しさを表している。
 ……まぁもっとも、こんな状況だ。
 宮崎も黙って俯いたままだし、テレビがついているわけでもなし。
 沈黙というある意味絶対的なものが支配するこの部屋で飲むコーヒーは、さぞかし苦いんだろうな。
 などと、カップを傾けながらそんなことが浮かんだ。
「ッ……!」
「え?」
 だが、まったく予想外の出来事が起きた。
 唇をカップに当てた途端走った、ものすごい激痛。
 ひとつは、熱さによってこれまで忘れていたものが蘇ったせい。
 そしてもうひとつは、硬い感触に唇がぶつかって驚いたというのもある。
「やだ、ちょっ……大丈夫? ねぇ、痛いの? 怪我したとこでしょ?」
「……大丈夫だ」
「嘘ついてどーするのよ! ……もー。ほら、見せて? ねぇ、ちょっと!!」
 押さえ込むように手のひらを当て、首を振る。
 だが、慌てたような顔をした宮崎は、すぐ目の前で膝をつくと俺の腕に触れた。
 それこそ、微塵の躊躇もなく。
 だからこそ、内心は驚いた。
「……えっと……うー……あった!」
「…………なんだ?」
「いーから! ねぇ、ちゃんと見せて」
 テーブルの上に載っていたポーチを手繰り寄せ、何かを探すかのように中身を弄っていた宮崎が、白い小さなものを取り出してこちらに向き直った。
 ……なんだそれは。
 と聞く前にさっさとキャップを外して中身を絞り出した人差し指を、宮崎は迷うことなく俺の唇へ近づける。
「ッ……!! いっ……」
「え!? うそ、ごめっ……! だ、だって! まさか、消毒するわけにいかないじゃない!」
 どうやら、化粧品か何かだったんだろう。
 いきなり唇へ触ってきたことにも驚いたが、塗り込まれた強い痛みで再度驚く。
 いったい何をしたんだお前は……!!
 痛みと熱とで唇がビリビリと熱を帯び、途端にジンジンと鈍い痛みがそこから全身へ伝わってくるような気がして、片手で反射的に押さえる。
「…………?」
 だが。
 しばらくそんな宮崎が静かになったな……なんて、思ったとき。
 視線だけを上げてそちらを見ると、何やら思いつめたような表情をしてすぐ――腕に触れた。
「……っ……」
 途端、瞳が丸くなる。
 明らかに雰囲気の違う、表情。
 ある種の決意のようなものが感じられて、思わず喉が鳴る。
 まっすぐに俺を見つめてくる、熱っぽい眼差し。紅潮した頬。
 何もかもがたったひとつを暗示しているかのようで、身体が強張る。
「っ……みや――」
 ほんの、一瞬の出来事だった。
 頬を包むように両手で触れられたかと思いきや目の前が翳り、次の瞬間には唇に何かが触れていた。
 温かくて、潤んでいるかのように柔らかいそれが、心地よく重なって。
 ……だが、そうして触れられているからこそ、小刻みに彼女自身が震えているのがわかった。
 唇も、手も……そして身体も。
 精一杯に瞳を閉じて口づけてくる彼女は、あまりにも小さく感じた。
「ッ……!!」

 ゴッ

「いっ……!」
 どれくらい、そうしていたんだろうか。
 ゆっくり離れた宮崎と目が合った瞬間、ものすごく眉を寄せてから、容赦なく目元を手で覆われた。
 ……いや、覆われたというよりはもっと容赦ないな。
 その勢いで、後頭部をスチールラックに強打したんだから。
「見ないで!!」
「……っつ……」
「いーから! 目を開けたりしたら、絶対許さない!!」
「おまっ……何言って……」
 まるで犬か、と思うような勢いの激しさ。
 だが、押さえつけられている手のひらはまるで緊張しているかのように熱く、少しだけしっとりしていた。
 …………なんなんだ、いったい。
 まぁ確かに俺だって……まともに顔など見れるはずはないんだが。
「……宮崎?」
 どれくらいそのままだっただろう。
 かすかに彼女が動いたのを感じ、つい名前を呼ぶ。
 手のひらを当てられているせいでまったくではないものの、闇は闇。
 なので、いったい今何が起きているのかほとんどわからない。
 ただ、何かまだ終わってないような気はする。
 だからこそ、居心地が悪いというか……いったい何が始まるのかと、内心不安でもあった。
「ちょっと……しみるかもしれないけど」
「……何?」
 静かな声が聞こえたあと、不意に何かが動いた気配を感じた。
「っ……!」
 途端、再度唇を感じた。
 だが先ほどよりもずっと……潤っていて。
 その理由が、先ほどの口づけのせいだとわかるから、一層身体に熱が篭る。
 な……んなんだ、いったい。
 どくどくと血液が逆流しているような感覚に捉われ、ものすごく苦しい。
「……ん……ちゅ……」
 ときおり聞こえる、微かな声。
 声……なのか、コレは。
 あまりにも甘すぎて、普段とはまるで違う。
「っ……」
「……は……、んっ……」
 突然、これまでとは明らかに違う感触に身体が震えた。
 舌、だろう。
 濡れた舌が唇をなぞり、腫れた場所をゆっくりと舐める。
 精一杯さが伝わって来るような、ぎこちない拙い動きなのかもしれない。
 だが、今の自分にはそんなことを考えられる余裕はなく、ただただ、自分の置かれている状況がまったく飲み込めなかった。
「……は……」
 どれくらい時間が経っただろうか。
 ぼうっとする頭のせいか、意識も半ば朦朧としているように思う。
「…………」
「…………」
 頬に触れたまま、宮崎が俺から離れた。
 少しだけ惚けているかのような、熱っぽい眼差し。
 しどけなく薄っすら開いている唇が光ったのを見て、ぞくりと背中が粟立つ。
 ……間違いなく、今。宮崎は俺に――。
「っ……ぅ、か……」
「か……?」
「帰って!」
「ッい……!?」
 まじまじ見ていた彼女と目が合った途端、ものすごい勢いで立ち上がると背を向けた。
 ぱっと手を離され、勢いで再度ラックに頭をぶつける。
 い……っ……たいなんなんだ、これは……!
 どんな仕打ちなのかと両手で後頭部を抱えながら、軽く前のめりになる。
「ワイシャツはちゃんと返してあげるから!! だからっ……だ、だから! 帰ってよもぉ!!」
「……いや、だからそれが……」
「いーから! 何も言わないで、出て行く!!」
 背を向けられたまま、びしっと指差された玄関。
 だが、精一杯すぎる声が、普段の落ち着き払った計算づくの姿とはまったく違うように思えて、だからこそ『わかった』と動く気にはなれない。
 ……まぁもっとも、本当の理由はもっと別の場所にあって、正直今の俺には宮崎が指す方向を見ることしかできなかった。
「だから、も――……ひぁ……!」
「宮崎……ッ」
 ぎゅ、と精一杯手を伸ばして彼女を掴む。
 細くて華奢な、白い指。
 いつか自慢された指先を握り締めると、ひくん、と肩を震わせた。
「も……なによぉ……」
 振り向かず、俯いたままの彼女。
 なのに、表情が手に取るようにわかって、これまでとは違う感情が身体いっぱいに広がる。

「……その……立てない、んだ」

 恐る恐る口にした途端、ゆっくりと俺を振り返りながら宮崎がみるみる瞳を丸くした。
「はぁあああ!!?」
「……いや、そう言われてもだな……」
「ウソでしょ!? やだもー、信じらんない! 何ソレ!! どーゆーコト!?」
「いや、だからそれは……その……。というか、何よりもまずお前の……」
「違うでしょ! うっそ、ホントに信じらんないんだけど!!」
 確かに、信じられない話だ。
 だが、コレが真実。
 ……情けない上に、ひどく格好がつかない。
 それでも、仕方がないだろう?
 俺が一番、信じられないんだから。
「もーー!! どーゆッ……!?」
「宮崎!?」
 顔を真っ赤にした彼女が、ぶんぶん首を振って身体ごと向き直った途端、かくん、と膝を折って座りこんだ。
「大丈夫……か……?」
「っ……も……なによぉ……」
 顔を赤くして、俺を見ないまま手の甲を唇に当てる姿。
 そんな姿が、いじらしくて……やけにかわいく見えたのは、正直な俺の目だったんだろう。
「……っ……!」
 手を取り、引き寄せるように身体をずらす。
 情けないが、今はこれが精一杯。
 だが、宮崎は少しだけ不安げな表情で、俺を見つめ返した。
「ッ!? ど……うして泣いてるんだお前は……!」
「だって……ぇ」
 今になって気が付いた。
 大きな双の瞳が、今にも涙を溢れさせそうなほど潤んでいたことに。
「だって……キスしたら、急に……」
「……お前……」
「もぉ……っ……しょうがないでしょ? 好きな人とキスしたら、ヘンになっても……しょうがないじゃない……」
「…………なに?」
 好きな人。
 目線こそ合わせないままだが、宮崎はたしかにそう口にした。
 それは……俺の、ことか?
「お前……待て。どういうことだ?」
「何よぉ」
「いや、だから。いろいろと聞きたいことがあるんだが……そう、あの写真もそうだ。お前は俺を――っ……」

「センセが好きなの。ずっと、ずっと……好きだった」

「っ……」
「……生徒だからダメなの? ねえ、だったら卒業したら付き合ってくれる?」
「み……やざ、き……」
「すっごいヤな生徒で、ごめんね。いっぱい謝るから、だから……彼女にして?」
 潤んだ瞳は、今にも泣きだしてしまいそうで。
 これまでの、どの宮崎とも違う表情。
 艶っぽくてあまりにもストレートなセリフなのに、とても不安そうに瞳を揺らす。
 普段の姿とまるで正反対。
 きっと、これが彼女の“素”そのものなんだろう。
 臆病で、傷つきやすくて、ものの拍子に泣き出してしまいそうで。
 唇を噛んだのが目に入り、ごくりと喉が動く。
「ねえ……私じゃだめ? 絶対好きになってくれない?」
「それは……」
「好きなの。……センセじゃなきゃ、だめなの」
「っ……」
 眉を寄せての、不安げなまなざし。
 こんな顔は初めて見た。
 きゅ、とアンダーシャツを握られ、ごく近くで囁かれ、鼓動そのものが伝わってきそうにも思える距離。
 思わずまばたくのも忘れて見入ると、形いい唇をわずかに噛んだ。
「佐々原さんみたいになれって言うなら、そうする。だか――」
「それは違うだろう」
「っ……けど……!」
「宮崎。それは違う」
 普段の彼女からはまったく想像もつかないな。
 よもや、これほど自信のないセリフを口にするとは。
 ……それもすべては俺の気を引きたくて、なんだろうか。
 だとしたら、きちんと伝えてやるべきだろう。

「俺が惹かれたのは、いつだって自分を信じているお前だ」

「え……」
「今まで俺は、体裁ばかり繕って自分の本音など聞きもしなかった。そのせいで……ずいぶんと回り道をしたな。こんな経験は人生で初めてだ。だが、わかったことは多い。……それもすべて、お前のお蔭か」
 大人だから、とか。
 教師だから、とか。
 ていのいい言葉で本音をねじこませ、知らないふりをした。
 それが正しいのだと信じ込ませ、大人という名のきれいごとで蓋をして。
 だが、そのせいで人生で初めての“失敗”を経験もした。
 欲しいものが手に入る瞬間は、限られているのだと。
 そういえば、いつだったか幼馴染が『幸運の女神に後ろ髪はない』と言ってもいた。
「え……待って、ねえ……じゃあ、じゃあ……っ」
 しどろもどろに呟き、指先で目尻を拭う。
 そんな姿がたまらなくかわいくて――愛しい、と思った。
「……宮崎」
「っ……」
「本当にお前は、俺なんかでいいのか? お前が思っているほど大人でも器用でもないし、何より――」
「なんか、じゃない」
「……何?」
「俺なんか、じゃないの。センセじゃなきゃ、だめなの」
「っ……」
 咄嗟に、目が丸くなった。
 先ほどまでとは違い、はっきりとした意志のあるまなざし。
 ああ、そうだ。これが宮崎穂澄だな。
 『何言ってるの?』と言いたげなまなざしに、小さく笑いが漏れる。
「っあ……」
 不器用ながらも抱きしめると、驚いたように身体を縮こませた。
 わずかに震えているのは、今も変わらない。
 ……それでも、少しだけ。
 先ほどより身体を預けてくれているのが、心底嬉しい。
「ん……」
 少しだけ身体をずらし、顔を覗くようにしてから唇を重ねる。
 恐る恐る上目遣いで俺を見上げる表情には、ただただ喉が鳴るばかり。
 ……情けない話だ。
 これほどまでに、自分が動揺するとは。
「ん……んっ! ……ぅ、んん……」
 角度を変えて不器用に口づけ、おずおずと舌先で唇を舐めると、途端に肩を震わせたのがわかった。
 途中、甘くてたまらない声が頭の中にまで染み込んで、絶対的な部分を痺れさせる。
 何ものにも勝る、媚薬に違いない。
 こんな感覚は初めてなのに……なぜだろうな、もっと欲しくなる。
「……ふ……ぁ」
 離れるのが惜しくて、ぎりぎりまで手離せなかった。
 とはいえ、さすがにいつまでもそうしているわけにはいかず。
 意識してゆっくり離れると、目の前の宮崎が濡れた唇で息を吸う。
「もぉ……嘘みたい……」
 先に口を開いたのは、宮崎のほうだった。
 まぁもっとも……正直なところ、俺は何も言えなかったのだが。
「……っ」
 頬を真っ赤に染めたまま、笑いながら涙をこぼした目元へ手を伸ばし、不器用ながらも指先で拭う。
「……泣くな」
 声が掠れているのがわかった。
 それでも彼女は、何も言わず視線だけを落とす。
 こんなにも近くで、こんなにも……触れていて。
 それでもまだ、腕の中にあるのが信じられない。
 ましてや口づけた、など。
「………………」
 それでも、間違いようのない事実。
 確かな時間だからこそ、先ほどまでとはまったく違う雰囲気の漂う今がある。
「っ……!」
 まぶたにそっと唇を寄せ、舌先で涙を拭う。
 すると、くすぐったそうに身をよじった宮崎が小さく笑った。
「……どうした」
「もぉ……なにそれ。……キザぁ……」
 くすくすと笑った、顔。
 それはどんなモノより愛しいと思える、とろけそうな笑顔だった。


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