「ッ……! いっ、つ……」
「我慢して! もー……何よ、ホントに何も考えてないの?」
「咄嗟だったんだ。仕方ないだろう?」
「そういう問題じゃないの!」
 実は馬鹿なんじゃないの? とか。
 ホントに頭使ってるの? とか。
 向けられるどれもこれもが、こんな目に遭った人間に対してのさらなる仕打ちにしか感じられないんだが、これはどうなんだ。
「……それでも、男が怪我をする分には何も問題ないだろう?」
「な……ッ馬鹿じゃないの!?」
「ば……!?」
 ようやく口にした我ながらそれっぽい言い訳も、彼女の前ではかたなしらしく。
 呆れたように口を開けたかと思いきや、すぐに一喝された。
「……だから、お前は直接的過ぎる」
「だってそうでしょ! 男だからって怪我してイイことになんてならないじゃない!!」
 消毒薬を染み込ませたコットンで、丁寧に傷……と思しきあたりを拭われるものの、なんだか感覚が麻痺でもしているせいか、実はどの程度の怪我なのかわかっていない。
 顎から、頬。
 そして、こめかみ。
 そのあたりがまぁ、痛いといえば痛い。
 だがそれは、じんじんとした鈍い痛みと……あとは熱で。
 切れたときなどに感じる痛みとはまた、少し違っていた。
「……もー……」
 立ち上がった彼女が、キッチンへ向かってすぐに戻って来た。
 だが、その手には今までなかったモノが握られていて。
 緑色のどこかで見たことがあるような何かとハンドタオルを、それぞれ両手で持っていた。
「つっ……」
「冷やしたら、少しは腫れ引くと思うから」
 すぐ目の前で膝を付いた彼女が、不安そうに眉を寄せてから手にしたものを顎に当てた。
 途端に冷たさと痛みが走り、思わず顔をしかめる。
 ……だが……宮崎のこんな顔を見るのは、久しぶりだ。
 いや、むしろこんなふうに会話をして普通に目が合うことすら、まるで数ヶ月ぶりのような気分だった。
「……わ!? ちょ、血っ……」
「何?」
「だから、血が付いてるってば!!」
 なされるがままになっていたら、不意に顎から手が離れた。
 同時に冷たさがなくなり、先ほどまでと同じ感覚の麻痺を感じる。
「脱いで」
「何?」
「だから、脱いで! 洗濯するから!」
「なっ……いや、別にこれは……」
「そうはいかないの!!」
 いきなり真剣な顔をしたかと思いきや、いきなり手がネクタイにかかった。
 血が付いてる。だから脱いで。
 いきなりそんなことを言われて、はいそうですかと脱げるわけがない。
 そもそも、俺自身どこに血が付いているのかまだ確認すらできていないというのに、そ……。
「って、だから! オイ!」
「だって! 早くしないと、落ちなくなっちゃうでしょ!?」
 どうしてコイツはこうも大胆というか、なんというか……その、まったく物怖じしないんだ!
 しなさすぎるのも問題だろうに!
「だっ……待て! わかった! 脱ぐ! だから、ちょっと待て!!」
「……ったくもー。じゃあ早く脱いで」
 ネクタイを解かれたかと思いきやそのままボタンに手をかけられ、慌てて手を払う。
 ……な……なんという人間なんだ、本当に。
 あまりにも大胆かつ積極的すぎる行動に、思わず喉が鳴る。
「これでいいのか?」
「うん」
 仕方なくシャツを脱いでから渡すと、平然とした顔でうなずいてから宮崎が立ち上がった。
 部屋の造りは、左右の配置こそ違えど、自宅と同じ。
 彼女が向かった先は、恐らく洗面所だろう。
「…………」
 宮崎がリビングから出て行ってすぐ、水の音が聞こえて来た。
 …………。
 ………………。
 ……なんとも、こう……居心地が悪いというか、明らかに手持ち無沙汰というか。
 そういえば、宮崎の部屋に入るのは初めてだ。
 玄関へは来たことがあったが――……と言っても、本当にドアまで。
 中になど当然入っていないし、入るつもりもなかったが。
「…………」
 改めて室内を見回すと、“いかにも”という雰囲気があった。
 間取りはほぼ同じはずなのに、自分の部屋にあるはずの出窓がなかったりというのもあってか、余計に違う家という感じがする。
 ……そして何より、もののレイアウト。
 カーテン、ラック、置かれている小物などなど、いろんなものが明らかに自分の部屋とは色も雰囲気も違っていて。
 どうしても“女の子”の部屋という感じがして、ひどく落ち着かない。
 ぱっと明るい色が多く、普段自分がいる場所と180度違っていて、だからこそ落ち着かない。
 ……しかも、あの宮崎の部屋。
 内心、実はものすごく散らかっていて汚いんじゃないかと思っていたのに、実際入ってみるときれいに纏まってるものだな。
 意外だ。心底そう思う。
「……ん?」
 そんな、まじまじと見るのをはばかれるような雰囲気に半分呑まれかかっていたときだ。
 壁に貼られている、たくさんの写真に気が付いたのは。
「……ったく。信じらんない、もー……ん?」
 しばらくして、彼女が戻って来たとき。
 ちょうど、その写真の前に立ったままの状態で目が合った。
 ……いや、正確にはそんな軽い雰囲気ではない。
 ほんの少しだけお互いに――気まずいような、そんな明らかに今までとは違う雰囲気が漂ったのがわかる。
「……べ……つに……」
 俺の表情から、何かを読み取ったんだろう。
 手にしていたシャツを弄りながら、俺と写真とにそれぞれ短く視線を送ったあと、宮崎が通りすぎた。
 そんな、戸惑ったような顔をすることもあるのか。
 これまで一度も見たことがなかった表情に、ほんの少しだけどきりとする。
「……別にいいでしょ? 大した意味とかないし」
 別に何かを聞いたわけでもなければ、反応したわけでもない。
 だが、気まずそうに視線を逸らしたままの宮崎はそれ以上何も語らず、ワイシャツのかかったハンガーをベランダに干し終えると、キッチンへ戻って行った。
「………………」
 たくさんの写真、それこそ群れをなしているかのような多数のものが貼られているにもかかわらず、どうしても1点に目が行く。
 この写真が意味することの判断がどちらともつかず、だからこそ俺も何も言えなかった。
 1枚1枚、丁寧にほとんど重なることがないように気遣いながら貼ったのであろう、これら。
 その中には、見覚えのある面々もいたが、中には知らない制服の知らない子も多く写っていて。
 宮崎が中心に映っているものであったり、はたまた宮崎が撮る側に回ったのかもしれない、彼女が映っていない写真など、種類は様々。
 小物であったり、動物であったり、そして子どもであったり。
 本当に、いろいろな写真が貼られていた。
 ……まるで、回顧録だな。
 古臭い言葉しか思い浮かばないものの、明らかにここにはこれまで宮崎が歩んできた道筋が1本ハッキリと示されているように感じた。
 手書きの文字や、シール。
 それらにも、やはり宮崎らしさが表れていて。
 彼女の気持ちが見ているだけでも伝わってくるようで、なんとなく表情も緩む。
 ――が、しかし。
「…………」
 明らかにそんな写真とは一線を画している、1枚の写真。
 そこにまず目が行ったせいか、普段は簡単に考えられるであろうはずの事柄が、まったく頭に浮かんでこなかった。
 ぐるりと、ドーナツ型に張られている写真。
 その真ん中に作られている空白へ張られた1枚の写真を見つけて……目が丸くなると同時に、喉が鳴った。

 酔っ払いを相手に困惑している、在りし日の自分。

 そんな、今では少し懐かしさを覚えるような写真が、なぜか1枚だけ目立つように貼られていた。
「…………」
 これはいつのことだっただろう。
 ……確か、今から2年ほど前、半ば強引に研修会と称した飲み会で撮られたものだったと思う。
 写っているからともらったはずの写真なのに、俺には今その所在すら把握できていない。
 元々、こういう集まりへ好きこのんで出ることはなく、写真をありがたがるはずもない。
 だからこそ、すっかり忘れていた。
 こんなイベントが過去にあったことと、そして……こんな写真を撮られたことを。
「…………」
 疑問は、疑問を呼ぶ。
 第一に理由だ。
 なぜこの写真がこんな場所に貼られているのか。
 そして第二に――この写真の入手経路。
 なぜ宮崎が、この写真を持っているのか。
 いったいどこから、手に入れたのか。
 生徒には絶対に流出しないであろうはずのモノなのに、それがなぜあるんだ。ここに。
 ……しかも、被写体は俺も含めて明らかに酔っ払いだぞ?
 その上、このうえなく機嫌の悪そうな自分。
 …………ああ、なるほど。
 俺は普段、写真を撮られるときは相手を睨みつけるようにしているんだな。
 こうして客観的に見るとそれがよくわかるからこそ――どうして。
 なんで宮崎がこんな写真を部屋の壁になんて貼っているんだ?
 笑顔でもなんでもない、不機嫌そのものの俺の写真なんかを。
 ぐるぐると疑問が疑問をさらに増幅させ、予測も何もかもが成り立たない状況に自ら陥っていった。


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