「っ……!」
 カン、と最後の段から地面へと降りたのを確認してから、そっと目だけで様子を伺う。
 が、予想外のものが飛び込んできて、喉が鳴るよりも先に身体が動いていた。
「ここでいいよ」
「そうはいかないでしょ! バス停まで送るってば」
「大丈夫だから。……帰り、ひとりになっちゃう穂澄のほうが、よっぽど――……ッ!」
 穂澄の隣で喋っている男の肩を掴み、勢いよく引――……こうとした途端、腕を捻られた。
 一瞬の出来事で、正直何が起きたのかわからなかったほど。
 肘関節がメリメリと嫌な音を立て、一瞬のうちに脂汗が滲む。
「っつ……ぅ!」
「え、なっ……ちょ! 里逸!?」
「っ……高鷲先生!?」
 悲鳴にも似た声があがり、腕を捻りあげていた手が離れた。
 どくどくと血が巡り、早まった鼓動はさらに強く打ち付ける。
 だが、今までソイツに触れていた穂澄が慌てた様子で駆け寄ってくると、俺の腕におずおずと触れた。
「ちょっと! 大丈夫!?」
「どういうことだ……!」
「え? ……何が?」
「何が、じゃないだろう! 誰だソイツは!」
 未だに鈍く痛む肘を押さえながらも、穂澄を軽く睨む。
 だが、わけがまるでわかっていないらしく、ソイツと俺とを見比べながら、訝しげに眉を寄せた。
「…………」
「……あ」
「あー」
「あぁ……」
「……なんだ!」
 ぱちぱちと顔を見合わせたふたりが、ぽん、と手を叩くと互いを指さしながらなんとも言えない声を出した。
 まるで、テレビなどでよく見るような光景。
 だが今は現実で、自分の痛みが薄れることもなくて。
 なのに、穂澄にいたっては『そっかー』などと言いながら小さく笑い出した。
「不思議じゃないの?」
「何がだ」
「だってこの子、冬瀬の制服着てるのに里逸のこと知ってるんだよ?」
「……何?」
 くすくす笑いながら穂澄がソイツを指さすと、彼もまた同じように苦笑を浮かべていた。
 だが、見覚えもなければまったく記憶にもない。
 当然だ。
 俺はずっと学園大附属高の教師で、ほかに異動した経験もないからな。
 冬瀬高は、公立。
 よって、私学教諭が異動することはない。
 ……なのに、知っていた。
 確かに、先ほど彼は俺を見て『高鷲先生』と名前を口にした。
 だが――……少なくとも俺の記憶にはない。
 少し茶色がかった短髪で、首にはチョーカーを巻いていて……指にも、やたらとゴツい指輪をはめている男子生徒など、うちの高校にいたら目立って当然だろうに。
「……これがあるからわからないんですね」
「何がだ」
 そうか、と小さく呟いた彼が、ふいに首へ手を伸ばした。
 幾重にも巻かれていたチョーカーを外し、手に取る。
 途端、なぜかわからないが小さく苦笑を浮かべた。
「すみません、高鷲先生。驚かせてしまって……」
「っ……その声……!」
 だが、むしろ驚いたのはこちらのほう。
 それも――……当然だろう。
 なんせ、今まで聞いていた低い男の声ではなく、聞こえてきたのは穂澄と同じくらい高い、女の声だったからだ。
「お前……っ……葉山か!?」
 聞き覚えのある声から人物を弾き出し、口にする。
 すると、相変わらず苦笑したままで、ぺこりと頭を小さく下げた。

「これが、“みーくん”の正体よ」
「……その名前は……」
「みんな噂してたでしょ? 後夜祭で私がほっぺにちゅーしたカレシ、とかって」
 穂澄の部屋へと場所を変えた、現在。
 リビングのテーブルには、どうやら先ほどまでふたりが飲んでいたとおぼしきマグカップと、クリームのようなものが付いている小皿が残されている。
 今もまだ葉山は服を着替えたり髪型を直したりはしていないが、チョーカーは外したままで。
 見た目は男子生徒のようなのに喋ると彼女のため、わかってはいても頭が若干混乱する。
「そもそも、どうしてお前はこんな格好しているんだ」
「えっと、それは……いろいろありまして」
 最大の疑問を口にするも、葉山は苦笑するだけで詳細を喋ろうとしない。
 が、穂澄はすべて知っているらしく、ふふん、とひとりだけまるで勝ち誇ったかのような顔を見せていた。
「ま、バイトの一環みたいなもんよね」
「そうだね」
「……お前までバイトしてるのか」
「んー、どっちかっていうと、家業? みたいな?」
「なんだそれは」
「その……姉の仕事の手伝いなんです」
「……お姉さんの?」
「はい」
 元生徒会長からもまたもや聞き捨てならない言葉を聞いて半ばげんなりしていたら、少しずつ内容が紐解かれ始めた。
 彼女がこういう格好をしているのは、いわゆる人材派遣サービスを行っているお姉さんの仕事関連でいろいろあるらしく、詳しくは聞かなかったが、ふたりの話し振りを聞いているとどうやら単なる人材派遣ではなく、どちらかというと探偵業にも属すようなことをしているようで、たまにこうしていわゆる男装をして行う作業とやらがあるらしい。
 11月11日の今日は奇遇にも葉山の誕生日らしく、ささやかながらふたりでお祝いをするためにここへ来たそうだ。
 確かに、テーブル上のものからも想像できるから嘘ではないだろう。
 ちなみに、穂澄は葉山がそういう仕事をしていることを知っていただけでなく、個人的に、彼女がこの格好をするのを好んでいるようで、話をしている最中もべたべたと躊躇なく触っては叱られていた。
「すみません、いろいろとご迷惑をおかけしてしまって……」
「いや、迷惑というほどでは。……こちらこそ、すまなかったな。急に……」
「そんな! ……すみません」
 今もまだ、たしかに捻られた腕は痛む。
 それでも、きちんとした理由を把握することができて、精神的にはかなりほっとしていた。
 ……なるほど。
 例の男は、葉山だったのか。
 だから、穂澄は俺にわざわざ話すことがなかったんだな。
「ねー、話が終わったならそろそろ“みーくん”に戻ってよー」
「もう。どうして穂澄はそんなに固執するの? そんなに好き?」
「好き。あのね、ちょー好き。やばいから! かっこいいじゃん、だって!」
「……もう」
 べたべたと俺にする以上に甘えている穂澄を目の当たりにしながらも、出たため息はこれまでと少しだけ違っていた。
 確かにまぁ……少し複雑ではあるが、相手が葉山ならそれはそれでいいじゃないか。
 よその男にしているのを見るのは許せないが、こればかりは……仕方ない。
「もう。穂澄ってば、高鷲先生がいるでしょ?」
「いーの! 里逸とはいつでもベタベタできるから!」
「っ……」
「そういう問題じゃなくて……」
「もーちょっとだけだから!」
 さらりと言われた言葉は、喜んでいいのか悲しむべきなのか、我ながら判断がつかない。
 それでも、やたらと楽しそうに葉山へ絡んでいる姿は、普段の俺にしてくるものとはやはり違うのもあってか、思わず苦笑が漏れた。


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