翌日は、割とモチベーションの高いまま1日を終えることができた。
というのは、昨日穂澄とした約束も多少影響があるのだろうが、それよりかは……やはり彼女に触れられたから、というほうが大きいかもしれない。
まだ身体に残っているような気もする、柔らかさと温かさ。
だが、それを改めて思い返してしまうと、職務上どころか日常生活にも支障が出るので当然してはいないが。
「あ、お疲れさまです」
「お先に失礼します」
今日は18時前には仕事が片付いたこともあり、ひとり職員玄関へ向かおうとすると、向こうから新藤先生が歩いてきた。
彼は数学の教科担当で、俺と一緒にこの学校へ採用された、いわゆる同僚。
それもあってか、よく同期会の幹事を自らすすんで引き受けてくれ、年に何度かともに食事もしている。
もともと“誰か”と一緒にいたがる性格なわけではないが、彼も同じ地元だと聞いたことがあり、以来それとなく親近感を抱いていた。
というのも、年が一緒だから余計そう思うのかもしれないが。
「昨日、9組の宮崎に何かされました?」
「え?」
「いやー。なんか元気がなかったっていうか。ほかの先生も、言ってましたよ。高鷲先生、何か悪いものでも食べたのかしら、なんて」
「……はあ」
けらけら楽しそうに笑う顔は、まるで生徒と同じくらい幼くも見えるが、そのあたりこそ彼が慕われる理由なんだろう。
俺にはできないし真似しようと考えたこともないが、少なくともそういう魅力は人間関係を円滑にするためには必要だと思う。
「いや、別に。……特に宮崎がどうこうというわけでは」
「そうですか? いや、ならいいんですけどね」
はは、と笑った彼に苦笑し、小さく頭を下げて再度『お先に』を告げる。
今日は朝から曇り空だったせいか、この時間はいつもよりもずっと暗くなっていた。
外灯の白さが目につき、雨が降ってないことがせめてもの救いかと思い直す。
食事の約束をしたのは、明日。
今日は何か予定でもあるのか、はたまたいつものようにバイトなのかは、わからない。
……まぁ、帰ってきたらわかるだろう。
隣同士なのだから、せめて寝る前までには顔を見ておきたいと思うようになったあたり、心境というか、俺自身の変化は大きいと感じた。
いつもの道筋で自宅へ帰り、駐車場へ車を停める。
夕食は、あるもので済ませるつもりだ。
もともと学生時代からひとり暮らしをしていたこともあり、それなりに炊事はひととおりできるようになった。
何より、今は情報社会。
料理の作り方でさえボタンひとつでわかるようになったのだから、使わない手はないだろう。
体調がどうのと言うつもりはないが、それでも食事はやはり人としての基本。
口から入るものだからこそ、自分でどうにかできることならばそれなりにこなしたいと思うのは持ち前の性格らしく、友人に言ったら『お前は真面目だな』と笑われた。
そんな、ヤツの日々の食事っぷりとて、それなりに自分でなんとかしているらしいが、な。
先月一緒に食事する約束が急遽飲みに変わったが、あの店もそれなりにうまかった。
また今度話をすることがあったら、そこでも構わないとさえ思う。
「……?」
車の鍵をかけて階段を上がりかけたところで、上から声が聞こえてきた。
口調からして、電話でのものじゃない。
相手がいる、生身の人間のやりとり。
……だが、そのひとりが穂澄だとわかり、足が止まった。
このまま姿を見せてもいい。
だが、俺は教師で彼女は生徒で。
同じ場所に住んでいることを知っている人間は多くないだろうからこそ、この状況はあまり好ましくないだろう。
何もないなら、別に姿を見られてもなんとも思わない。
だが、今はもう“何もない”関係ではなくて。
だからこそ、余計なことを知られるわけにはいかない。
俺と彼女。
互いの生活を守るためには。
「今日は本当にありがとね」
「やだー。何? 急にかしこまっちゃって」
「そもそも、穂澄の提案が急だったでしょ? なのに……すごく嬉しかったよ」
「きゃーん。その声、やばいから! まじで! ちょっ……ああもう、あーもー!」
「っわ……! だから、穂澄! 危ないってばっ……!」
聞き耳を立てていたわけではなかったが、どうしたって自然と聞こえてしまう会話。
――……だが。
聞こえてきた声が“男”だと認識した途端、身体に妙な力がこもった。
もしかして――……昨日話していた相手、か……?
カンカン、と階段を下りてくる音が響いてくる中、思わず階段裏に身を潜めたまま過ぎるのを待つ。
誰だ、そいつは。
そもそも、どういう関係だ。
様々な疑問が巡る中、それよりも先に拳を握り締めていて。
……ああ、なるほど。
これがそうなのか。
恋愛感情からくる、“独占欲”という名の嫉妬。
これを初めて実感した気がして、奥歯も鈍く軋んだ。
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