「わ! あったかーい! え、なんで? なんで里逸の部屋、こんなに暖かいの?」
「なんで、って……」
「え、もしかしてアレ? 暖房とかつけてる?」
俺が鍵を開けるのと彼女がノブを回すのとは、同じタイミングだった。
ガチャリ、と開けた途端に普段とはまるで違う格好の彼女を見てしまい、当然目を見張ることになったが。
「だいたいお前は、どうしてそんな寒そうな格好をしてるんだ」
「えー? このルームウェア、結構あったかいんだよ? ほら。もこもこしてるし」
「っ……」
ぐい、と手を掴んだ彼女が、腕に触らせた。
確かに……まぁ、柔らかくて空気を含みそうな素材だが、だからといってそれだけ足を出していたら元も子もないだろうに。
同じ素材の長い靴下を履いてはいるが太ももが露わになっており、寒がっているのかどうなのかよくわからない。
「っ……わ! え、何ー? もしかして鍋食べたの!?」
「ああ、まあ……そうだな。そういえば、今夜は鍋にした」
「えー、いいないいなー。っていうか、だったら呼んでよ! うちにも豚肉あったのに!」
「いや、仕方ないだろう。お前が夕飯に何を食べるかまで、俺は把握していない」
「それはそうなんだけど!」
リビングに入ってすぐ振り返った彼女が、唇を尖らす。
その顔は普段とまるで違って小さな子どものようで、少しだけ不釣合いだと思えた。
「えー。何? 何鍋にしたの?」
「水炊きだ」
「おいしそー! ってことは、鶏? 鶏肉だよね? うー、おいしそうー。コラーゲンじゃん!」
「……そうなのか?」
「そうなの!」
そういえば、今日はまだ食べたものすら片付けてなかったんだな。
小さな土鍋とグラスが置きっぱなしになっており、これじゃ仕事がはかどるはずもないと我ながら呆れる。
だいたい、ここを片付けないでどこで作業をするんだ。
どうやら、今日はすべてにおいてモチベーションが下がっているらしい。
「あ! お酒飲んだでしょ!」
「まぁ……1杯だけな」
「うわ。うわー、大人だ。いけない大人がいる」
「どうしてそうなる!」
「だって、お酒だよ? そのつまみが水炊きとか……やだもー、ちょっとずるい!」
「……あのな」
グラスの横に置いたままになっていた、小さな日本酒の小瓶。
同僚の出産祝いのお返しで貰ったものだが、割とうまい酒だった。
これなら、改めて通常サイズの瓶を購入してもいいかもしれない。
「っ……な……んだ」
「ね。はーってして?」
「何?」
「だって、お酒飲んだんでしょ? ね。ちょっとだけ」
腰を下ろした途端、同じように目の前へ座った穂澄が、べたりとのしかかるように肩へ手を当ててきた。
距離が狭まったどころか、普段と違う格好のせいか、やけにどきりとする。
長い髪も、学校にいるときとは違ってすべて下ろしており、少しだけ大人びて見えた。
「……警察の検問か何かか」
「そんなことないもん。ね、ちょっとだけ」
目の前でくすくす笑いながら、さらに顔を近づける。
艶やかな唇は、もしかしたら化粧か何かをしているのかもしれない。
照明を背にしているので顔はかげったが、わずかな光に反射してか、色っぽく光ったように見えた。
「っ……」
瞳が細まった次の瞬間、ふいに唇が重なった。
すぐに舌先が這入りこみ、歯列をなぞる。
「……ん……」
舌が触れると、穂澄が喉から声を漏らした。
甘い声。
ほかの場所で聞くはずもない音で、身体が情けなくも反応する。
「っん、……ん……ふ……」
濡れた音がすぐ近くで聞こえ、鼓動も速まった。
それでも彼女は手で頬に触れるとさらに口づけを深め、角度を変えて再度舌を絡めた。
「……は……」
ようやく顔が離れると、すぐ目の前でゆっくり穂澄が瞳を開ける。
長いまつげの先にあるのは、気持ち潤んだ瞳。
ぺろりと唇を舐められ、ぞくりと背中が粟立った。
「お酒の匂いがする」
「……そ……れは当然だろう。……飲んだんだ」
「へへー。……なんか、大人のキスみたい」
「っ……」
指先で唇に触れた彼女の仕草に目を見張り、普段なら逸らすのに今日に限ってひとつひとつの動作をやけに追いかける。
嬉しそうにはにかんで笑う顔も、白い歯をわずかに覗かせる口元も、普段よりずっと柔らかく俺を見つめる眼差しも。
何もかもが目に付いて、思わず喉が鳴る。
「元気出た?」
「っ……な……」
足を崩して俺のすぐ前に座った彼女が、わずかに首をかしげた。
思ってもなかったことを言われ、情けなくも口が開く。
「ほら、数学の新藤いるじゃん? あのセンセがねー、里逸が元気ないって言ってたんだよ」
「……新藤先生が?」
「うん。なんかね、顔見るなり『お前のせいじゃないのか? 宮崎ぃ』とか言われて。違う……とは思ったけど、もし私のせいだったら……ごめんね?」
「っ……」
今までずっと笑顔だったのに、最後になって急にしょげた顔を見せた。
まるで、叱られた子どものような表情に、たまらず目を見張る。
……こんな顔を見るのは、久しぶりだ。
今となっては、ずいぶん前。
まだキスができる関係じゃなかったころにされた謝罪も、そういえばこんな顔だった。
「ね、明日は一緒にごはん食べれないんだけど……明後日、一緒にごはん食べない?」
「まぁ……それは別に構わないが」
「ほんと? やった! じゃあじゃあー。んー……里逸、何か食べたいものある?」
「……別に、俺は――」
「なんでも、はナシだからね。そんなこと言ったら、二度と作らない」
「っ……」
今までにこにこしていたくせに、途端に瞳を細めて雰囲気をがらりと変えた。
相変わらず、すべてを把握できない子だ。
だが、だからこそ――……おもしろい、と思った。
「それじゃあ……穂澄が食べたいものでいい」
「……私が?」
「ああ。何を食べたい?」
もしかしたら、普段はこう聞かれることもないのかもしれない。
ずばずばとなんでも決めたがる彼女だからこそ、友人らとどこかに行っても、きっと『あれが食べたい』『これがしたい』という決定権を持っているのは彼女なんだろう。
そのせいか、あえて問い返すとまばたいてから、考えこむように視線を宙へ飛ばした。
「んー……と、あ。じゃあ、煮込みハンバーグは?」
「作れるのか?」
「もちろん! あのねー、明後日だとそこのスーパーが特売日で、肉類が全部安くなるんだー」
「……なるほど」
どうやら、俺とは違ってこのあたりの情報をしっかり持っているらしい。
まったく予想しなかった理由に驚きはするが、同時に感心もする。
本当に、見た目とイコールじゃないな、お前は。
『じゃあ、マカロニサラダも作るね』なんて笑ったのを見て、つい同じような顔でうなずいていた。
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