学生時代、友人や同じゼミの仲間などでも、恋人のことで気分がどうの……などと学業を差し支えさせている人間はいた。
 だが、俺は当時“恋愛に関する云々”を知らなかったこともあってか、『馬鹿なヤツ』としか思っていなかった。
 どっちのほうが優先順位が高くて大切かなど、一目瞭然なのに……と。
 内心、恋に溺れてぐだぐだしているような輩を見下して生きていたこともあり、絶対に自分はそうならないと踏んでいた。
 ――……のに、このありさま、か。
「…………」
 結局職員室でのノート確認が終わらず、ついでにいうと週末に予定している小テストの問題に手を付けることもできなかったため、すべてを持ち帰って帰宅した。
 なのに……ここまでもまだ、集中力は途切れてばかり。
 いったい、いつになったら普段の自分らしさを取り戻せるのか。
 ……自分らしさ、か。
 果たして、そんなものがいつもの自分にあったのかすら、今はよく覚えていない。
「…………」
 ため息をつくと同時に、テーブルへ放ったままだった煙草とライターを手に外へ向かう。
 もうすっかり冷え込む季節になった。
 それでも部屋の中で吸わなくなったのはなぜかなんて、考えるまでもない。
 サンダルを履いてベランダの手すりに両腕を乗せると、冷たい風に眉が寄る。
 乾いた、冬の風。
 もう来月には2学期も終わり、生徒たちはまた冬休みになる。
 それでも、年が明ければすぐに共通テストが待っているのだから、進路が決まっていない大半の生徒にとっては、うかうか休んでなどいられない日々になるのだろうが。
 ……そういえば、彼女もまだ進路が決まってないらしい。
 直接聞いたわけではないが、担任の笹山先生が彼女を呼び出しているのを見たことがあり、そのとき耳に入れたという程度。
 聞いてみたい気もするが、果たして正担でも副担でもない俺が口を出していいものかと悩みもする。
 ……と同時に、たかが彼氏というだけの俺が言っていいものか、と。
「まーた吸ってるの?」
「っ……な……!」
 煙草を1本くわえて風除けのために手をかざしたら、ふいに右から声がした。
 右。
 ってお前は……!
「落ちるだろう! だから!」
「もー。落ちないってば、だからー」
 両手を手すりに付いて上半身を浮かしている穂澄が、こちらを覗きこんでいる。
 ……まったく。
 お前はいったい、いつになったら俺に心配をさせなくなるんだ。
「ね。そっち行ってもいい?」
「何?」
「ちょっとだけ。邪魔しないから」
 トン、とようやく足をつけた彼女が、両手を合わせて懇願の顔を見せた。
 相変わらず、この顔は前から変わらないんだな。
 ……そういえば、初めて彼女のこういう顔を見たのは、シャワーが使えなくなったときだったか。
 ちなみにあのシャワーの件について、疑問が残ったために問いただしたことがあった。
 というのも、『払いに行く』と言ってからずいぶん経ったあとで再度懇願されたため、『それじゃあいったい、今までどうしてたんだ』と聞いたら――……悪びれもせずに、ただ肩をすくめただけ。
 『だって、ああでも言わなきゃ部屋に入れてくれないでしょ?』
 ぺろりと舌を出して笑った彼女に対して、あっけにとられるよりも先に叱り飛ばしたのは言うまでもない。
 嘘をつくこと。つかれること。
 それが何よりも嫌いだと言ったらさすがに反省したらしく、しゅんとした顔で『ごめんなさい』と謝ったから、以降は何も言っていない。
 実際、今まで嘘もつかれていないだろうし…………恐らく。
 だからこそ、今回のすべての元凶である『みーくん』とやらについても、問いただせば本当のことを言うだろう…………が、だからこそ、不安にもなる。
 聞くべきか、聞かざるべきか。
 ……そういえば、こんなふうに判断に迷うようになったのも、彼女が俺のそばにいるようになってからだな。
 自信がなくなったというか、揺らぐというか。
 強く出れなくなったのは、俺が弱くなったからなのか。
 ……情けない話だ。
 これじゃまるで、学生時代に見下げていた彼らと同じ。
「ね。里逸」
「っ……なんだ?」
「何じゃなくて。ねぇ、そっち行ってもいい?」
 首をかしげた途端、髪が風になびいた。
 そのせいか、甘い香りがあたりに漂う。
「……ああ。構わない」
「えへへ。やった! じゃあ、すぐ行くね」
 一瞬言葉に詰まりかけたのをごまかすようにうなずくと、ころりと表情を変えてひどく嬉しそうに笑った。
 その笑みを見るのは好きだし、かわいいと素直に思う。
 だからこそ――……不安にもなるんだな。
 好きになることと臆病になることは表裏一体なのか、とこのとき初めて思い知った気がした。


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