「――……ではここまでの訳を。葉山」
「はい」
教室内に響くのは、いつもと何も変わらない自分の声だけ。
……なのに、なぜかひどく居心地が悪い。
いつもと違う。
その理由も当然わかっているから、どうしようもできなくて歯がゆい。
『みーくん』
教室に入ってすぐ聞こえた声の主など、今はもう見ずともわかる。
なのに、そんな彼女から聞こえたのは、まったく身に覚えもない呼称だった。
……誰だそれは。
簡単に聞ける場所と時間ならば問題ないが、ここは公然。
プライベートの欠片もない場所で、当然私語は慎まざるをえない。
「…………」
内心穏やかじゃなくても、こんなふうに落ち着いて仕事はできるんだな。
それは大人になったからなのか、惰性なのか、判断はつきそうにないが。
「……あの。先生」
「…………」
「高鷲先生」
「っ……どうした」
「いえ、あの……どこまで訳せばいいですか?」
聞こえた声で視線を上げると、立ったまま教科書を持っていた葉山が困った顔を見せた。
……どこまで。
いや、そもそも果たしていったいどこまで訳されたのか。
聞いていたはずなのにまったく耳に残っておらず、情けなく唇が開く。
「いや。……すまない。十分だ」
「あ……はい」
腑に落ちない様子ではあったものの、葉山はうなずいて着席した。
こういうところが、ほかの子と違う。
もし、今対していたのが彼女以外のものならば、途端に調子づいて『ドクターなにごとー?』なんてケラケラ茶々のひとつでも入れただろうに。
賢い子は、動作もきれいだな。
ひそひそと穂澄が話しかけたことで私語を始めてしまったのが見えたが、咳払いをするとそれもやんだ。
「……では、続きを――……宮崎」
宮崎、か。
つい先日からそう呼ばなくなった相手を見ると、椅子へ横向きに座っていた身体を戻してから立ち上がった。
彼女とは、『真面目に授業を受ける』と約束したばかり。
だが……果たして、あの約束は今日からすぐ施行されるのか。
「っ……」
などと思っていたら、抑揚のあるきれいな発音で長文を読み始めた。
すらすらとつかえることなく続いていく心地いい響きに、背が伸びる。
……あの日以来、だな。
今からはもう随分と前になる、10月の半ば。
彼女という存在を自ら手放し、後悔の日々を送るようになったあの日以来の態度に、つい頬が緩みそうになった。
ちゃんと約束を守ってくれたのも嬉しいし、やはりできる子だと認識できたのも嬉しい。
だが――……それでも、ひとつだけ。
授業を始める前に聞いた言葉が、いろいろな感情に蓋をする。
いつなら聞いても許されるだろうか。
それとも…………聞くべきではないのか?
彼女から話されるのを待つべきなのか?
……しかしそれでは…………自分が堪えられるかどうか、わからない。
「…………」
あっけに取られたような顔で彼女を見つめる生徒たちを見ながら、小さくため息が漏れた。
「じゃ、またねー」
「ばいばーい」
放課後ともなると、生徒たちはそれぞれ足早に目的地へとはけていく。
ある者は部活を、ある者は自宅を、そしてある者は――……放課後という時間を謳歌するために。
それでも、足を向ける先には“期待”がある。
たとえどんなものであれ、自分で選んだ道だから。
「…………」
ぱたぱたと廊下を走っていく何人もの生徒を見送りながら職員室へ向かうものの、ついつい無意識のうちに穂澄を探していた自分に気づいた。
……いるわけないのにな。
それはわかってる。
恐らく、彼女は今日もバイトだろう。
スタンドへ行けば会えるだろうが、わざわざそんなことをせずとも、今は互いの家を行き来できる関係。
聞きたいことは当然あるが、今はまだ勤務中。
こういうとき、“教師である自分”はどうしても崩れないまま確固たる姿を保ち続けるが、それを厄介だとは微塵も思わない。
どうやら、こればかりは性格なんだろうな。
自分の席へ戻り、提出させた英語のノートの確認作業を始める。
「っ……」
そのとき、真新しいノートに書かれている『Miyazaki Hozumi』の名前を見て、不覚にも鼓動が速まった。
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