『……別に、里逸じゃなくてもいいんだよ』
「っ……」
『優しくしてくれる人なんて、ほかにもいるんだから』
 はぁ、と息をついたあとに聞こえたセリフは、ひどく自虐的に聞こえた。
 ほかにもいる。
 確かにそれは間違いじゃないし、嘘でもないだろう。
 ……だが、穂澄が本心から言ってるかどうかは、俺が知ってる。
 あの子は、こんな俺をずっとずっと好きでいてくれたんだから。
「穂澄――……』
『でもダメなの。……里逸じゃなきゃダメなのに』
「…………」
『好きなのに…………っ……だから、こんな……もう! なんでわかってくれないのよ!!』
「……すまなかった」
『謝ったって遅いんだから!!』
 確かに穂澄の言うとおりだ。
 今さら謝罪したところで、何ひとつ変わるわけじゃないし、今が改善されるわけじゃない。
 ただ、それでも何も言わずにはいられなかったし、こうすることで自分の非を認めることしかできないのも事実。
「……穂澄。頼む……迎えに行くから。だから、場所を――」
『じゃあ言って』
「何……?」
『ねぇ、言ってよ。愛してるって』
「っ……」
『そうしたら私、帰るから』
 半ばヤケになった揚げ句に出た言葉かもしれない。
 挑発かもしれない。
 それでも、これもまた彼女の本音。
 ずっと何ひとつ満たしてやれる言葉をかけれなかった俺に対する、穂澄の気持ちだろう。
「…………それはできない」
『っ……な……んで』
 電話で言ってしまうのは簡単だ。
 だが、そんな簡単に言ってしまっていい言葉じゃないのを、穂澄とて知っているだろうしわかっているはずだ。
 なのにそれを口にしたのは、恐らく俺を試しているから。
 俺の本気がどの程度か、はかり知るためだろう。
『嘘つき……っ……』
「っ……」
『結局私なんて、どうでもいいんじゃない! その程度ってことでしょ!!』
「違う! それは違う……!!」
『じゃあ何よ! なんでそんなこと言うわけ!?』
「こんな形で言いたくないだけだ。……わがままなのもわかっている。それでも――」
『じゃあ、いつなら言ってくれるの? 抱いてくれるとき?』
「っ……そうじゃない。電話越しじゃなくて、きちんとしたときに直接言いたいんだ」
 電話越しに小さなしゃくりが聞こえ、胸が痛んだ。
 ……お前はいったい、どこで泣いているんだ。
 誰かの前なのか?
 それとも、本当に男の前なのか……?
 だとしたら、俺はどうすればいい。
 その方法を教えてほしいのに、それは……わがままなのか。
 許されないのか?
 俺にとって穂澄は、大切な存在なのに。
「……大切な言葉だろう? 特別だろう? だから……穂澄を前にして、ちゃんと言いたいんだ」
『ふぇ……』
「だから……穂澄。今から迎えに行くから……頼む。今、どこにいるんだ? 頼むから場所を――」
『……私のこと好き?』
「当たり前だろう。だから、場所を……」
『じゃあ、好きって言って』
「……何?」
『おっきな声で、周りに聞こえるくらいに言って』
「っ……それは……」
『できないなら、帰らない』
 涙声なのは変わらないこと。
 だが、張りが出たせいか、先ほどまでと違って凛とした響きになる。
 ……本気なんだろうな。
 もっとも、これは元々彼女が望んでいたこと。
 ここにきてもまだ『好きだ』と言えていない自分は情けないが、きっとそのせいで穂澄が持ちかけたんだろう。
 彼女は賢い。
 きっと、そこにも気づいている。
「……好きだ」
『聞こえない』
「っ……好きだ……!」
『もっと!!』

「好きなんだよ、穂澄がッ……!!」

 びりびりと、あたりの空気どころか室内が震えたようにすら感じる。
 ……久しぶりに怒鳴ったな。
 最近、授業中でもこんな声は出さなかった。
「……場所は? どこにいるんだ」
 何も言おうとしない穂澄にため息をついてから、静かに切り出す。
 どうか何事もありませんように。
 情けなくもそう願ってしまうほど、今の自分は脆い。
「迎えに行くから、すぐに――……っ」
 ガチャリ、と音を立てて玄関が開いた。
 弾かれるようにそちらを見ると、制服姿のまま、ぼろぼろ泣いている穂澄が……立っていて。
「ッ……!!」
 全身が粟立つと同時に駆け寄り、靴も履かずに玄関のコンクリートを踏む。
 それに穂澄が驚いたのはわかったが、何も言わず抱きしめていた。
「馬鹿かお前は……!!」
「っ……」
「心配させるんじゃない!!」
「……ごめんなさ、い……っ」
 力強く抱きしめると、彼女もまた細い腕を背中に回した。
 だが、すぐに驚いたように顔をあげる。
 こうして泣いていると、本当に幼いな。お前も。
 普段の姿は、虚勢でしかないとわかる。
「……もぉ……なんで泣いてるの?」
「お前が泣いてるからだろう」
「っ……やだもぉ……」
 泣いたままくすくす笑い出した彼女につられ、自分も小さく笑ってから涙を拭う。
 情けない話だ。
 それでも、格好悪いだのなんだの責めないのは、彼女が俺を受け入れてくれているからだろう。

「愛してる」

「っ……」
「……な……!」
 目を見つめたまま呟いた途端、一瞬驚いた顔をしてからまた泣き出され、ぎょっとするはめになった。
「な……どうして泣くんだ!」
「だって……だ、って……ぇ」
 そもそも望んだのはお前だろうに。
 首を振りながら顔をうずめるように抱きつかれ、わけがわからずさらに戸惑う。
「……穂澄がいなきゃ、ダメなんだ」
「…………」
「俺を変えてくれたのはお前だろう? だから……穂澄がすべてなんだ」
 頭を撫で、そのまま背中に触れる。
 自分よりずっと年下で、教え子で。
 何もかもが正反対で、最初はそれこそ不一致でしかないはずだったのに、今は彼女以外考えられない。
 大切なんだ。
 ……愛してるんだ。
 確かに、口にすればするほどその想いが強くなるような気がするな。
 なるほど。
 もっと早くこうしていれば、きっとこんなことにもならなかったんだろう。
「頼むからもう、どこにも行かないでくれ」
 穂澄じゃなきゃ、ダメなんだ。
 強く抱きしめたまま囁くと、彼女がまた声をあげて泣いた。
 どうして泣くんだと不思議になるよりずっと強く、ただただ困惑する。
 泣かれたくないから想いを口にしているのに……どうしてこうなる。
「もぉ……っ」
 ぐしぐし、と手で涙を拭った彼女が、ようやく顔を上げた。
 真っ赤な目元を見てしまい、『う』と気持ちが折れそうになる。
 何もしていなくとも、まるで責められている気分だ。
「もっと早く言ってよ、ばかぁ……っ」
 そう言って唇を尖らせた穂澄は、まじまじと俺を見つめてから、ふいに笑い始めた。

「ん? なぁに?」
「いや……やっぱり泣いた顔より、そうやって笑っているほうがかわいいな、と思っただけだ」
「っ……」
 久しぶりに一緒に摂った夕食は、シチューのせいかやけに身体へじんわりと沁みた。
 うまいのはいつものことだが、ああなるほどと今ごろ納得する。
 こうして彼女と一緒にいる雰囲気があってこそなんだ、と。
「……もぉ……」
「どうした?」
「どうした、じゃなくって。……なんか……急に変わりすぎだから」
 今まで全然言わなかったかと思ったら……。
 ぶつぶつ言いながらも顔が赤いので、本人もそれなりに喜んでくれてはいる、のか。
 ちらりと上目遣いで見た穂澄が『嬉しいけど』と付け足したので、ほっとするが。
「かわいいって言ってくれるの、里逸だけなんだからね」
「…………」
「……何よ」
「いや……それは嘘だろう?」
「なんでよ」
「いや、お前は常に褒められているのが当たり前というか……。逆に、『かわいい』と言われ慣れてない感じはしない」
 彼女は、はたから見ても十分かわいいと思う。
 顔立ちもそうだが、服装などのすべてを含めてそうだ。
 生徒でも穂澄のことを話す男子がいるのは知っているし、女子からも羨ましがられている存在。
 なのに……なんの冗談だ。
 これもまた、試されているのだろうか。
「キレイって言われることはあるけど、かわいいって言われることはないの」
「……そうなのか?」
「うん。ほら、かわいいって、みんなに愛されて温かいイメージだけど、キレイって……敬遠されるじゃない。距離を取るでしょ? だから……」
 先ほどまでと同じように俺を見ていた穂澄が、小さく笑った。
 その笑みは、まるで“こらえきれなかった”ように見えて、素直にかわいいと改めて思う。
「だから……えへへ。里逸にかわいいって言ってもらえて、すっごく嬉しい」
「……穂澄はかわいいだろう」
「っ……また、そうやって……」
「いや、本当のことだ。そういう考え方をするところが……かわいい」
「……ほんと?」
「ああ。すごく、な」
 うなずいてから、シチューをすくう。
 久しぶりに食べたような気のする、味。
 ふと、幼いころの光景を思い出した気がして、頬が緩む。
「……里逸って、優しいよね」
「何?」

「大好き」

「っ……」
「えへへ。ありがと」
 久しぶりに見た満面の笑みにどきりとしただけでなく、危うくスプーンを落とすところだった。
 自分の顔が赤くなっているのも、きっと気のせいじゃないだろう。
 ……参ったな。
 素直に自分が考えていることを口に出すのは、こういうときに限れば正しいのだろうが……妙に照れくさい。
 それでも、こうしてあからさまにひどく喜んでもらえる様を見ることができるのであれば、今後もそうしたほうが、きっと正解なんだろう。


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