『……無理だよ」
「何?」
『私、帰れないの』
 穂澄の声以外には、何も音がない。
 少しだけくぐもっているように聞こえるのは、どこか室内にでもいるのか。
 それとも、単に俺がそう捉えているだけか。
 どちらにしても普段と違った声の響きに、眉が寄る。

『今、友達とホテルにいるから』

「……な……に?」
 情けなくも声が掠れた。
 ホテル。
 ……どういうことだ。
 意味が、わからない。
 いや――……わかっては、いる。
 ただ、理解できないだけで。
『優しくしてくれたの。落ち込んでたら笑わせてくれた』
「……穂澄」
『かわいいねって、きれいだねって……言ってくれたの』
「穂澄」
『好きだ、って言ってくれたよ?』
「っ……」
 淡々と紡がれるセリフは、どれもこれも真実味を帯びてはいない。
 だが、だからこそ不安はたちまち膨らむ。
 彼女が鍵をポストに入れた理由は、なんだ?
 それすらわからないのに、今の穂澄が何を考えているかなど、俺に計り知れるはずはない。
『何もしないって言ったし、平気。夜中までには帰るから』
「な……っ……待て! そんなの嘘に決ってるだろう!」
『なんで決めつけるの? 嘘なわけないじゃない』
「違う! いいか? その年頃っていうのはな、恋愛感情云々よりも先に……性欲のほうが強いんだぞ? 誰でもキレイに見えるというか……内心は、単に性欲の捌け口で――」
『なんでそんなこと言うの? じゃあ、里逸もそうだった?』
「っ……」
『昔、そんなふうに女の子見てたの?』
 俺とはまったく違い、淡々と喋ることを穂澄はやめなかった。
 それどころか、俺の言葉尻をしっかり捉え、ひとつひとつと分析するかのように語る。
 これが彼女だということは、わかっているし、知っている。
 それでも、単純に言葉だけでは判断できないことが世の中にはあることも、知っているのか。
『里逸は違うんでしょ? 勉強が1番好きだったんじゃないの?』
「穂澄……」
『女の子なんて、関係なかったんでしょ? じゃあ、里逸と同じタイプなんだよ。だから平気』
「っ……違う! 平気なはずないだろう! そいつは嘘をついてるんだぞ!?」
『なんで嘘だってわかるの? 話、聞いてもないくせに』
「穂澄!」
 は、と短く嘲笑われ、眉が寄った。
 穂澄がそういう言い方をしたから、じゃない。
 そういうことを言わせた俺に、だ。
 ……そうだ。
 俺は、何も知らない。
 穂澄がそいつにどう言われたのかも、何を考えて行動したのかも。
 賢い子だ。
 だから、男はそういう生きものだというのも、きちんと理解しているんだろう。
 なのに――……それでも、行動した。
 いや。させた、んだ。
 この俺が。
「……穂澄。今すぐ迎えに行くから……だから、頼むから場所を――」

『嘘でもいいんだもん』

「っ……何……?」
『嘘でもいいの。それでもいいから、言ってほしいの』
 目を閉じて壁にもたれたまま、彼女に乞う。
 なのに、ぽつりと聞こえたセリフで、喉が鳴っただけでなく、酷く動揺する結果になった。
「……穂澄? お前、何を……」
『じゃあ聞くけど、里逸は私のこと好き?』
「っ……」
『愛してる? かわいい? キレイ? どんなでもいいの。嘘でもいいの。嘘でもいいから、毎日そんな言葉が欲しいの。不安なんだよ、女っていうのは』
 息を含んだ喋り方は、いつもと同じなのにいつもと違って。
 囁くようなセリフに、彼女の動揺は感じ取れない。
 ……ここまで追い詰めたのが、俺なのか。
 今にも泣いてしまいそうな声にも聞こえて、眉が寄った。
『知らないの? 好きな男の言葉が、女をきれいにするんだよ?』
「っ……」
『私、がんばり足りなかった? 里逸に言ってほしくて、認めてもらいたくて、毎日がんばったつもりなの。でも……里逸、言ってくれなかったよね』
「……それは……」
『じゃあ、いつ好きだって言ってくれた? 嬉しいとか、楽しいとか、言ってくれたことある? かわいいな、とか。キレイだよ、とか……そういうところが好きだ、とか……っ……ねぇ! 愛してるって! そう言ってくれたこと一度でもある!?』
「っ……それは……! でも、待て。俺は本当に――」
『だって、言ってくれないじゃない! いい? 私はね、なんでもできる人間じゃないの! エスパーでもなんでもないの!! 里逸が何考えてるかとか、ホントはどう思ってくれてるかとか、そんなのわかんないんだよ!? だから、言葉が欲しいの! どう思ってるか伝えるために口があるんでしょ? 言葉があるんでしょ!? キスするためだけじゃないんだよ!? ちゃんと言葉を伝えるためにあるんだよ!?』
「っ……」
 堰を切ったように話し出した穂澄の声が、途中から潤んで聞こえた。
 俺のせいだ。
 穂澄が言うことは、どれもこれも本当のことで。
 何ひとつ否定してやれない自分が、情けないと同時に『ああそうか』と今さら気づく。
 彼女に不安しか与えてやれなかった。
 あの子が欲しがっていたことを、満たしてやれなかった。
 自分勝手に悩んで、戸惑って、困惑して。
 結果、穂澄を傷つけて追いやったのは自分じゃないか。
 ……何が年上だ。教師だ。
 聞いて呆れる。
 彼女を、何ひとつ満たしてやることもできないクセに。
『……嘘でもいいの。言ってほしいの……褒めてほしいの、認めてほしいの……!』
「…………」
『好きだって、特別だって……っ……愛してるって……! 言ってよ、ばかぁ!!』
「ッ……穂澄……」
 完全に涙声で叫ばれ、どうすることもできずにただただ後悔ばかりでいっぱいになる。
 好きだ、と言ってやったことはあったか。
 特別だと認めたことはあったか。
 それらを満たしてやれてない俺が、愛してるなんて言えるわけがない。
 何もかも俺がしてやれなかったことを、穂澄は望んでいたんだな。
 ……何もできなかった。
「すまない……」
 情けなくて、なのにどうすることもできなくて、ただ謝罪するしかできなかった。


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