いつもより少し早めに帰宅したのは、何かを期待していたわけではなく。
 ただ……もし可能であるならば、謝りたいと思っただけだ。
 帰り際、バイト先のスタンドを通ってはみたが、穂澄の姿は見られなかった。
 もしかしたら休憩時間なのかもしれないし、別のどこかで作業しているのかもしれない。
 今日がバイトなのかどうかは聞かなかったのでわからないが、『違う』と判断したから自宅へ帰ってきた。
「…………」
 だが、結局部屋にもおらず。
 何度かチャイムを鳴らしたのだが、出てくる様子もなければ、物音もしなかった。
 すでに18時を回っており、日は暮れている。
 こんな暗い中、どこへ行ってるんだ。
 そう言いたくもなるが、果たして……今、そのセリフを俺が言ってもいいものか。
 許される、のか?
 彼女に対してそこまで求めることを。
「……?」
 家の鍵を開けて中に入り、据え付けのポストを開くと、手紙類に交じってキーホルダーのようなものが見えた。
 ……ような、じゃない。
 これは、普段穂澄が使っている、自分の部屋の鍵だ。
「どういうことだ……?」
 これじゃ、彼女は鍵を使えないだろうに。
 ……やっぱり家にいるのか?
 それとも――……これを使って入ってこい、とでも言うつもりか?
「…………」
 ピンクのリボンとハート型のチャームが付いている鍵を手にしながら、穂澄の部屋の前に向かう。
 再度チャイムを鳴らしはする――……が、やはり応答はない。
 …………いいんだな?
 彼女の意図がわからない以上確認のしようがないが、俺に鍵を託したのにはなんらかの理由があるのだろう。
 これまで、こんなふうに鍵でなど入ったことはない部屋。
 いつだって穂澄は、チャイムを鳴らした俺を拒むことなく、迎え入れてくれた。
「…………」
 拒むこと、なく。
 ……そう。
 彼女は俺を一度も拒まなかった。
 なのに俺は…………どうだ。
 あんなふうに傷つけたのは、1度じゃない。2度じゃない。
 きっと、もっとたくさん彼女を傷つけたんだろう。
 ……それなのに穂澄は、俺を許してくれた。
 まるごと、受け入れてくれようとした。
 なのに――……。
「…………っ……」
 ドアノブを回して引くと、中にもひと気はなかった。
 真っ暗い室内は、今帰宅したばかりの自室と同じ。
 ……靴も、ない。
 じゃあ、穂澄は今どこにいる。
 どこで何をしているんだ?
 いつ帰ってくるかわからない俺なんかに、部屋の鍵を託してまで。
「ッ……」
 嫌な感じが身体に広がり、スマフォを取り出し彼女の番号を探す。
 呼び出し音こそするが…………一向に繋がらない、電話。
 ……どういうことだ。
 なぜ、鍵をポストに入れた。
 あれじゃあ、入れないだろうが……!
「く……っ」
 留守番電話に切り替わってしまい、仕方なくもう1度かけなおす。
 だが…………結果は変わらず。
 同じ女性の同じ声が響き、電話を切るしかなかった。
「……は……」
 今どこにいるんだ。
 何をしてるんだ。
 教室にはもう、姿は見えなかった。
 たまたま残っていたらしい葉山に訊ねたところ、もう帰宅したと言っていたから、学内にはいないんだろう。
 ……じゃあ、どこだ。
 今、どこで何をしている。
 思わず壁にもたれ、繋がらないスマフォを睨むしかできない。
 ――……が、そのとき。
 ふと視線をキッチンへ向けると、いつもはない鍋と皿が見えた。
「……?」
 コンロの上に置きっぱなしになっている鍋。
 ……ああ、なるほど。
 入ったときにした匂いは、あそこから漂ってくるんだろう。
 甘さがあって、どこか懐かしいような気のするシチューの匂い。
 靴を脱いで上がり、引き寄せられるようにそちらへ近づく。
「……っ……」
 だが、シンク横に置かれたものを見て、目が丸くなった。
 スプーンと皿のセットが、ふたつ。
 そして、その隣にはラップがかかっているものの、ボウルに入ったままのポテトサラダがあった。
 いつだったか……そう。
 あれは、嫌いなものを聞かれたときのこと。
 『じゃあ、好きなものは?』という話になり、平凡ながらもこのメニューを口にした。
 何よりの好物というほどでもなければ、普段好んで食べているわけでもない。
 それでも、『そういえば……』と実家にいたころはよく食べていた気がして答えたら、穂澄は嬉しそうに笑ったんだよな。
 『やっと、物じゃなくてメニュー教えてくれた』って。
「っ……」
 もしかしてじゃあ、それはこのためだったのか?
 何もかも――……俺の、ために……?
 胸の奥が震え、思わず奥歯を噛みしめる。
 ……穂澄。
 俺のせいで彼女は傷ついたのに、なおも俺を許してくれるというのか。
 無論、ここにあるメニューがどちらも俺のためだという保障はない。
 だが――……彼女が鍵を託してまで見せたがったものは、じゃあ何か? と考えると、やはりこれしかないように思う。
「……っ……」
 再度彼女へ連絡を取るべく、ポケットに入れたスマフォを手にする。
 と、ふいに着信があった。
 表示された名前は――……穂澄……!
「もしもし!」
 間髪入れずにボタンを押し、耳に当てる。
 だが……何も聞こえない。
 音は、ない。
 それでも、こうして繋がったんだ。すべてはここから。
「もしもし。穂澄、どこにいる? 今、どこにいるんだ」
 語調がキツくならないように注意しながら、静かに話しかける。
「……穂澄。今どこにいる? 迎えに行くから……場所を教えてくれ」
 頼むから。
 応答はないが、言葉を飲み込むことはできない。
 家にいない。学校にもいない。
 じゃあどこにいるんだ?
 バイト先か? それとも――……。
 嫌な感じに鼓動が速まり、目を閉じて彼女が応えてくれるのだけを待つ。
 もしかすると、さほど経ってはなかったのかもしれない。
 それでも、俺にとってはそれこそ何分もの空白にも思えるほど長い時間のあと、穂澄はようやく口を開いた。


ひとつ戻る 目次へ 次へ