「…………」
昨日の件以来、穂澄が家に来ることはなかった。
夜も、朝も。
そして、出勤時も。
電話しようかと考えたし、実際、自宅のチャイムは鳴らしてみた。
だが、待てど暮らせど彼女が出てくる気配はなく、こうして出勤してからも同じこと。
ざわつく校内はいつもと同じなのに、いつも以上に色褪せて見える。
『……ばかみたい』
穂澄が部屋を出ていくときに呟いたひとことが、今もなお鮮明に耳に残っている。
たったひとことなのに、そこにすべての感情が凝縮されているかのようで。
「…………は」
傷つけたのは間違いない。
だから――……俺から離れたんだ。
これ以上傷つかないように。
痛い思いをしないように。
……だが…………これで、よかったんじゃないのか、と思っている部分もどこかにはある。
責任転嫁、か。らしくない。
自分が困るから、ツラいから、悩んでるから――……だったら離れたほうが正解だ、とでも?
きっと、前までの自分ならそう思っていたんだろうな。
危険なものには近づかない。
嫌なものには蓋をする。
“無理だ”とわかっていることをわざわざしない。
……だが、今は違う。
今まで知らなかった穂澄に触れて、一緒に時間を過ごすようになってわかったこともあれば、彼女から受けた影響もかなり大きい。
「…………」
このままでいいはずないだろう。
そもそもが、間違っていたんだ。
俺が悩んでいるのは、俺だけのことじゃない。
大切な……彼女のこと。
だからこそ、きちんと口にすればよかったんだ。
話して、理解してもらえばよかったんだ。
「…………遅いな」
何もかも、あとの祭り。
今ごろひとりで答えを見出したところで、なんら解決には繋がらないというのに。
廊下を歩きながら自嘲気味な笑みが漏れ、わずかに視線が落ちた。
「っ……」
どん、と向こうから何かが腕にぶつかってきたせいで、持っていた小テストのプリントが音もなく廊下に広がった。
白い紙があたりを埋め尽くし、一瞬現実味を失う。
「うっわ、ドクター!? やっべ!!」
「あーあ、お前何してんだよー!」
どうやら、向こうでまたじゃれているな、と思っていたヤツらが走ってきたらしい。
慌てたようにプリントを拾う姿を見ながら、自分も拾い上げる。
「すんませんしたー」
「てか、ドクターもドクターじゃね? 前向いて歩かなきゃダメじゃん」
ようやくすべてのプリントを集め終えたところで、揃わないままの束を渡された。
……ダメ、か。
確かにそうかもな。
「……すまない」
「え……」
「っ……マジ!?」
ぽつり、とつい謝罪を口にしてしまったら、生徒ふたりはかなり驚いたように目を見張ってから顔を合わせた。
「え、ちょ! ドクター、謝っちゃうんだ!」
「何ごと!? マジで!?」
ひぃ、なんて小さな悲鳴まであがり、こちらとしてはそれこそ『何事だ』と眉が寄る。
その言い方じゃまるで、俺が生徒に対して謝罪しないかのようじゃないか。
そんなことは、当然ない。
自分に非があれば、きちんと謝罪する。
きちんと――…………謝罪、か。
「……はぁ」
してないじゃないか。
何よりも大切で肝心な彼女に、ひとことも。
「ちょ、どーしちゃったの? なんか悪いもんでも食った?」
「てか、あれじゃね? もしかして、彼女となんかあったとか!」
「うっそまじかよー! ドクターって彼女いたの!?」
「ぶっは! どんな女だって! どんだけ物好きだよ!」
「あ、ほら! 4丁目の角の、ヨネばーちゃんとか!」
「あーありえるー! でもほら、むしろ人じゃねーかも!」
手を叩いて大爆笑を始めた生徒らを見ながら、改めてため息が漏れる。
どういう感覚をしているのかわからないが、まぁ、話のネタにされてることくらいはわかる。
相変わらず、レベルが低いが。
「……お前たち、本気で言ってるのか?」
「え……?」
「俺が、ただその辺を歩くだけしかできないような人間を、自分だけの女にするはずないだろうが」
表情を変えず口にはしたものの、どうしたって頭に浮ぶのは……穂澄。
あの笑顔が浮んで、だからこそツラくなる。
今は、ない。
……いや。
きちんと謝ったとしても、彼女が受け入れてくれる保証もないんだ。
まるで――……拒絶するかのような真似をした俺を、果たして彼女は許してくれるだろうか。
「あ……ちょ……」
「……ドクター……?」
ふたりを見ずに7組の教室へ向かうべく、歩を進める。
……9組。
すぐここの教室のプレートが目に入り、眉が寄った。
この壁1枚隔てた向こうには、彼女がいるだろう。
今日、彼女らのクラスでの授業はない。
それを幸と取るか不幸と取るかは、俺次第なんだろうな。
「え……何、今のドクター」
「なんか、雰囲気違ったよね」
里逸が7組の教室へと歩いて行くのを見ていた9組の壁際の生徒らは、口々に今目にしたことを話題にし始めた。
何を言ったのか、がギリギリわかった穂澄とて、それは同じ。
だが、彼女は何も言わずに廊下を見つめたまま、なんともいえない表情をしていた。
「…………ばか」
嬉しい気持ちと、悔しい気持ち。
そのほかにもいろいろな感情が入り乱れて、考えなどうまくまとまるはずもない。
「なんかさ、ドクターって最近変わったよね」
「あ、それあるね。てか、ちょっと……今のかっこよくなかった?」
「んー、ちょっとね」
「っ……」
くすくす笑いながら彼に好意的な発言をしている子をつい見てしまい、穂澄が慌てて視線を逸らす。
……ダメ、って言えればいいのに。
私のカレシなんだから、って。
でも――……もう、言えないか。
拒絶されちゃったんだから。
人知れずため息を漏らすと、穂澄は朝と同じあまり機嫌のよくない顔で、次の授業の教科書を取り出した。
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