「…………」
 その日は、穂澄がバイトだったこともあり、俺のほうが先に帰宅していた。
 彼女から『遅くなるから夕飯は先に済ませて』とメッセージもあったため、久しぶりにひとりきりの食事。
 食べるものはいつものと変わらないようなメニューだったにもかかわらず、なぜか味気なく思えたのも……やはり自分が参っている証拠か。
 期末テストに使用する長文の問題文を見直しながら、今の単元と照らし合わせてフレーズを変える。
 同じ意味でも、言い回しが違うのは日本語も同じ。
 それをもっと明確にしたのが英語だからこそ、わかりやすいのだが……生徒にはどうやら不評らしい。
「…………は」
 穂澄がいないことで集中できるしするべきなのに、指が止まった。
 思考回路がいつもより鈍っているのは、何も今に始まったことじゃない。
 今日の授業中も9組では集中しきれていなかったらしく、生徒がからかうように声をあげもしたから。
 座椅子に、膝を立ててもたれる。
 ぼんやりと眺めるのは、部屋の照明。
 白のはっきりした眩しい輪がうっすらと見えたところで、目が閉じる。
 ……どうすればいいんだ。
 などと考えながらも、答えが出ない……いや、出せないのは承知。
 『考えさせてくれ』と言った同棲の話もあれからは一度も出ず、だからこそあえて口にするのがはばかれる感じもした。
「っ……」
 部屋に響いたチャイムの音で、弾かれるように立ち上がる。
 こんな時間に鳴らす相手なんて、ひとりだけ。
 時間的にも、バイト帰りの穂澄で間違いない。
「はー、さむー……。ただいまー」
「おかえり」
 ドアを開けて迎え入れると、白い息を吐きながらも笑みを浮かべた穂澄を見て、胸の奥がうずいた。
「っ……」
「あー……あったかーい」
 いつもとは違い、きびすを返してすぐに手を取られた。
 驚くほど冷たい彼女の手。
 だが、それよりも細い指の感触にどきりとする。
「夕飯、何にしたの?」
「いや……あるもので済ませた」
「そっか」
 提げていた小さなビニール袋をシンクの隣へ置くと、穂澄はそのまま洗面所へ向かった。
 手洗いうがい、か。
 そういえば彼女と一緒にいる時間が増えたことで、俺にもそれが当たり前の習慣に根付いた。
 ……習慣、か。
 穂澄の影響を、俺はかなり受けている。
「…………」
 リビングへ戻り、座ってすぐにファイルを保存して閉じる。
 代わりに開くのは、株式のページ。
 穂澄が見たら、『またそんなの見て』なんて笑うかもしれない。
「っ……」
「はー……疲れた」
 後ろからふいに抱きつかれ、腕が回った。
 きゅ、と目の前で交差する白いニットのほうが、よほど温かいように思う。
 それでも――……耳元で感じる吐息に、情けなくも鼓動が速まって。
 改めて後ろに引き寄せられ、彼女の身体を背中いっぱいに感じた。
「……ねぇ、里逸」
 耳元で呼ばれる自分の名前が、ひどく色っぽかった。
 まるで、欲されているような響きに、喉が動く。
 ……だが。
「ねぇ……里逸ってば」
「っ……よせ……!」
「……え……」
 吐息を含んで甘く囁かれた瞬間、思わず顔をそむけていた。
 鼓動が速まり、どくどくと全身を血が巡る。
 だが、それよりもまず驚いたように穂澄が身体を離したことで、咄嗟のことに自分でも驚くはめになった。
「ッ……すまない。今のは……」
「……平気」
「穂澄……違う、んだ」
「入り込みすぎた?」
「……っ……」
 驚いた顔を見せたはずなのに、穂澄は次の瞬間肩を落とした。
 ため息もつかず、ただ……表情だけを悲しげな色に変えて。
「……穂澄」
「ごめんね。勝手にひとりで盛り上がっちゃって」
 よいしょ、と小さく呟いて立ち上がった彼女は、すたすたとリビングのドアに向かった。
 開け放ったまま当然のように玄関へ向かい、まったくこちらを振り返らずに進む。
「っ……穂澄!」
「なんか、カレシができたらって……いろいろ考えすぎてたみたい」
 声が、違う。
 今の今まで俺を呼んでいたような甘いものではなく、いかにも『相対』しているかのような……そう。
 言うなれば、あのころの彼女とイコール。
 物事を自分の価値観で判断し、誰の言葉にも惑わされず、人に頼ることなく切り抜ける術を身につけている、と知らされた……あのころの。
「当たり前だよね」
「……何?」
「ふつーは、段階を踏んでいくものなんだし。……彼女ヅラして、ごめんね」
「っ……」
 ブーツを履いて、かかとを『トン』と鳴らした彼女が、振り返った。
 だが、その表情は……まさにドンピシャ。
 日々俺と相対し、“大人”を批判するように対峙していた、あのころと。
「…………ばかみたい」
「っ……穂澄!」
 くるりと背を向けてドアを開いた彼女が、部屋を出る瞬間小さくちいさく呟いた。
 その声は、これまでとまるで違って。
 …………傷つけた。
 明らかにそうわかるような、普段の彼女よりもずっと儚く今にも消えそうな声だった。


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