「一緒に住みたいんだけど、だめかな?」
「……何?」
 突然の申し出をされたのはその日の夜、ともに夕食を摂ったあとのことだった。
 珍しくきちんと正座をしたなと思いきや、向けられたのはまっすぐな視線で。
 瞳に決意のようなものを見いだしてしまい、わずかに喉が鳴る。
「だって、こうして一緒にごはん食べたり、寝るまでの時間過ごしたり……だけじゃなくて、最近、泊めてもらってるでしょ? だから、なんか……一緒に住めたら、そのほうがいいなって思って」
 そうしたら、その分貯金できるし。
 視線を落として呟いた穂澄の頬が、心持ち赤くなっているように見えたのは、恐らく気のせいじゃないだろう。
 きゅ、と膝の上で合わされた両手は、所在なさげにショートパンツの裾を弄っている。
「それは――」

 別に構わない。

 そう言ってしまいそうになった自身を抑え、言葉を呑み込む。
 たしかに、一緒に住むこと自体が問題だといえば、今さらな話で。
 そもそも教師と生徒という関係を発展させてあえて私的なものに作り変えてしまった以上、何を言っても否定されるだけ。
 これ以上許されざるものが、果たしてあるのか。
 ――……と考えるまでもなく浮ぶのは、もう、ずっと考えていること。
 穂澄に触れ、個人的な時間を密にすればするほど、自身が追い立てられる。
 口づければさらに……と欲が芽を出し、手が動きそうになる。
 いつ、タガが外れるか。
 理性と本能など考えるまでもなくどちらが強いかわかるからこそ、手離しで『じゃあそうしよう』とは言えない。
 彼女はまだ高校生で、18歳で……教え子で。
 未だ学業途中だからこそ、ここで何かあったら人生すべてが途切れる。

 『私、幼稚園の先生になりたいんだよね』

 意を決して進路を訊ねたとき、穂澄はとても嬉しそうに笑った。
 子どもが好きなことも、面倒をみたいことも。
 きっと大変だろうけど、やりたいことだからがんばれるなんて笑ったのを見て、自分がどうして教師になりたいと思ったかを思い出したようにさえ感じた。
 だから、彼女の道を俺が遮るわけにはいかない。
 この子には未来があって、彼女自身のための将来が待っている。
 だから――……。
「…………少し……考えさせてくれ」
 穂澄の目を見ることはできなかった。
 見てしまえば、きっと俺が何を考えてるかなんてすぐに知られてしまうだろう。
 ……それは怖い。
 と思うのは、わがままなのか。
「ん。わかった」
 知ってかしらずか、穂澄はそれ以上何も言わずにうなずいた。
 そこでようやく視線が上がり、表情を……見て唇が開く。
「や、いーの。そりゃそうだよね。急に言われても困る、っていうか」
 俺に気づいた彼女は、慌てたように両手を振って苦笑した。
 だが、一瞬。
 ほんの一瞬だけ見せたのは、ひどく寂しげなもので。
 ……傷つけた、のか。
 『さー、お風呂入ろっかなー』なんてぱたぱたと部屋を出て行ったのを見ながら、言いようのない嫌な感じが胸の奥に広がった。

 それから、だ。
 俺たちの間に、少しずつギクシャクした時間が増え始めたのは。
 まず、第一に。
 翌日から、穂澄は俺の家で寝ることがなくなった。
 眠そうな顔を見ることはあっても、これまでのように『先に寝るー』などと言いながら寝室には行かず、玄関へ向かう。
 本来はそれが当然で正しい姿なのに、『じゃあね』と玄関から出るときに手を振られる一瞬に、ひどく寂しさを覚えて。
 結局、これまではなんだかんだ言いながらも内心は喜んでいたことを、改めて感じさせられた。
 そして第二に――……スキンシップが、極端に減った。
 これまでは、それこそことあるごとに穂澄は俺へもたれてきたり、触れたり……抱きついたりとべたべたしてきたのに、あの日以来彼女はそれをすべて断ったのだ。
 無論、こちらから手を伸ばせば拒否されることはないが、それでも……困ったように笑ったのを見たことがある。
 それもあってか、キスもろくにしていない。
 ……いや、本来は正しい……のか。これが。
 俺たちは、世間一般の恋人とやらとはまた違うのだから。
「…………」
 いつものように授業のため、職員室からひとり長い廊下を歩く。
 授業開始まで5分を切っているが、まだ廊下には多くの生徒の姿があった。
 話をしている者、ふざけて遊んでいる者――……とは違って、ちらほら見かけるのは、“付き合っている”とおぼしき男女のペア。
 さりげなくどちらかへ触れていたり、あからさまに肩を寄せていたりとさまざまだが、どれもこれもが苦く映った。
 内心では、ふたつの感情が揺れ動く。
 羨ましいという妬みと、どうして俺は……という自虐的なもの。
 ……俺はどうすればいいのか。
 今朝もいつものように『おはよう』とあいさつをしともに朝食は摂ったが、日に日に穂澄の表情が暗くなっているのがわかり、言葉数も少ない食卓はまったく鮮やかではなかった。
「あ。きりーつ」
 3年9組のクラスへ入ってすぐ号令がかかった。
 当たり前のように教卓へ向かい、プリントと教科書、辞書をまとめて置く。
 だが――……どうしても視線が向かうのは、正面の2列目の席。
「お願いしまーす」
 起立した生徒がみな一様に頭を下げる中、穂澄の浅い礼がいつもより目立って見えたのは、俺の気持ちが大きく影響していたのかもしれない。


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