「……うー……足が痛い……」
翌朝、そんな声が聞こえて目が覚めると、隣にはもう穂澄の姿はなかった。
まだ薄暗いが、枕もとの時計を取るといつもと同じ時間。
……もう起きているのか。
相変わらず、穂澄は平日だろうと休日だろうと、決まったリズムで1日を過ごすらしい。
「…………うー……」
「……どうした? ……どこか痛むのか?」
「ッきゃあ!?」
眼鏡をかけてから寝室を出ると、キッチンのシンク前でしゃがみこんでいる姿が見えた。
咄嗟に何かあったのかと思って声をかけたのだが、ものすごい反応をして飛び上がっ――……たように見えたのは気のせいじゃないだろう。
「き……急に声かけないでよっ! びっくりするでしょ!」
「ああ……すまない」
「……まったくもー」
唇を尖らせながら菜ばしを振り、くるりと背中を向ける。
だが昨夜とはまるで違い、顔が赤くなっているのは容易に確認できた。
「どこか痛むのか?」
「…………あちこち痛い」
「なっ……どこが」
「………………」
「……? なんだ?」
「朝っぱらから見せれないような場所が痛いの!」
「ッ……それは……」
じと目を向けられ、ごくりと喉を鳴らす。
だが、穂澄は小さくため息をつくと、火を止めて菜ばしを置いてから、身体ごと俺に向き直った。
「っ……」
「……もぉ。責任取ってよね」
「どうすればいい?」
「んー…………じゃあ、痛いの痛いのとんでけーってしてくれる?」
「ッ……それは……どうなんだ」
「えー、だめなの? しょうがないなぁ」
くすくす笑いながら唇に当てた指を外し、かしげた首を戻す。
だが、昨夜とも違う声色は、やはりいつまで経っても慣れないらしく、軽い動悸がする。
「……っ」
「おはよ」
「……おはよう」
ぐい、と肩を掴まれたかと思いきや、ふいに口づけられた。
すぐ目の前で囁かれ、再度唇が触れる。
「んっ……ん……ぅ」
離れた瞬間嬉しそうに笑ったのが見え、思わず引き寄せていた。
両手で頬を包んだまま角度を変えて口づけ、舌で撫でる。
すると、最初は俺を突っぱねるように両手を当てていたが、いつしか引き寄せるように掴んでいた。
「……はぁ」
上気した頬が目に入り、思わず頬が緩む。
……こういう顔はいいものだな。
俺でいっぱいになっている顔、か。
「身体が痛むなら、休んでいていいぞ?」
「んーん、平気。……ちょっとね、なんかこう……痛いっていうか……摩れるっていうか。あ、あと足も痛いんだよね」
「足?」
「うん。足っていうか、太もも? んー……もぉ、あんな格好させるからだよ?」
「っ……それは……」
ちらり、と意味ありげな視線を向けられ、喉を鳴らすと同時に視線を逸らす。
すると、穂澄はくすくす笑いながら、俺にまた手を伸ばした。
「……里逸」
「っ……なんだ」
「ねぇ。もう1回、言って?」
「…………」
「…………」
「……今……ここで、か?」
「うん。場所と時間は問わないけど」
意味ありげに息を含んだ声で囁かれ、思わず口を一文字に結ぶ。
だが、穂澄は本気なのか冗談なのかわからないような顔で、にんまりと笑った。
「…………愛してる」
「……ん。私も……里逸のこと……愛してるよ?」
「っ……」
「……ほらあ。続きは?」
「続き……?」
「そ。……私は、ずっとずーっと……里逸のこと、大事にするからね」
「…………」
「……えへへ」
ふたりしかいない場所なのに、小さな声でやり取りをしているせいか、なぜかやたらと秘密めいて聞こえる。
薄暗いところで囁くのも悪くないが、こうしてしっかりと表情が見えるところで言うほうが、もっといい。
「……ん」
赤い顔ながらも満足げに笑ったのを見てから口づけると、唇が離れてすぐにどちらともなくくすくすと笑っていた。
「……穂澄だけだ」
「ん。私もだよ」
「…………ずっと、大切にする」
囁くように口にし、再度口づける。
すると、ゆっくりまぶたを開けた穂澄が、目の前ではにかんだように笑った。
「……ねぇ」
「ん?」
「こういうときのBGMって、ショパンの『ロマンス』とかよくない?」
「…………だから、それは……」
「もちろん、肯定の意味だってば」
くすくすと息を含んだように笑い、『ね』と首をかしげる。
そのさまがいつもよりずっと淑やかに見え、少しとはいえ自身の想いが変わりでもしたのかと思うと、くすぐったいような妙な気分だ。
「……なんか……へんなの」
「何がだ?」
「私も、里逸に染まってきたね」
「っ……」
いつだったか、穂澄が言った言葉。
『私色に染めたい』
その言葉はまさにその通りになり、今の俺は彼女にかなり影響を受けている。
なのに――……俺と同じように、彼女もまた影響を受けてくれていたんだな。
まさか、これほど嬉しい気分を味わえるとは、思いもしなかった。
……互いに同じことを考え、感じるようになるとは。
これまでずっと敬遠していた“恋愛によるもの”を改めて感じた気もして、なんともいえない満足感にも似た感情が身体に広がっていくようだった。
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