「っ……穂澄……!」
「ん?」
週明けの月曜日。
俺より先に起きて朝食の支度をしていた彼女に『おはよう』を言う前に、まず名前を呼んでいた。
それどころか、フラッシュバックする。
……おかしいだろう。
先日あれだけ言った気がするのに、また同じ髪型をしているなんて。
「なーに?」
「……何じゃない。なんだその髪型は」
「えー?」
くすくす笑いながら指先で髪をくるくる巻きながら近づいてきた穂澄が、またいつもと同じように俺に手を伸ばして触れてから、身体を寄せた。
だが、今日は先日とはまるで違う。
なぜなら、今彼女が着ているのはうちの学校の制服だからだ。
「だって、里逸もこの髪型好きなんでしょ?」
にやり。
音を立てて目の前で笑われ、目を見張ると同時に、どうしてもあの夜を思い出して顔が赤くなった。
当然目ざとく見つけた穂澄は、人さし指で頬をつつく。
……なんてことだ。
今日もまた、朝からこんな目に遭うなんて。
「……だからその顔はよせ」
「えー。だって、たのしーんだもん」
くすくす笑ったかと思いきや、瞳を細めていたずらっぽく笑う。
本当に、表情をよく変える子だ。
見ていて飽きはしないが、ときどき……まぁいい。
『ごはんにしよっか』なんてまた違う顔で笑われ、面食らいながらもうなずいて渡されたトレイをリビングへ運ぶ。
……その前に着替えだな。
トレイごとテーブルに置いてから寝室へ戻り、ワイシャツとスラックスを取り出す。
それから再度リビングへ戻ると、きちんと正座していた穂澄が珍しくテレビをつけていた。
「んー……」
「どうした?」
「んー、ほら。もうじき2学期末考査だなーと思って」
「そうだな」
「でもって、それが終わると共通テストのプレがあるじゃん?」
「ああ」
「……はー。志望校どこで出そうかな」
流れていたのは、『大学共通テスト直前! 受験生応援グッズ』なるもの。
便乗商品はいつでもあるものだが、この時期にやるのは逆効果だろうに。
果たして、受験生がそんなのん気なものに乗っかるとでも思っているのか。
……いや、正確には“受験生の周りの人間”がターゲットなのだろうが。
「学園大にそのまま上がるんじゃないのか?」
「んー……まぁ、そのつもりだったんだけどね」
いただきますをしてから茶碗と箸を取り、早速焼き鮭をほぐす。
『一緒に住む』ことを前提にすごし始めたことにより、若干食事の質が変わった。
というのは、一緒に住む条件として家賃を俺が払うことを告げたら、穂澄が食費を出すと言い始めたからだ。
ほぼ毎日どころか、衣食住をともにするのはこの部屋のみ。
そのため、穂澄がこれまで支払っていた光熱費などがまったくかからなくなったこともあり、彼女はそれらの金額も折半して払うと言い出した。
とはいえ、折半してもらうほどの額でもなければ、いちいち面倒な部分もあったため即座に断ったのだが、穂澄は納得できない様子で『じゃあ食費は全部私が出す』と言い張った。
まぁ、食費はこれまでもカード払いではなく実費のほうがメインだったために、それならば……と了承した結果が、これだ。
極端に豪華になったわけではないが、ひとり暮らしの曖昧で簡単なメニューではなくなった点が、やはり大きいだろう。
バイトはこれまでと同じように入っているが、さすがに冬場にもなると18時を過ぎれば真っ暗になり、スタンドからここまでの道のりもさほどにぎやかなわけじゃないため、迎えだけは俺が行くことも約束した。
賃貸業者には彼女が母と相談した上で連絡してあるらしく、退去まであと2週間弱。
なんでも、年末年始にかかってしまう前にクリーニング業者を入れたいらしく、急なスケジュールながらも賃貸業者側から提案してくれたらしい。
ちなみに、敷金はクリーニング代の1万五千円を引いた残りが戻ってくるという。
『ちょっとしたボーナスみたいじゃない?』なんて嬉しそうに笑っていたが、今どき良心的な業者もあるものなんだなと感心した。
「なんかさー、ちょっと迷ってて」
「……ん?」
箸を置いて鞄を手繰り寄せると、中から1枚の紙を取り出した。
といっても、普通の紙じゃない。
これは――……志望校の合格判定通知。
俺は担任を受け持っていないのでほとんど見覚えはないが、ふと昔を振り返ってみると懐かしさはあった。
「っ……これは」
だが、中を開いて驚いた。
そこに明記されていた大学と学部名は、これまで穂澄が口にしていた職業とは真逆のものだったからだ。
「穂澄。お前……幼稚園教諭になりたいんじゃなかったのか?」
「……それはそうなんだけど……正直迷ってるんだよね」
「そうなのか?」
「うん。だって、先生たちはみんな東京だの京都だの行けっていうしさ、学部も法学部だの医学部だの、やたらと偏差値高いところばかり勧めてくるけど、でもそこって私がどうしても行きたい大学じゃないわけでしょ?」
「まぁ、そうだろうな」
「ていうことは結局、学校側が箔を付けるために欲しいだけじゃない。実績として、さ。ほら、塾がなんとか高校に何名合格っていうのを張り出すのと一緒で。だから……なんかね。結局はビジネスなんだなーって思うと、どうしよっかなーって感じ」
小さくため息をつくと、穂澄はその用紙を丸めて小さく畳んだ。
いくつも折りすじが付いており、ほうっておいたらこのまま折り紙がわりに使いそうだ。
「ただ、志望校決めてない今なら、なんにでもなれるんだなーって思うと、すごい不思議なんだよね。別に私……どうしてもなりたいってものはないから。……しいていうなら、幼稚園の先生にはなりたいけど。子どもかわいいし。ああいう子たちって、毎日きらきらしてるじゃない? だから、私もあやかりたいなー、って」
これまでのまったく色のない話をしていたときと違い、『きらきらしてる』と言った穂澄の顔もまたいい表情をしていた。
心底楽しそうで、嬉しそうで。
本当に好きなものの話をしているときに見せるような顔で、見ているこちらまで頬が緩む。
「それでいいじゃないか」
「……え?」
「答えは出てるだろう? なりたいものになればいい。お前の人生なんだから」
「え……いいの?」
「何がだ?」
「だって……幼稚園の先生になっても、いいの?」
「……? どういう意味だ?」
目を見張った穂澄が何を言わんとしているのかがまるでわからずに訝ると、1度唇を結んでからおずおずと想いを吐いた。
「だって……里逸、すごくいい大学出てるじゃん。それにほら、えっと……なんだっけ。お見合いしたあの人だって、いい大学出ていい会社入ってたでしょ? だから……私も、そういう大学に行ってほしいって思ってるんだろうなーって考えてたから。なんか、意外っていうか」
ぽつりぽつりと言葉を区切って言われ、ああなるほどとも思った。
穂澄が気にしているのは、そんなことか。
……何もわかってないのは俺のほうだったんだな。
そもそも、穂澄が俺に遠慮しているなど考える余地もなかっただけに、かなり意外なものを見た気分だ。
「……前まではそう思ってたが、な。それで失敗してきたんだ。穂澄のやり方、考え方が正しいということだろう?」
「でも……」
「俺を変えたのは穂澄なんだぞ」
「っ……」
「もっと自信を持て」
普段はそうでもないくせに、穂澄は自分を認められるととても不安そうな顔を見せる。
それでいいのか、正しいのか。
間違ってないのか、許されるのか。
まるでそう聞いているような顔で、だからこそ目を逸らさずにひとつひとつ伝えてやる。
『思ってるだけじゃ伝わらない』
以前穂澄に言われたときも、ああそうか、と素直に思った。
「…………ありがと」
それはそれは嬉しそうに笑った穂澄が、小さくうなずいた。
礼を言われるまでもないが、まぁ……そうしたいならそうしてくれて構わない。
それとなしに手が伸び、ふわりと彼女の頭に降りた。
恐らく、それも穂澄にしてみれば意外だったんだろう。
目を丸くしてから『もー』なんて唇を尖らせたが、顔は嬉しそうに笑っていた。
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