「里逸さん。あなたは騙されてるわ」
「……何を言い出すのかと思えば」
 絶対に相容れるはずのない奇妙な3人での食卓。
 こじんまりとしたこたつの上には、ご飯と味噌汁、しらすと大根おろしのセットに加えて、今日はむつの西京焼きが乗っていた。
「あなたは、この子がいかに恐ろしい子なのか知らないでしょう!」
「あ。それ、ちょっと前の里逸さんにも似たようなこと言われました」
「っ……!」
 びし、と真向かいに座る里逸の母に指をさされるも、穂澄はにっこり微笑むと嬉しそうに首をかしげた。
 ふふ。
 余裕めいた笑みを浮かべた穂澄を、母はさらに訝る。
「……俺は直接言ってないだろう」
「えー、そうだっけ。なんか、それに近いこと言わなかった?」
「…………まぁ……言ったような気がしないでもないが」
「でしょ?」
 母にとって、このような里逸の姿を見るのは初めて。
 それもあるが、やはりワイシャツとスラックス姿の彼の隣へ当たり前のように制服姿の彼女がいることは納得できず、また、当然面白くもない。
 何より、この軽口。
 女子高生ということは、彼よりもひと回り以上年下の相手である。
 にもかかわらず、丁寧語ではなくまるで友達と喋っているかのような口ぶりも、面白くなかった。
「あなたね、もう少し相手を敬うことはできないの!?」
「敬ってるつもりですけれど……まだ足りませんか?」
「まず、あなたはきちんと喋ることをなさい!」
「……んー。だそうですけれど、いかがですか? 里逸さん」
「…………今さらそう言われてもな。まるで慣れない」
「だ、そうですよ? お母さま」
「っ……私はあなたの母じゃありません!」
 ダン、と彼女が湯飲みを置いたのを見て、穂澄はこそこそと里逸へ耳打ちした。
 だが、かなり近い距離での食事である。
 『今のセリフ、ドラマ以外で初めて聞いた』と言った穂澄の言葉は、すべて筒抜けてもいた。
「だいたい、あなたは――」
「穂澄は食べないのか?」
「ん? うん。いいよ食べて」
「……朝食はきちんと摂れ」
「それはわかってるけど。でも、ほら。代わりに卵食べてるし」
「しかしだな……」
「っ……人の話を聞きなさい!」
 言いかけた母の言葉を遮った里逸は、彼女ではなく自分の皿へ視線を落としていた。
 自分と母の前にのみ置かれている、西京焼き。
 代わりに、穂澄の前には目玉焼きがひとつだけ。
 だからこそ、いかにも一歩引いた感じがあり、里逸はそれが気になった。
 自分よりも母よりも、食事を用意した穂澄が1番であるのが正しい。
 ましてや食費を捻出しているのは、彼女。
 だからこそ、このような気遣いをするあたりを、感心するとともに『なぜ』とも思う。
「っ……いいよ、食べて」
「そういうわけにはいかないだろう。半分食べればいい」
「……もー。いいのに」
 半分に分けた魚を見て穂澄が慌てたが、里逸は当然のような顔をしたままそれ以上何も言わなかった。
 ただ、唇を尖らせながらも、穂澄はどこか嬉しそうで。
 ちらりと彼を見上げた視線が合い、『ありがと』と唇で囁いたのを見た里逸もまた小さく笑った――……様子を目の当たりにした母は、内心愕然としてもいた。
 このような顔を見たのは、これが初めて。
 だからこそ――……嫉妬にも似た想いもある。
 と同時に、どうすることもできないと理解してしまい、唖然とする。
 ……この子をここまで変えた人間が、まさかこんな女子高生だとは。
 まじまじと見すぎていたのか、穂澄と目が合った途端、どうしようもなく視線が泳いだ瞬間を見られたことも悔しかったからこそ、それ以上口を開くこともなかった。

「駅まで、送ってあげればいいのに」
「……何?」
 いつもと同じ7時半を少し過ぎたところで、3人は表に立っていた。
 ここから先、里逸と穂澄は別行動である。
 彼女はバスの定期を持っており、里逸は自家用車。
 ただひとり、足がないのは里逸の母のみ。
「……しかし」
 だからこその穂澄の言葉だったのだが、里逸は解せない様子を露わにした。
 その顔を見て、なおさら母は面白くない。
 なぜ、自分がこの子よりも大切に扱われないのか。
 そうされて当然のはずなのに、なぜこうもあからさまなのか。
 ……それだけじゃない。
 この様子だと、穂澄さえ言えば何事も『わかった』と承諾しそうだからこそ、やはり面白くないのだ。
「だってお母さん、ここまでタクシーで来たんだよ?」
「何? そうなのか?」
「うん。土地勘もないんだし、バスで……ってのも無理でしょ。まだ時間あるんだし、送ってあげて」
「……結構よ。そこまで面倒をみてもらう必要はないわ。特にあなたのような――」
「だ、そうだぞ」
「もー。だから、それは強がりなんだってば」
「っ……そんなことありません!」
 自分を差し置いて目の前で繰り広げられる会話の、なんと不愉快なことか。
 イライラといつもと違って乱れる感情を抑えるべくたびたび深呼吸を繰り返すが、穂澄が視界に入るだけで、一層苛立ちはつのるような気もした。
「……あ、そうそう。これ、お忘れですよ」
「え? ……っ!」
 両手で穂澄が差し出したのは、あの封筒だった。
 こたつに置きっぱなしになっていたことを忘れていたが、彼女が手ににっこりしているのを見て、たちまちあのときの光景がフラッシュバックしてか、半ば力任せに奪う。
 その様子を見て里逸は眉をひそめたが、穂澄が笑ったまま『もー。いーから』とたしなめたことで、それ以上何も言わなかった。
 ……当然、その様子も面白くはないのである。
 が、これ以上食い下がったところで、自分に分があがるわけでもないことがわかるため、やはりどうしようもなかった。

「………………」
 結局、ああだこうだと言いながらも里逸に駅まで送ってもらい、無事に帰りの新幹線に乗ることもできた。
 今朝方は、怒りに我を忘れぎみのところもあり、咄嗟に駅前のタクシーへ乗り込んでいたが、やはり慣れない車は疲れる。
 ふかふかと、タクシーよりはずっと座り心地のいいグリーン車の窓際の席からホームを眺めると、安堵からため息も漏れた。
 運転手に行き先を告げると『本当に大丈夫ですか?』と言われたが、当然構いはしなかった。
 それこそ、ひとり息子の一大事。
 正気の沙汰とは思えないことの羅列に、思い出すだけで眩暈もする。
 だが、実際にあのふたりを目の当たりにしてしまうと、どうしても気持ちはくじけそうになった。
 正しい、間違いのない、絶対的な育児をしてきたはずなのに、よもやこのような結末が待ち受けているとは。
 ……恐ろしい子だ。
 あの子が、里逸をたぶらかしたに違いない。
 口調こそ穏やかだが、内容はとんでもないものばかり。
 にこりと浮かべられた笑顔が悪魔の笑みにしか思えず、思い出すと同時に身震いしていた。
「…………」
 ごそごそとバッグから取り出した封筒の中身は、100万。
 穂澄はああも言ってのけたが、自分にとっては大した金額でない――……など言えない。
 “何かあったときのために”とタンス預金していたものだが、まさかこのようなことに使うとは考えもしなかった。
「……あら?」
 が、しかし。
 新幹線が無事に出発してから取り出して枚数を確認すると、数が合わない。
 最初は数え間違いかとも思ったが、どうやらそうでないことがわかり、背中を冷や汗が流れた。
 ……あの子。
 帰り際にこの束を渡してきた彼女は、にっこりと微笑んでいた。
 それこそ、何事もなかったかのように。
 まったく、あのときのことを何ひとつ感じさせないような顔で。
 なのに――……この仕打ち。
「く……っ」
 思わず唇をかみ締め、わなわなと怒りに震える両手で札束を握りしめる。
 何度やっても同じ結果。
 ……そう。

 多いのだ。

 きっちり3枚、札が増えている。
「……っな……!!」
 乱雑に札束を封筒へ戻し、バッグへ入れようとしたところで、封筒の裏面に何かが記されているのに気づいた。
 が、確認した途端目を見張る。
 そこにあるのは、丸っこい小さな字。
 いかにも自分とは違う字体も気に入らなかったが、何よりもその文句が腹立たしくてたまらない。

 『ご足労様です。往路の旅費、プラスしておきました』

 ただの字のはずなのに、なぜか穂澄の声できっちり再生され、ぞくりと背中が震えた。
「く……っ。恐ろしい子……!」
 悪魔よりも恐ろしい、何か。
 やはり間違いない。
 里逸は、あの笑顔に騙されているのだ。
 見た目は、どこにでもいるような今どきのただの女子高生。
 だが、中身はそれこそ地獄からでも飛び出てきたかのような、恐ろしいものが渦を巻いている。
「…………」
 だからこそ、改めて思った。
 里逸とあの子を一緒にしてはならない、と。
 あの恐ろしい子を高鷲家の嫁に迎えたら、我が家は末代まで呪われる、と。
 この瞬間、帰ってすぐ自分の取るべき行動が決まり、気づくとスマフォを握りしめていた。
 

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