「捨てゼリフだと思いませんか? どうせ……って。やってみなければわからないのに、最初から放棄する。それは賢い人間とは言えません」
「…………」
「たしかに、精一杯努力してがむしゃらに食らいついてもどうにもならなかったら、諦めるしかないのかもしれない。でも、そういう経験ってこれまでにしたことありますか? これまでの人生でどうにもならないことって、そんなにたくさんありましたか?」
 これまでずっと通帳に視線を落としていた穂澄は、目的のページでも見つけたのか、開いたまま里逸の母へと差し出した。
 だが、反射的に視線を向けた彼女は、目を見張っただけでなく驚いた様子で穂澄を見つめた。
「あなた、これ……!」
「そのお金は、すべて私が自由に使えるお金です」
「な……っ。どういう……!?」
「どうもこうも……それは、すべて私が自分で稼いだものですから、人にとやかく言われる筋合いはこれっぽっちもありません」
 残高137万4728円。
 “普通の”高校生が持っている額では決してない数字が並んだ通帳を見て、里逸の母は改めて喉を鳴らした。
「あなた……こんな大金、どうやったの……!?」
「ひとり暮らしするときの母の条件が『100万を貯めること』だったんです。それがどういう意味かはわかりませんけど、無理だろうから……っていう意味じゃなくて、私の本気度をはかるためだったんじゃないでしょうか」
 穂澄がひとり暮らしをしたい、と母に打ち明けたのは高校1年に入ってすぐだった。
 理由はいろいろあったが、正直に言えば、あの家を出たいという思いもあったからだ。
 笑顔で話すこともできるし、新しい父親とも姉たちとも仲良く暮らすこともできる。
 だが、頭のどこかでは“父”はひとりしかいないと思っているし、ここにいない“兄”のことも気にはなる。
 それでも、母の手前父や兄と会うのが“いけないこと”のような気もするため、もう少し自由が欲しかった。
 誰に何を言われるでもない、自分だけの時間。
 自分に嘘をつかなくていい場所。
 それが欲しかったから、穂澄はひとり暮らしすることを決意した。
「100万なんて大金貯めれるわけがないから、ひとり暮らしなんてやめる――……と言うのを期待していたのかもしれません。でも、それができたら許してくれるって約束してくれたから。だから、ひとり暮らしのために一生懸命がんばりました。……その結果が、これです。そのときから、お金の価値が大きく変わりました。私にとって、100万は“なんとかなる”お金です。決して大金じゃない」
「…………」
「そもそも、里逸さんが私とどうしても別れたいと仰るなら別れますけど、そうじゃないなら、ほかの誰にも決めることなんてできないと思います。結果、予想できませんか? 彼があなたを取るか、私を取るか。ご主人で考えればたやすいことでしょう」
「……なんですって……?」
「ご主人にもお母さまがいらっしゃいますよね? もし、付き合ってる段階でこんなことをされた揚げ句、母親から手切れ金を突きつけられたとしたら、どう思いますか? そしてそのとき、自分ではなくご主人が自分の母親を選んだら、あなたはどう思いますか?」
「それは――」
「基本的に、人を他人が変えることはできないんです。人は、自分でしか変われないんですよ」
「…………く」
 穂澄自身、はったりめいた部分も多く、曖昧な知識とて当然ある。
 それでも、虚勢を張れるか否かの差は強みとしてかなり大きい。
 里逸の母親は、少し前までの里逸とほぼ同じ。
 考え方も喋り方も、何もかもがダブって感じる。
 だからこそ、穂澄は内心おかしくてたまらなかった。
 ……里逸って、ほんっとにお母さんそっくりなんだ。
 そういえば、彼に兄弟はいるのだろうか。
 だとしたらあまりにも似すぎているのだろうな、と想像すると止まらなくなりそうでたまらなかった。
「それじゃ、お母さま。朝食ご一緒していただけますか?」
「で……ですから、私は……!」
「もう、時間も時間ですし。私も彼も、今日が始まったばかりですので」
 とは言いながらも、穂澄は内心このまま里逸の母親と1日をともにするのも面白いかもしれない、とは考えていた。
 立場や年齢から考えても本来は彼女のほうが上であるにもかかわらず、こうして相対してみると少し前の里逸と同じでツメが甘い。
 切り返しも鈍く、好敵手とはとてもじゃないが呼べそうにない。
 だからこそ、このまま一気に自分を印象付けてしまえれば、あとあと面倒なことにもならないのではないか、という思いもあった。
 ――……が、果たしてそれを里逸が許してくれるだろうか。
 今日もリーディングの授業はあるが、明日からの学期末考査のため、授業はほぼすべてが自習に切り替わるだろうが……それでも、学校を休むと告げたら里逸は『駄目だ』と言うかもしれない。
 ましてや、事情が事情。
 キッチンにいるときも声が聞こえてきたので、ふたりの関係がそこまでよくないのはわかってしまった。
 だからこそ――……恐らく、首を縦には振らないだろうな、と思うと穂澄はどうしても笑いが漏れる。
 だが、それを里逸の母は勘違いしたのかもしれない。
 キ、と音を立てるように穂澄を睨みつけ、背を正して咳払いをした。
「あなたに物事を決められる覚えはありません!」
「別に決めようとは思ってませんけれど……ただ、お腹空きませんか? 昨日から、ずーっとイライラされてるんでしょう? ……食べておかないと、私とは戦えませんよ?」
「っ……余計なお世話です!!」
 ピシャリと言い放たれた言葉で、穂澄はこらえていたものが切れた。
 ぷ、と小さく噴きだしてからくすくすと笑いがどうしても出てしまい、わなわなと両手を震わせる彼女を見ながら『なんでもないです』と手と首を振るのが精一杯。
 身体を“く”の字に曲げ、『ごはんの支度をー』などと言いながらリビングから脱出を図るも、後ろ手でドアを閉めたところで再度笑いが漏れた。
 ――……が。
「……あ」
 すぐ目の前に立っていた里逸を見るなり、笑いが急速に消える。
 ……怒られるかもしれない。
 内心たらりと冷や汗をかきながらも、何食わぬ顔で横を通り、コンロ前へ。
 だが、冷めてしまった味噌汁を温めるべく火にかけると、ふいに里逸の手が穂澄の頭を撫でた。
「……え」
「お前は本当に大したやつだな」
「え、と…………え? 私が?」
「ああ」
 てっきり怒られるのではないかと思っていただけに、穂澄は彼を見つめたまま何度もまばたいた。
 大したやつ、と認められるほどのことをした覚えがないからこそ、余計に不思議でたまらないのだ。
「母があんなに感情を露わにするところは、初めて見た気がする」
「うっそ、ホントに?」
「ああ」
 うなずきながら改めて『大したものだ』と口にされ、穂澄も少しばかりほっとしてはいた。
 恐らく、今までのやりとりも聞かれていただろう。
 だからこそ、『馬鹿にするな』と叱られるのではないかと思っていたので、少なからず自分の味方をしてくれている発言を聞けて、とても嬉しかった。
 だが次の瞬間、驚くはめになったのは里逸のほうだった。

「きっとね、お母さんは里逸が大切だから、こんなふうに突飛な行動したんだと思うよ」

「っ……何……?」
「大事なかわいい息子に、私みたいなどこのウマの骨かもわからないような人間がくっついて、やきもちやいてるっていうか……まぁ、そんな感じ? ましてや、“自分のもの”みたいに思ってたなら、なおさらじゃないかな」
 自分以外の女が仲良くしてるのが、気に入らないのよ。
 くすくす笑いながら相変わらずとんでもない発言をする穂澄だが、里逸とて少しばかり驚いていたのは事実だったためか、否定しながらもどこかでは『そうなのか』と思っている部分もある。
 ……やきもち、か。
 そんなかわいいものではなく、もっとどす黒い感情からだろうが、まぁ……そうなのかもしれないな。
 くすくす笑いながら『ごはん食べよ?』と味噌汁を椀によそったのを見ながら、里逸もうなずく。
 だが、きちんと3つの椀が並んでいたのを見て、改めて彼女という人間の器の大きさに舌を巻くばかりだった。


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