「っ……」
 リビングのドアが開いた気配で、里逸の母はそちらを注視した。
 だが、入ってきたのは穂澄。
 これが、正式には初めての対面である。
「…………」
「初めまして。宮崎穂澄です」
 母の対角線上に膝をついた穂澄は、背を丸めずに正座して頭を下げた。
 学園大附属の制服は、かわいいことでも割と有名だ。
 それでも、穂澄にとってはこれが正式な格好。
 スーツなど着たところで、かえって逆効果なだけ。
 そう思ったからこそ、彼女はいつも外しているブラウスのボタンをすべて留めもした。
「よろしかったら、一緒に朝食いかがですか?」
「結構よ」
「朝食、召しあがっていらしたんですか?」
「……食べるわけがないでしょう。ずっとタクシーだったんですから」
「え。タクシーで冬瀬までいらしたんですか? ……すごいですね」
「仕方ないでしょう? ほかに手段がない以上は」
 穂澄は母を見つめたままでいるが、彼女は違う。
 身体もわずかに違う方向へ向け、顔は明らかにそっぽを向いている。
 だが、だからこそ穂澄は内心緊張などまったくしていなかった。
 『勝った』
 自分を見て逃げた彼女を見て、直感的にそう思ったからだ。
「いつもよりはだいぶ早いんですけれど、これから朝食にしたいんです。さすがに何も召しあがらない方を前にしては食べにくいので、できれば一緒に食事をしていただきたいんですが」
「……いらないと言っているでしょう」
「困ります」
「っ……あなたね」
「私を嫌いでも憎んでもなんでも構いませんが、これ以上里逸さんを困らせないであげてください。……彼は、お母さまのことをとても大切に思っていますし、誰よりも好きなんです」
「な……っ」
 そこでようやく、母が穂澄に向き直った。
 だが、心底驚いたような顔を一瞬見せたものの、すぐに訝しげな表情へ変わる。
 いったい何を考えているのか。
 当然といえば当然の反応だが、穂澄は内心笑い出しそうでたまらなかった。
「口を挟みたがるのは愛情があるからですよね? 里逸さんが初めて『彼女』を口にした。だからあなたは心配でたまらないんじゃないですか?」
「っ……あなたには関係ないでしょう?」
「関係ないことはないですよね? 私が彼に選ばれたことは、事実なんですから」
「………………」
「佐々原さん、でしたっけ。あの人は彼に選ばれなかった。代わりに私が選ばれた。それだけです。そこには嘘も取引も偽装もない。ただ素直な彼の気持ちだけです」
 背を伸ばしたまま正座して穂澄が見つめていると、母は何かを言いかけた唇を閉じた。
 代わりに、横へ置いたままでいたハンドバッグを開く。
 ――……と。
 見慣れないマークの入った白い封筒を取り出し、穂澄の前へ無言で差し出す。
 明記されているのは、地方銀行名。
 開いたままの口からは、茶色い束が見えている。
「ここに100万円あります。高校生のあなたには、とてもじゃないけれど手に入らない額よね? これを丸ごと差しあげるから、今すぐ別れてちょうだい」
「…………」
「これだけあれば、なんでも好きなことができるのよ? 大金よね。なんでも自由になる。好きに遊べるわ。自由に使っていいのよ?」
 タン、と封筒に手を置いたまま穂澄を見つめた母は、彼女が封筒へ視線を移したのを見てわずかに笑った。
 だが、それも一瞬。
 まったく表情を変えない穂澄と目が合った瞬間、わずかにひるんだのは自分のほうだとあとで悟った。
「……ずいぶん安く見積もってらっしゃるんですね」
「それは当然でしょう? あなたはまだ高校生よ? 100万なんていう大金――」
「私じゃなくて。里逸さんです」
「…………なんですって?」
「ご存知ですか? 手切れ金というのは、“相手と同等の価値の金額”を差し出すんですよ? つまり、私の額ではなく里逸さんの対価ということです。確かに人はお金に換算することはできません。その人が持っている価値は、お金なんかに換えられるものじゃない。でも、手切れ金は『相手から手を引く代わりに差し出す額』ですよね。ならば、相手と同等でなければ意味がない」
「……あなた、何を……」
「てっきり、6億くらい用意してきてくださるのかと思いました」
 それまで表情を変えずに淡々と話していた穂澄が、にっこりと笑った。
 わずかに首をかしげ、『ですよね?』と相手に有無を言わせないときに見せる――……あの眼差しで。
「……まぁ、6億でもお断りしますけれど」
「っ……」
「彼は、そんな額で足りる人じゃない。ていうか、何億つまれようとお話になりませんよね。お母さまもそうお思いになりませんか?」
「……あなたね……」
「じゃあ、仮に私が『10億で息子さんを手放してほしい』と告げたら、うなずいてくださるんですか?」
「っ……そんなありもしない話を――」
「ありもしないなんて、どうして言いきれるんです?」
「そんなの……っ」
「この世の中、不可能なことなんてないんですよ」
 そう思い込んだら、そこで終わりなんです。
 揺るぎない眼差しで見据えられてか、母はそこで初めて奥歯を噛みしめた。
 だが、表情の変化を穂澄が見逃すはずはない。
 わずかに口元を緩め、すぐ隣にあったラックに手を伸ばす。
 取り出したのは、英語の辞書。
 里逸のものではなく、今現在も穂澄が使っているものだ。
「ご存知ですか? 世の中『どんなことをしてもどうにもならないこと』のほうが、少ないんですよ。どうせやっても無駄だというセリフは、実際に何も行動してない人間が吐く逃げのセリフです」
 母を見ずにぱらぱらと辞書をめくり、ほぼ真ん中に挟みこんでいたものを取り出す。
 だが、それが目に入ったのか、母は穂澄の手元へ視線を落としたまま訝った。
 それもそのはず。
 穂澄が手にしているのは、1冊の預金通帳だったからだ。


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