「だいたい、佐々原のお嬢さんをお断りするなんて……正気とは思えないわ」
久しぶりに聞いた名前だが、今はもう『ああそういえば』程度でしかない。
人は本当に変わりやすい生きものなんだな。
当時は、彼女こそが絶対で最高だと思っていたはずなのに。
「学歴もお家柄も容姿も申し分ないうえに、気立てもよくて……何よりとても女性らしいじゃないの。今どき、どこを探してもあんなステキなお嬢さんはいないわよ?」
「とうにお断りの連絡をした相手の名前を出されたところで、正直何も思わない」
「……本気で言っているの?」
「当然だ。俺は穂澄以外考えられないし、ほかの人間の名前を出されれば出されるほど不愉快でしかない」
表情が変わらないのは、どちらも同じ。
口調も依然として変わらず、平行線を辿ったまま。
……昔からそうだな。
母はいつでも、こうして淡々と物事を口にする。
ソウはよく母親と口喧嘩ばかりで嫌気がさすなどと言っていたが、俺はそんな経験一度もなかった。
いつでもこうして淡々と物事を冷静にやり取りするだけで、それ以上でも以下でもない。
……そういえば、彼女が感情を露わにするところを見たことがあっただろうか。
父に対しても姉や妹に対しても、こうして淡々と話すだけ。
泣くことも、怒ることも、笑うことも。
どんな感情もそういえば見たことがなかったのではないかと、今になって気づく。
「じゃあ聞くけれど、その子はどういうお家柄なのかしら」
「……家柄?」
「ええ。ご両親は何をしているの? 兄弟は? それと、参考までに今現在の学力も聞こうかしら」
そこで初めて、眉が動く。
何を言うのかと思えば、また“家”か。
本人を直接見るわけではなく、まずはデータとステータス。
内容でもなんでもないただの“背景”で判断する。
それこそが間違いだと思うのだが、彼女はそれを正解だと思っているからこそ、何を言ったところで変えられるわけではない。
「そんなものを知ってどうするつもりだ」
「だから、参考だと言っているでしょう? あくまでも比較のために聞いているだけよ。別に知りたいわけじゃないわ」
目を見たまま淡々と告げられ、言葉の代わりにため息が漏れる。
何を言っても無駄か。
ならば、余計な情報を与える必要はない。
そのかわり、事実だけは伝えておこうかという気にはなった。
「先日彼女の母と会い、すでに了承は得た」
「っ……どういうこと」
「俺との関係もすべて把握してもらえたし、今後についてもきちんと了解はしてもらえている」
「順番が逆でしょう? 普通は、男側の親へあいさつにくるものでしょうに」
「必要ないと思ったから、連絡しなかっただけだ。……正直に伝えた結果がこれじゃないのか?」
「当然でしょう? 一般的に考えてみなさい。私の行動は、親として当然のものです」
「果たしてそうだろうか。第三者の立場としてこの話を聞いたら、正直狂っているとしか思えない」
「っ……なんですって……」
「普通の感覚の人間がすることではない、と言っているんだ。常識的に考えて、こんな朝早くに……しかも平日だ。俺も彼女も当たり前の生活があるしスケジュールが決まっているというのに、よくもまぁ相手の迷惑も顧みずに動けるものだと、呆れてものも言えないが」
「口を慎みなさい……! 誰に向かってそんな口を利いているの!?」
そこで初めて、母は感情を露わにした。
今まで膝に置いていたらしき両手をテーブルに叩きつけ、わなわなと怒りのこもった眼差しで俺を睨みつける。
久しぶり……いや、初めてなんだろう。きっと。
これほどまで切羽詰らないと、こんなふうに感情をぶつけられることがないとはな。
だが、俺はもう子どもじゃない。
彼女の機嫌ひとつで右往左往するような年でもないからこそ、『返事をなさい!』と言われても依然として腕を組んだ姿勢は崩れなかった。
「悪いが、付き合っているほど時間に余裕があるわけでもないし、これ以上とやかく言ったところで何が変わるでもない。俺は俺の仕事があるし、守らなければならないものがある。7時半には一緒に出てもらう」
「っ……」
彼女の後ろにあるDVDデッキに表示されている時計は、すでに6時を示そうとしていた。
いよいよ明日からは学期末考査が始まる。
穂澄にとっては、成績に関わる重要なテスト。
今、こんな面倒でどうしようもないことに関わらせるつもりはないし、あってはならないことだ。
勝手に押しかけてきたのだから、こちらの都合で追い出しても何も問題はないだろう。
そこには、『親だから』とか『子だから』などという理屈は関係ない。
人として当然の判断だ。
「…………」
視線を外して拳を握り締めている母を見てから立ち上がり、着替えるべく寝室へ向かう。
が、リビングを出るとすぐにうまそうな匂いがして、菜ばしを持ったままの穂澄と目が合った。
「…………いいの?」
「ああ。構わない」
まったく問題はないんだ。
いつもと同じ顔で訊ねられたので、同じようにうなずいてから寝室へ向かう。
彼女はすでに制服へ着替えており、いつもとほとんど変わらない様相だったが、それ以上は特に何かを言うこともなかった。
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