優菜(ゆうな)、行くぞ」
「あ、ちょっ……待って!」
 父に呼ばれるまま、慌てて大きなバッグを抱えてあとを追う。
 途中で廊下に敷かれている絨毯に足を取られそうになりながらも、なんとか追いつくことができた。
「今日は、場所がちょっと違うからな……。ヘマするなよ?」
「……もー。わかってます。ていうか、私はそんなにドジな助手じゃないでしょ?」
「……そうしておくか」
「お父さんっ!」
 眉を寄せて彼に呟くと、くすくす笑いながら大きなドアを開けて中に入る。
 首から提げた、関係者であることを示すパス。
 それを警備員の人に見せてから、再び長い廊下を歩いていく。
 父の職業は、私が生まれてからもずっとカメラマンだった。
 母の話だと、付き合っていたころからそうだったと言っていたから、キャリアとしては結構長いと思う。
 そんな父の娘である私は、去年短大を卒業して以来ずっと父のそばについて助手を名乗って仕事をしていた。
 ……とはいえ、まだまだプロのカメラマンなんかじゃないし、趣味がこうじて……って感じだから、父に言わせればまだまだ『ひよっこ』。
 もう21になるっていうのに、まだまだ子ども扱いしてくれちゃってるし。
「……静かにな」
「わかってるもん」
 フィルムを取り出そうとバッグを探っていると、父が足を止めずにこちらを振り向く。
 ……静かにやってるつもりなんだけど、うるさかったらしい。
 仕方なく手を止めてバッグを背負い直し、少し距離が開いてしまった父の隣へ並ぶ。
「でも、珍しいよね。お父さんが音楽関係の写真撮るなんて……」
「まぁな」
 普段、父はどちらかというと風景やその風景にある人々をカメラに収める。
 なのに、今回の仕事に限って……珍しく交響楽団の取材。
 ……いつもなら、絶対にやらない。
 だって、父はこういうクラシックとか苦手な人だから。
 事前に『勉強』といいながら見ていたNHKの放送も、しっかりテレビをつけたままで寝ていたし。
 しかもしかも、眠気防止とばかりに大量の飴やらガムやらも持参済み。
 どうして、そんなにしてまで今回の仕事を請けたんだろう。
 理由が思い当たらず、どうしても首をかしげてしまう。
 どう考えたって、父とクラシックなんてイコールで結ばれないし。
 どっちかっていうと『山男』って感じがするし。
 だからこそ、こういうスーツに蝶ネクタイって感じの人々が多い場所に父が入り込むのは、やっぱり……謎。
 ……だけど。
 今回の仕事の話を母にしたとき、珍しく何も言っていなかった。
 普段の彼女なら、絶対に『お父さんには無理ね』と笑うのに。
 ……なんだろ。
 私だけが知らないところで何かがあるような気がして、ちょっと引っかかった。
 ……まぁいいか。
 仕事なんて、そんなもんよね。
 小さく肩をすくめてから父に顔を向ける。
 ……ふむ。
 なんか、楽しそうだなぁ。
 なんてことを考えていたとき、ふいに父が手を上げた。
「久しぶりだなぁ」
 声を前方に向けてから、少しだけ大きな声であいさつをする。
 まるで、昔馴染みにでも会ったように。
 不思議に思ってそちらに顔を向けようとしたとき。
 それよりも早く、声が返ってきた。
「お久しぶりです」
「っ……」
 ………ウソだ。
 瞳が、丸くなる。
 自然に足が止まり、今、目の前で何が起こっているのかわからなかった。
 ……何……?
 その人……って……
 父と笑顔で握手を交わす、タキシードを身にまとっている人物。
 声も、その笑顔も、髪の毛も……全部。
 昔と、何も変わっていない。
 だから……だから、足がすくんだ。
 ……まさか……嘘。ここにいるわけがない。
 だって、彼は……9年前にパリに行ったんだから。
 私と、私の気持ちを無残に残してくれたままで。
「佐伯さん、相変わらずお若いままですね」
「ははは。いつからそんなに口がうまくなったんだ? えぇ?」
「大人になった証拠ですよ」
 瞳を細めて父とにこやかに会話をする姿が、ひどく嘘臭かった。
 私が知っている彼と、違う。
 ……昔、私がずっと好きだった彼と。
 こんなに笑顔が似合う人じゃなかった。
 こんなに器用な人じゃなった。
 もっと不器用で、周りに振り回されなくて、すごく……すごく鋭かった。
 ちょっと触ればすぐに切れてしまいそうで、少し怖くて。
 不器用だから、周りにどうやって接すればいいのか悩んでいて。
 だけど……優しいところがあった。
 万人に受け入られるような優しさじゃなくて、特定の何人かに見せる……本当の優しさ。
 …………違う。
 こんな人……知らない。
芹沢 綜(せりざわ そう)か……。随分立派なポスターだねぇ」
「はは。まぁ、一応主役ですから」
「大人になったんだな、本当に」
「ええ。もう、昔とは違いますよ」
 父が壁に貼られたポスターを見ながらうなずき、私に気付いて振り返った。
 ……嫌だ。
 行きたくない。
 自然に視線が落ち、足元しか見れなくなる。
 遠くでふたりが何か話しているのが聞こえて、今のうちに逃げてしまおうかという考えも浮かぶ。
 だけど、それより先に視線に黒いモノが入ってきた。
 そして……ずっと上から聞こえる……声も。
「大きくなったな」
 声がかかった途端、身体が震えた。
 ぎゅっと結んだ手が、無意識の内に緩く振動し始めた。
 ……怖かった。
 嫌だった。
 もう二度と会うことがないと思っていたことがこんな急に現実になって、反応がうまくできない。
 すると、顎をいきなりつかまれた。
「っ……!」
「……人と話すときは、目を見るもんだろう?」
「ヤダ……離してっ……」
 首を振ってその手を振り払うと、綜がため息を漏らす。
 それが、今のこの瞬間が現実であることを示していて、すごくつらかった。
「久しぶりの再会だっていうのに、随分つれないじゃないか。お前のことだから、てっきり泣きついてくるもんだと思ってた」
「……私は……もう子どもじゃない」
「それもそうだな。もう……あれから何年だ?」
 ゆっくりと顔を上げるものの、眉は相変わらず寄ったままだ。
 綜の顔が、視野に入って来る。
 相変わらず、昔の面影を残したままだけど……瞳は見れなかった。
 動けなくなってしまいそうで、それが怖くて。
「……9年」
「…………もう、そんなに経つのか」
 ふぅん、と小さく声を漏らすと、そこで瞳を合わせてきた。
 ……ううん、合わせたっていうのはちょっと違う。
 ムリヤリされたんだから。
「……やめて」
「きれいになったな、お前」
「っ……!」
 綜にしてみれば、きっと何気ないひとことだったんだと思う。
 だけど、私にすれば……ものすごくキツいひとことだ。
「芹沢さん、そろそろスタンバイお願いします」
「わかりました」
 スタッフらしき人の声で綜が振り返ると同時に、手で彼の手を払う。
 すると、しばらくその手を見つめてからきゅっと握った。
「またな」
 そう言ったとき、彼がどんな顔をしていたのかはわからない。
 もう………顔なんて見れなかったから。
 徐々に遠ざかっていく、彼の匂いと足音。
 後ろ姿になったのはわかっていたけれど、やっぱり顔を上げることはできなかった。

 『きれいになったな』

 ……悔しかった。
 綜のその言葉が、どうしたってウワベから出たものにしか聞こえなかったからだ。
「優菜、行くぞ?」
「……うん」
 父の声でようやく顔を上げると、綜の姿はどこにもなかった。
 少しだけ残っている、彼の香水の匂い。
 昔と変わっていないそれで……思わず泣きそうになった。

 父がこの仕事を引き受けた理由が、よくわかった今。
 逆に私は、どうしても真剣にファインダーを覗くことができない。
 今回の被写体は、自分が二度と見ることがないだろうと思っていた人物だから。
 ……9年前。
 綜は、高校進学をやめて単身パリへと渡った。
 向こうに知り合いがいるわけなんかじゃない。
 だけど、彼はそれでも行くことを決めた。
「…………」
 私の記憶にあるころから、彼はずっとヴァイオリンを持っていた。
 きれいな姿勢で、まっすぐの瞳で、奏でられる音。
 綜の弾くヴァイオリンが、1番きれいだと思っていた。
 小さいころからいろんなコンクールに出て、沢山のトロフィーや賞状を貰っていた彼。
 普段から感情を表に出さない彼が見せる嬉しそうな顔は、こっちまで嬉しくなったものだ。
 優勝するたびに『優菜、すごいだろ?』って自慢げに見せてくれて、そのときの曲を弾いてくれた。
 ――……それは彼がパリへと渡る前日まで続いていた。
 ……なのに、だ。
 急にパリへ行くと言い出したあの日。
 私は、果ての見えない闇に突き落とされた。
 ずっと、ずっと好きだった。
 それなのに――……。
「……あ……」
 大きく響いた拍手で我に返り、慌てて周りに習う。
 照明が落ちた館内に浮かび上がる、光のステージ。
 様々な楽器を持った人々が緩くカーブをかくように座っているそこに、ひとりの男性が現れた。
 ……綜だ。
 深々とお辞儀をしてから、指揮者の横に並ぶ。
 綜がゆっくりとヴァイオリンを構えて、弓をあてがう。
 相変わらず、昔と何ひとつ変わっていない構え。
 ぴしっと伸びた背は、昔より身長が高くなっているせいか、より一層きれいだと思えた。
「ッ……!」
 館内の雰囲気が、一変する。
 鋭い音。
 久しぶりに、鳥肌が立った。
 ぞくりとする、響く音。
 ぎゅっと両腕を抱くようにしても、まだなお落ち着くことはできない。
 それどころか……もっと激しくなる。
 …………すごい。
 昔の彼もすごいと思っていた。
 だけど今、目の前で演奏している彼は……その比じゃない。
 あの小さな楽器で、どうしてこれほどの音が出るんだろうか。
 先ほどまではあれほど見れなかった彼から、今は……目が離せない。
 食い入るように見つめ、聞き逃さないように耳をそばだてる。
 ……そんな姿が、昔の自分と重なった。
 自分のためだけに演奏してくれている綜の前に座って、きらきらした瞳で彼を見ていたころの自分と。
 そうやって私だけのリサイタルをしてくれた綜は、必ず満足げに笑って感想を求めてきた。
 ……だから。
 そのたびに私は、彼に拍手をしながら大きくうなずいて『すごい』ばかりを連呼していた。
「優菜」
「……あっ……」
 父に突付かれて、ようやく我に返る。
 カメラを構え、ファインダー越しに彼を捕らえる。
 ……不思議なもので、震えが止まった。
 どうやら、私もやっぱり父の娘らしい。
 戦場にまで赴いて様々な真実を撮ってきた、彼。
 『カメラを通して見ると、自分は観客になる』
 そう言っていた彼の気持ちが、今は少しわかる気がした。
 ……きれい。
 光を浴びて演奏をする綜の姿に、惹き付けられた。
 この瞬間を、絵にしたい。
 この人を……撮りたい。
 彼に対する気持ちとは別に、そんな思いが湧きあがってくる。
 気を引き締めて何度もシャッターを切る私を父が笑って見ていたなんて……このときは知るよしもなかった。


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