「……私は、帰る」
「何を言ってるんだ、お前は。お前が行かないでどうするんだ?」
 撮影が終わったら、いつもまっすぐ家に帰るのに。
 父が綜の楽屋まで行くと言い出したのだ。
 ファインダー越しに見ているのとは違って、直。
 ……話すことなんてないし、できれば何事もなかったかのように家に帰りたい。
 だいたい、別に今さら綜と話したところで何も――……。
「はぅあ!?」
 渋々父のあとをついて行っていたら、早速ノックされた。
 ……うー。
 まだ心の準備ってものができてないんだけど……。
 私の気持ちなんてお構いなしって感じがして、なんだか切ない。
 重そうなドアには、きれいな字で『芹沢 綜様』と書かれていた。
 ……そんなに偉くなったんだ。
 それは確かに嬉しかったんだよ?
 だって、綜が一流のヴァイオリニストの仲間入りしたって証拠だから。
 だけど……。
 昔とは違って、もっと私の手の届かない所に行ってしまったんだなと思うと、寂しい気もする。
 ……って、だから。
 私は別に今はもう、綜のことなんて……。
 中から聞こえてきた綜の声で父がドアを開き、軽く頭を下げて中へと入る。
 すると、上着を脱いでシャツ姿の綜が振り返った。
「……あ……」
 きれいな人。
 綜のすぐそばに、淡いピンクのカクテルドレスを着た女の人が立っていた。
 ふわっとしたウェーブのかかった髪に、くりっとした丸い瞳。
 うっすらとしたお化粧が、雰囲気のいいご令嬢って感じを醸し出している。
「綜の知り合い?」
「ええ」
 ……綜って、呼ぶんだ。
 自分以外に彼のことを呼び捨てする人間にこれまで会わなかったせいか、ひどく変な感じがする。
「それじゃ、私は失礼するわね」
 にこやかに綜へ軽く触れてから、こちらに頭を下げた彼女。
 慌ててそんな彼女に習って、自分も頭を下げる。
 ……いかにも、女の人って感じだ。
 きれいなドレスに、かわいい表情。
 私とは、大違い。
 仕事しやすいように、ジーパンだし。
 化粧だって、そんなしっかりしてない。
 やっぱり、有名になるとああいうきれいな女の人と知り合えるんだなぁ……なんて、ちょっと感心してしまった。
「演奏、どうでした?」
「ん? ああ、綜の演奏はすごかったぞー」
「それって、ほかのキャストはよくなかったみたいじゃないですか」
「ははは。ほら、綜も知ってるだろ? 昔から、こういう堅っ苦しいのは苦手なんだよ」
「そんな佐伯さんが仕事とはいえ来てくれたことは、本当に嬉しいです」
 ミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置いて笑うと、綜が私を一瞥してから父に向き直った。
 ……何よ。
 また何か文句?
 自然に眉が寄る。
 すると、ひどくとんでもない提案をしてきた。
「佐伯さん。優菜のこと、しばらく借りてもいいですか?」
「は!?」
 父よりも先に、反応してしまう。
 だって、そうでしょ!?
 そんな、普通は……だって、父よりも本人に言うじゃない!
「ちょっ……待って! 私は、綜と話すことなんて――」
「お前は随分なことを言うなぁ。綜とはしばらく振りだろう? ふたりでメシでも食ってくればいいじゃないか」
「お父さん!!」
 さらっと肯定してしまった彼に食ってかかるも、彼はすでに綜へと身体ごと向き直ってしまった。
 ……な……な!!
 いくらお父さんでも、私はヤダよ!?
 背中を向けたままの彼に、とりあえず思いっきり首を振っておく。
 綜からも、ばっちり見えてるし。
 父でなくて、彼が自ら断ってくれるのであれば、好都合だもん。
「……しかし、綜。俺は構わないけど……いいのか? 優菜みたいのがパートナーで。さっきの子のほうが、ずっと綜に合ってると思うぞ?」
「優菜とは、俺も話したいことがあるんで」
「そうか」
「ちょ、ちょっ……! ふたりとも待ってよ! こういうときは、当の本人の意思を最優先に――」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
「わかりました」
「っ……ちょっとおーー!?」
 途中途中で抗議したにもかかわらず、ふたりは笑顔で取り決めてしまった。
 ……な……何よそれぇ。
 なんだか、時代劇で身売りに出される娘のような気分。
「それじゃ、写真は後日家のほうでいいのかな?」
「ええ。しばらくは居ますから」
「わかった。じゃあ、お疲れさん」
「お疲れさまです」
 娘のことなんて見向きもせずに、父は笑顔を綜だけに見せてドアへ向かった。
 ……何よ。
 私はどうでもいいの?
 パタン、と小さな音とともに閉じられたドアを見ていると、後ろでため息が聞こえた。
「……そんなに俺と居るのはイヤなのか? お前」
「っ……」
 急に、口調と空気が一変する。
 鋭い声に振り返ると、視線も冷たかった。
 ……だけど、少しそれは安心する。
 私にとっては今までのにこやかな綜のほうが違和感あったから。
 昔と変わってなかった……んだ。
 こんな冷たい彼を見てほっとするのは、私だけかもしれない。
 だけど、こういう彼がまだ残っていたのは、やっぱり嬉しくて。
「……別に……」
 『イヤじゃない』と言いかけた自分に、びっくりする。
「ヤダ」
 まっすぐ瞳を見て呟くと、呆れたように綜が小さくため息をつく。
「普通、ウソでも久しぶりに会った幼馴染にそんなことは言わないだろ」
「ほっといて。綜は、別だもん」
「別? じゃあお前、(しゅう)にもそういう口利くのか」
「宗ちゃんは、別なの! 綜と違って優しいし」
 唇を尖らせて言い切った途端、ぴくりと綜が眉を上げた。
 ……う。何よ。
 私別に、嘘言ってないし。
 それに、宗ちゃんのほうが優しいのだって確かだ。
「どこが違う? 確かに、アイツのほうがずっと人当たりはいいだろうよ。けど、俺だって――」
「ぜんっぜん違う! 同じ双子なのに、こんなに性格が違うのかって思うくらいだもん。綜は昔からそうじゃない。だけど、宗ちゃんは……私が綜に泣かされるたびに慰めてくれたもん」
「それは昔の話だろ? さっきまでの俺を見てないのか。人当たりのいい好青年になっただろうが」
「あれはっ……! あれは、ウソだもん」
「……ウソ?」
 ぽつりと呟くと、怪訝そうな顔が返ってきた。
 絶対そう。間違いないって、断言できる。
「だって、こうして私とは普通に話してるじゃない」
 さっきまでの、父やあの女の人が居たときの彼とは、まるで別人。
 被っていたネコが剥がれた感じだ。
 ――などと彼を睨んで考えていたら、急におかしそうに笑い出した。
 何よ。すごい腹が立つ。
「ちょっ……! そんなに、笑わなくてもいいじゃない!」
 キっと向き直って眉を寄せるものの、彼は一向に笑うのをやめようとしない。
 ヤな感じ!
「綜!!」
「お前、変わらないな」
 ひと通り笑い終えたところでこちらに向き直ると、冷笑を浮かべて口元だけを上げた。
 まっすぐに瞳を見てしまい、喉が鳴る。
 やっぱり弱いなぁ、私。
 そんなふうに見られたら、どうしたって好きだったころの気持ちが浮かぶ
「な……何よ」
 ゆっくりと彼が近づいて、反対に私は距離が縮まらないように後ずさる。
 けど、歩幅が違うせいかすぐ壁に行き当たってしまった。
 視線の高さを合わせるように綜が少しかがみ、壁に両手をついて……その間に挟まれる。
「っ……」
 息がかかる距離に戸惑ってそっぽを向いたのに、長い指が顎にかかり、簡単に正面へ戻された。
 そして、そのまま鼻先がつきそうになったとき……綜の長い指が頬を伝う。

「俺のこと、好きなんじゃなかったのか?」

「っ……」
 心臓が大きく跳ねた。
 面と向かってそんなことを言われ、思わず瞳も丸くなる。
 だって……それは、確かに……そうだった。
 だけど……!
「……何、言ってるのよ。私のこと、こっぴどくフッたくせに」
「あれは、9年前だろ? まだお前小学生だったじゃねぇか」
「関係ないでしょ! ……誰かを好きになる気持ちに、年齢なんて――」
「じゃあ、お前は何を求めた?」
「……え……?」
 すっと細くなった瞳に、言葉が詰まる。
 求める? 求めるって……何を。
「小学生のお前は、俺がお前を好きだって聞いたら……どういう恋愛を望んでた?」
「……それは……」
 別に、何も求めていない。
 付き合ってほしいとか、キスしたいとか、そういうんじゃなくて。
 好きだとひとことだけでも言ってくれれば、私はそれで満足だった。
 と答えようとしたのに、先に綜が笑う。
「俺は、あのとき15だったんだぞ? 女相手に手も出さずにいろって言うのか?」
「……な……」
「キスも抱くこともできない相手に、恋愛感情なんて湧くわけないだろ」
 嘲笑。
 ……ああ、昔と違う部分をひとつ見つけた。
 少なくとも、昔の綜はこんなふうに笑わなかった。
 器用な笑みを見せることはなかったけれど、それでも、優しい顔だった。
 ……やっぱり、違う。
 変わってないのは、私だけなのかもしれない。
 私だけ……9年も経つのに、子どものままなんだ。
「で?」
「っ……ちょ……!」
「今はイイ女になったな。今なら、考えてやっても――」
 首筋を指先で撫でられ、反射的に瞳をぎゅっとつむる。
 こんな……こんな綜は、知らない。
 不器用で、だけど優しかったあのころの綜しか知らない私には、知りたくもない彼の姿でしかなかった。

「彼氏いるからっ……!」

 搾り出すように出た、言葉。
 すると、綜の身体が離れるのがわかった。
 身体に力が入らず壁にもたれると、足から力が抜ける。
 崩れそうになるのを必死に押さえて彼を見ると、相変わらずの冷たい瞳で『ふぅん』とだけひとこと。
「……お前がきれいになったのは、その男のせいか」
 声が沈んでいたのは気のせいだと思う。
 単に、彼の場合は興味がなくなったと言うだけで。
 ……そう。
 たとえるなら、遊んでいたおもちゃに飽いたような……そんな子どもと同じ感情だったんだろう。
 …………そうよね、当然よ。それ以上の反応なんて、くるはずない。
 綜は、私をなんとも思ってないんだから。
 単に、からかってるだけなんだから。
「子どもだと思ってたお前も、やることはやってるんだな」
「なっ……!?」
「まぁいい。佐伯さんに約束したんだ。送ってやるから、ちょっと待ってろ」
 椅子を指差してから蝶ネクタイを取った綜は、奥の部屋へと姿を消した。
 その姿が見えなくなると同時に、崩れるようにして椅子に腰かける。
「…………はぁ」
 大きく漏れたため息と同時に、鼓動が大きく鳴った。
 ……彼氏なんて、いない。
 そりゃあ、確かにちょっと付き合った人はいたけれど、だけど……いざキスってなると、どうしてもできなかった。
 当時小学生だったけど、綜にフラれたのはわかってた。
 でも、綜の活躍をポスターやテレビ、ネットで見聞きするたびに、どうしたって思いを殺すことなんてできないまま9年が経ってしまった。
 ずっと、ずっと小さいころから見てきた人。
 ずっと……ずっと好きだった人。
 これまで好きでいたぶん、彼を嫌いになるためにはそれなりの出来事が必要。
 例えば、さっきの女の人が、綜の彼女だとかフィアンセだとかだったりしないと。
 ……でも、それでももしかすると忘れられないかもしれない。
 これまで十何年って好きだった分、忘れるにもきっとその年月が必要なんだろうなぁ……。
「はぁ……」
 背もたれに身体を預けながら、ぼーっと考えごとをしたままでいると、奥の部屋から綜が戻ってきた。
 シャツは着たままだったけど、さすがにタキシードじゃなかった。
 カジュアルスーツに着替えて、腕に掛けるようにタキシードを持っている。
「……皺になっちゃうよ?」
「お前が心配することじゃないだろ。どうせクリーニングにでも出すんだ。ンなこと、いちいち考えねぇよ」
 相変わらずの大雑把。
 ハンガーへ掛けるだけしたかと思うと、ヴァイオリンのケースと小さなバッグを持ってこちらに歩いてきた。
「行くぞ」
「あ、うん」
 立ち上がって並ぶと、綜の背が随分と高くなっていたことに気付いた。
 こうして隣に立つと一層よくわかる。
 ……まあでもそうか。宗ちゃんも身長高いもんね。
「お前、相変わらず背ぇ低いな」
「む。これでも、牛乳飲んでるの」
「飲んでても、身についてないんじゃ意味ないだろ。……胸に栄養が行ってるワケでもなさそうだし」
「ほっといて!」
 きっと綜を睨むも、完全スルーで腹たつ。
 この余裕綽々(しゃくしゃく)のところ、昔っから変わってない。
 ……はぁ。
 何も、せっかくほかに夢中になれたことができた今になって、会わなくてもいいのに。
 ちょっとだけ、運命ってヤツに翻弄されている気がして、切なかった。


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