「……こういう所、来る?」
「何がだ?」
 眉を寄せて呟くと同時に、目の前へ大きな丼が運ばれてきた。
「あ、いただきまーす」
「どうぞー」
 温かな湯気が昇るのと同時に、いい香りが鼻をついて思わずにやける。
 ここは、昔馴染みのラーメン屋さん。
 本当に小さいころから来てるから、親父さんとは顔見知りの仲。
 そのせいか、親父さんも久しぶりに綜だとわかると、すごく嬉しそうに笑った。
「しっかし、綜もデッカくなったよなぁー」
「もう24ですよ? いつまでも、こんなじゃない」
「それもそうだ」
 手のひらと床で小さめの身長を綜が表すと、豪快に親父さんが笑い飛ばす。
「あ、そーだ。せっかくだしサインでも書いてもらうかなぁ」
「サインといわず、1日バイトでもいいっすけど」
「あはは! そりゃいい!」
 にやっと笑った綜を見て、思わずこっちまで噴きそうになる。
「綜がラーメン屋でバイト? 絶対似合わないって。それに、そんな力ないじゃない」
「お前、俺をなんだと思ってる。非力なヴァイオリニストじゃないぞ」
「えー? そうかなぁ」
 昔から食べている塩ラーメンをすすると、不機嫌そうに綜がため息を漏らした。
「ほい、お待ちー」
「ども」
 彼は、昔から必ず味噌ラーメンしか食べなかった。
 それに、バターと生卵をトッピング。
 今もまったく同じものが運ばれてきて、相変わらず好みは変わってないみたい。
 ……っていうか。
「まさか、1流ヴァイオリニストがラーメン屋で夕飯なんて、誰も思いつかないわよね」
「いいだろ、別に。俺はここでメシが食いたかったんだ」
「誰も、悪いなんて言ってないじゃない」
「お前の口調がそうなんだよ」
「もー……」
 上着を脱いでラーメンを食べる姿は、やっぱりちょっと浮いてるように見えておかしかった。
 だって、さっきまであんなに大勢のお客さんの前で演奏して、まさに拍手喝采浴びてた主役なんだよ?
 でも、親父さんと昔の話をしながら楽しそうに笑うのは、彼らしくてなんだか懐かしかった。
 私が好きだった綜と、変わってないのかもしれない。
 ……なんて、ちょっぴり期待しちゃう。
「きれいな人だったね」
「は?」
「だから、あの人。ほら、私たちが綜のところに行ったときいたじゃない。こう、きれいな人が」
 雰囲気を身振り手振りで表すと、視線を宙に這わせてから瞳を閉じた。
「ああ」
「……彼女?」
「お前には関係ないだろ」
「そうだけど……っ、気になるじゃない。仲良さげだったし」
「別に」
 勇気を出して聞いたのに、綜の態度はひどく素っ気ないものだった。
 ……教えてくれてもいいのに。
 ふと顔を覗くと、別に照れているわけでも何かを隠しているようでもないのが、なんとなく不思議。
「なんだ」
「え?」
「見とれるのはわかるけどな」
「……うぬぼれすぎ」
 口元だけを上げた笑みで、思わず噴きだす。
 すると、綜も1度瞳を丸くしてから小さく笑った。
 ……なんか、さっきまでの綜とは別人みたい。
 本当に、昔に戻ったみたいだ。
 ちょっとだけ伸びてしまったラーメンを箸ですくい、口へ運ぶ。
 ……いつ以来だろ。
 こんなふうに、一緒にこの店でラーメン食べるのなんて。
 半熟の卵を突付きながらそんなことを考えていると、横から伸びてきた箸がーー瞬間的に卵を潰した。
「ぎゃー!? 綜っ!! 何するの!?」
「お前、相変わらず最後まで卵残しとくんだな。そういうの、貧乏くさいからやめろ」
「ひどいっ! 私が最後まで取っとくの、綜だって知ってるでしょ!? なのにっ……なのに……」
「卵は混ぜたほうがウマい」
「わぁ!? ちょ、やっ……!」
 崩しただけでは済まず、ぐりぐりと混ぜられた。
 うぁ。
 みるみる内に、黄身がスープに混ざってしまう。
「あーもぉー……せっかく潰さずに残しておいたのに!」
「好きなものは最初に食え」
「いいでしょ別に! 私がどうやってラーメン食べようと、綜には関係ないじゃない!」
「見てるこっちがイライラする」
「なっ……!? それこそ関係ないでしょうが!」
 くぅ。
 綜は、昔から最初に卵を潰してスープへ混ぜる派。
 私は、スープが少なくなったときに潰して麺と絡めて食べるのが好きなのに。
 ……卵がないラーメンは、ラーメンじゃない。
 悔しい。それこそもう、超絶な勢いで。
 …………あ。
「そういえば、綜っていっつもここに来るとそうやって意地悪したよね」
「意地悪? こんな程度、意地悪でもなんでもない」
「意地悪でしょ! そのたびに、宗ちゃんが卵くれたんだもん」
 ぷいっと顔をそむけて呟くと、大げさに彼がため息を漏らした。
 ……何よ。
 瞳だけそちらに向けるも、呆れたように頬杖をつく。
「さっきから、宗、宗って……お前、宗のことそんなに好きなのか?」
「うん。優しいから」
 即答しながら首を縦に振ると、再びため息をついてから正面に向き直った。
「……何よ」
「別に」
「気になるでしょっ」
「なんでもない」
 綜が何も言わないのは、かえって気になる。
 でも別に、本当のことだもん。
 いつだって、宗ちゃんは私に優しくしてくれて、それは今だって変わらない。
 綜にフラれたあのときだって、彼は私のことを慰めてくれた。
「ご馳走さまでした」
「おー。またおいで」
「はーい」
 立ち上がって丼をカウンターに置いてから、お財布を取り出す。
 ……と、綜が先にお札を2枚置いた。
「え。いいよ別に。私払うから」
「お前より稼いでるから安心しろ」
「……そういう問題じゃないでしょ」
「こういうときは、黙ってご馳走さまって言うのがかわいい女だぞ」
「むっ……どうせかわいくないもん」
 唇を尖らせて呟くと、綜が椅子を戻しながら鼻で笑った。
「不細工」
「ひど! ほっといて!」
 出口に向かった綜を追うと、ドアが開いた途端に冷たい風が吹き込んできた。
「っ……さむ……」
 思わずジャケットの襟を立てる……ほどなのに、綜は変わらずシャツのまま。
「風邪引くよ?」
「若いから平気だ」
「……私より年取ってるくせに」
「お前は俺より若いのに、随分年寄り臭いな」
「失礼ね!」
「じゃあ、その格好直せ」
「うるさいなぁもー」
 寒いものは寒いのよ。
 綜の車に向かう途中も、やっぱりその格好のまま。
 ……あ。
「でも、ここでいいよ?」
「何が?」
「ほら……ウチ、すぐそこだし」
「それを言ったら、俺の家だってすぐそこだ」
「……そりゃまぁ」
 そりゃそうだ。
 家は隣同士なんだから。
 助手席のドアを開けないままでいると、綜がさっきと同じように口元だけで笑った。

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