「安心しろ。彼氏に誤解されるようなことはしない」
「……っ……あ、当たり前でしょ」
思わず眉を寄せてからドアを開けると、最初に乗ったときと同じ、嗅いだことのない香りがした。
……それにしても、イイ車乗ってるわよね。
外車ってことはわかるけど、それ以外はよくわかんない。
でも、高そうってことだけはわかった。
えーと……なんだっけ。
あ、そうそう。エンブレム?
それは、見たことあったから。
「白って、綜のイメージじゃないよね」
「じゃあ、何色って言うんだ」
「黒」
「……黒?」
「うん。光を全部吸い込むような、黒。漆黒?」
「……お前、俺をそういう人間だと思ってるのか?」
「え? いや別に……ただ、そういう黒って感じだなーって思って」
だって、彼ほど黒が似合う男はいないと思う。
さっきのタキシードもそうだけど、なんていうか……やっぱ、締まりがあってカッコイイのよね。
それだけじゃなくて、まるでブラックホールみたいとでもいうか。
全部吸い込んでしまいそうな、そんなヘンな魅力がある。
……まぁ、綜に向かって『ブラックホールみたい』なんて言ったら、それこそ何言われるかわかんないから、もちろん言わないでおくけど。
「で?」
「え?」
「奢ってもらって、お前は何も言わない人間なのか?」
「あ」
そういえば、まだ言ってなかった。
「ご馳走さまでした」
「借りは返せよ」
「え!? 借り!?」
「当り前だろ。自分の女以外に奢る理由がない」
「は!? だから、私払うって言ったじゃない!」
「女に奢ってもらうほど、落ちぶれちゃいねぇよ」
「ちょっと! 矛盾してる!」
エンジンをかけた彼が、私のシートに手を当てて後ろを振り向いた。
バックするときって、こうする人多いよね。
これは結構好きなんだけど……なんか、綜にされると変な感じ。
きっと、車の運転をしていない彼しか知らなかったからなんだろうけど。
「……借りって何よ」
「お前、佐伯さんと一緒にくっついてくるんだろ?」
「そりゃまあ」
今回の綜のステージは、地元の楽団主催のもの。
一応、明日まで予定が組まれている。
「だったら、俺のマネージャーやれ」
「はぁ!?」
「借りを返すなら、仕事しろ」
「ちょ……ちょっと待ってよ! だって、綜にはちゃんと――」
「ンな人間が付いてるわけねぇだろ。自分のことは自分でやる」
「だったら、何も私がやらなくてもいいじゃない!」
「顎で使える人間がいたほうが、好都合だろ」
「あ……顎ぉ!?」
綜の発言には、本当にびっくりする。
……っていうか、だってさぁ。
こういう歯に衣着せぬ発言、ホールにいたときはひとことも言わなかったんだよ?
なのに何? この人。
目の前で、まったく動じずにいけしゃあしゃあとまくし立ててくる。
開いた口が塞がらないって、こういうことね。
シートに身体を預けると、自然にため息が漏れた。
「お前だって知ってるだろ? 外での俺は大変なんだよ」
「……じゃあ、ありのままの綜を見せればいいじゃない」
「ンなことしてみろ。一気に俺の評判がガタ落ちだろうが」
「そんなの知らないわよ。っていうか、綜のあの姿見てると笑っちゃうから、無理」
実際の彼は、今のように何も変わっていなかった。
それを知ってしまった今となっては、あんなにこやかに笑みを見せる彼は、面白いことこの上ない。
「バラすなよ」
「……どうかなー」
「ンなことしたら、彼氏にバラすぞ」
「何を?」
「昔のことをいろいろ」
……昔?
そんな、私別に何もした覚えないけど……まぁ、いいか。
「いいわよ、別に」
「……随分強気だな」
「どーぞ。綜にそんなことされたくらいじゃ、ウチの彼は動じたりしないから」
「へぇ」
……とか言いたいことを言ってみる。
だって、昔の話されて困るような相手なんて、そもそも最初からいないんだから。
綜に見えないように小さく舌を出すと、ちょっとだけ優位に立った気がして笑みが漏れた。
「まぁいいわよ? 時給くれるなら」
「……時給? バイト感覚か?」
「だって、そうじゃない。写真撮れない代わりに付き人やってあげるって言うんだから」
「いくらだ?」
「そうだなぁ……大まけにまけて、1500円でいいけど」
「お前なら、県内最低労働賃金で十分だろ」
「ひどっ……! じゃあ、やらない!」
綜を向いて眉を寄せると、彼がサイドブレーキを引いた。
彼越しに外を見ると、いつの間に着いていたのかウチの前。
「わかった。じゃあ、時給1500円出せばいいんだな?」
「え……いいわよ?」
「公演が無事に終わったら、払ってやる」
「踏み逃げしないでよね」
「ああ」
意外にもあっさりうなずいた彼に、面食らってしまう。
……ふむ。
そんなにあっさり言うのなら……。
「じゃあ、2000円」
ピースを作っていたずらっぽく笑うと、小さくため息をついてから瞳を閉じてシートにもたれた。
「いくらでも出してやる」
「……え」
「それくらい大事なんだろ? お前にとっての、写真ってのは」
「それは……そうだけど」
「明日の夜までに、値段決めとけ。それで払ってやるから」
思わず、瞳が丸くなるのがわかった。
……本気だ。
もしかしたら、とんでもなく法外な値段を提示しても、彼はうなずくだろう。
でも、なんで?
なんでそこまでして……ってまぁ確かに、ネコ被ったままじゃ疲れるからっていうのもあると思うけど。
「わかった」
こくん、とうなずいて彼を見ると、視線を合わせてから口を開いた。
「じゃあ、明日7時。部屋まで起こしに来い」
「私が!?」
「当り前だろ。付き人として、最低限の仕事だぞ。だいたい、本来は運転も付き人がするもんだ」
「う。だって……私、マニュアル運転できないもん」
「だと思った」
呆れたような口ぶりに腹は立つものの……言い返せないから仕方がない。
「『様』づけで呼ばせないだけ、ありがたいと思え」
「はぁ? そんな雇い主、こっちから願い下げよ」
「お前、口の利き方に気をつけろ。俺は雇用主だぞ?」
「う。……っていやちょっと待ってよ! そもそも、綜が勝手に付き人やれって言い出したんじゃない!」
「お前が俺に奢られたからだろ?」
「ちがっ……ああもぉ何よそれ!」
もーーなんなのよ、その横柄な態度は!
腹立つ!
「わかったわよ!! やればいいんでしょ、やれば!!」
「わかってるなら、それでいい」
大げさに肩をすくめた綜に背中を向けて車を降りると、窓を開けて彼が顔を見せた。
「寝坊するなよ」
「わかってるわよ! とっとと起きなさいよね!」
「お前こそ」
「っ……! おやすみ!!」
眉を寄せて勢いよく指をつきつけ、両手を腰に当てる。
すると、鼻で笑った綜が車を出した。
……って言っても、車庫なんてすぐそこなんだけど。
「…………」
…………はっ。
別に綜が家に入るまで見届けることないわよね。
門扉を開けて中に入ると、少し離れた所からドアの開閉音が聞こえた。
……付き人……それも、綜の。
ちょっとどころか、だいぶ気が重いんだけど。
でも、引き受けた以上は約束だもんね。
あれは冗談で、明日はなんでもない自由な身という結果は望めそうにない。
「…………」
どうしてあのとき断らなかったのかなんて、今さら考えなくたって十分わかってる。
……私、やっぱり綜が好きなんだよね。あれから9年経った今でも。
少しでもそばにいられるならと選んだ自分が、ちょっぴり卑怯なことをしているような気がして、良心は痛む。
嘘もついてるけれど、どうせあんな嘘は、すぐにバレるだろう。
だけど……バレるのは、せめて公演が終わるときまで待ってほしい。
ガラじゃないけど、こういうときだけ神様にちょこっとお願いしたいと思った。
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