「俺が好きなのは、もっと年上できれいな女だ」
まだ小学生だった私に、綜は切り捨てるように言い放った。
「……俺が好きなのは、優菜じゃない」
あのときの綜の顔を思い出すたび、つらくなる。
今まで妹みたいに大事にしてくれた彼に、私が言わせた言葉。
優しくしてくれた彼に選択を迫って、苦しめた。
綜にフられたのがつらかったっていうのもあるけれど、それよりも彼につらそうな顔をさせた自分が情けなかった。
夕方の公園で泣き続けていた私を、綜の双子の弟である宗ちゃんが迎えにきてくれて、泣きやむまで隣にいてくれた。
温かくて、優しくて。
宗ちゃんのことを好きになれたらよかったのに……なんて、自分に都合よく思ったものだった。
久しぶりに見た、夢。
いつまでも色褪せることなく、蘇る。
「!! ……っ……」
ばちっと音がなりそうなほど勢いよく目が覚めた。
心臓が潰れそうなくらい、早鐘のように打ち付けている。
……まただ。
この夢を見たときは、必ずと言っていいほど泣いていた。
それだけ、幼な心に強烈な衝撃だったからだろう。
上半身だけを起こして時計を見ると、6時45分。
今から支度して綜を起こしに行くには……まぁ、ちょうどいいか。
メイクや着替えにそれほど時間かけるわけでもないし。
「…………」
隙間から光が漏れていたカーテンを開けば、綜の部屋は目の前にある。
今までほとんど閉められることのなかったカーテンが、今日はきっちりと閉められていた。
あれこそ、彼がこの日本に――いや、すぐ隣にいる証拠。
「……起きるか」
寝癖のほとんど付かない髪に感謝しながら立ち上がり、とっとと着替えを済ませることにした。
見慣れた、門扉。
何度となく、ここを開けて玄関に向かったものだ。
……まぁ、大きくなってからは、おすそ分けとか回覧とかの用事でだけど。
インターホンを押すと、すぐにおっとりした女性の声が聞こえてきた。
「おはようございます。優菜です」
『あら、おはよう。今開けるわねー』
相変わらず、若い声だなぁ。
おばさん、今年いくつなんだろ。
確かウチの母とそんなに変わらなかったはずなんだけど……。
なんてことを考えていると、ガチャっと音がしてドアが開いた。
「おは――あれ、宗ちゃん」
「おっす」
顔を覗かせたのは、おばさまではなく彼だった。
綜と同じだけど、人懐っこい笑みを浮かべているのは間違えようがない、宗ちゃんの顔。
優しい顔にこっちも笑みが浮かぶ。
「おはよー。もう出かけるの?」
「まぁな。忙しいんだよ、俺」
「相変わらず、マメだねぇ」
「褒め言葉としてもらっとく」
昔から変わらない笑みは、本当に人懐っこさを感じるから不思議だ。
綜とは大違い。
「綜の付き人やるんだって?」
「う。まあ……成りゆき上ね」
「大変だぞー? アイツの付き人なんて。俺はまっぴら」
「宗ちゃんがそんなふうに言うとなると、私も自信ないんだけど……」
「あはは。まぁ、大丈夫だって。お前ならつとまるよ」
「どうかなぁ」
不安だ。ものすごーく不安しかない。
入れ替わるように外へ出た宗ちゃんを、手を振って見送るものの……改めて、断ったほうがよかったかなと思いもする。
玄関で声をかけ、早速お邪魔しまーす。
すぐそこの階段へ向かいながら、いつ振りだろうなぁと改めて考えるものの、ものすごく久しぶりだなとしか思えない。
宗ちゃんが就職するまではときどき来てたけど、ってなると数年ぶりか。
……はーーなんだろう。この威圧感。
ほかの部屋と同じ形で同じ色なのに、漂っている気配が違う。
『無断で部屋に入ったら、どうなるかわかってるだろうな?』
と、見えないインクで書かれているような気すらする。
……でもまぁ、今日は大丈夫でしょ。
なんてったって、付き人なんだし。
「はーふー」
ドアの前で何度か深呼吸をしてから、意を決して開ける。
……開け……るのよ、私!
ノブを掴んだ手がうまく動かなくて、重くもない扉のはずなのに両手でノブを回すことにした。
「失礼しま……す」
自然に声が小さくなる。
だって、ホント……何年ぶり?
綜の部屋に入るなんて。
もちろん、この9年の間に何度かは綜が日本へ帰ってきてたんだろうなぁとは思う。
だけど、知らないフリを決め込んでたんだよね。
ましてや、帰国を知っていて都度会っていたとしても、こんなふうに部屋に入ることはなかっただろう。
今になってようやく、失恋という大きな免れることのできない呪縛が緩んだ気がした。
「っ……はぅあ!?」
そっと足を踏み入れると、フローリングの猛烈な冷たさがストッキング越しに伝わった。
……うー。冷たい。
廊下と比べても、ずっと冷たいのはなんで?
普通、部屋のほうがあったかいのに。
奥の出窓のところにある、昔と変わらないパイプベッドに、人とおぼしき膨らみを発見。
ちょっとだけ上下しているのが目に入ると、ああ綜も生きてるんだなぁなんて馬鹿なことが浮かんで笑えた。
「……っ」
ベッドに近寄って、枕元をのぞいた瞬間、ごくりと喉が鳴った。
うわ。綜って、こんなあどけない顔して寝るんだ。
っていうか、昔からこんな顔してた?
普段が冷血人間みたいな感じがするからか、やけにかわいく見える。
音はそこそこ聞こえてると思うんだけど、疲れているのかまったく反応しない。
起こすの可哀想かな……だけど、時計はもう7時を回っている。
言われた時間だし、しょうがないよね。
よく寝ている人を起こすのは忍びないけど、ね。
「起きてー。ねぇ、朝だよー」
ゆさゆさと肩に触れ、揺り動かしてはみるものの、反応はゼロ。
……むー。
「綜。ねぇ、起きて!」
やや強めに身体を揺さぶってみる。
2度、3度……と揺さぶったとき、うっすら目を開けたのがわかって手を離す。
「もう7時だよ。起きて」
「…………」
「あ、ちょ! 二度寝禁止!」
「……眠い」
「眠いのはわかるけど、もう7時だよ? 今日だって、あるんでしょ? リサイタル!」
寝返りを打った綜を慌てて揺さぶると、かなり不機嫌そうに私を睨んだ。
「……眠いっつってんだろ……」
「それはわかってるけど……だって、出かけないといけないでしょ?」
「…………ったく」
ちょっと。今、小さく舌打ちしたわね。
そうしたいのは、こっちのほうよ。
ぎしっとベッドを鳴らせて起き上がった綜は、そのまま伸びをした。
パジャマなんて着ないのはわかってた、けど……。
「……シャツで寝たら皺になるでしょ?」
「イチイチうるさいぞ。俺が何で寝てもいいだろう。それに、付き人だったらアイロンかけるのはお前の仕事だろ?」
「そこまで面倒見る必要ないと思うけど」
「金で雇われてるんだぞ? もっと自覚を持て」
「く……っ」
ああ言えばこう言う。
ていうか、2倍も3倍も言い返されるのは、ちょっと腹が立つ。
「……お前、相変わらず几帳面だな」
「え? なんで?」
立ち上がった綜が、枕元へ置いていたスマフォを片手にため息を漏らした。
カーテンを開けながらまばたきを見せると、ベッドへ座った彼がため息を漏らす。
「本当に7時に起こしに来なくてもいいのに」
「……はぁ?」
「今日のリサイタル、何時からか知ってるのか?」
「え? でも、綜が7時に来いって言ったんじゃない」
何よ。
わざわざ時間通りに起こしに来てあげたのに、それで文句言うなんてお門違いじゃない?
腹立つ!
しかも、律儀に答えたにもかかわらず、舌打ちされるとか正直意味がわからない。
「……で?」
「え?」
「お前、いつまでそこに居る気だ」
「は? なんで?」
「着替え、最後まで見るのか?」
「あ」
シャツのボタンをふたつ外したところで綜が怪訝そうな顔をしたので、ようやく身体が動いた。
ていうか、ストレートに言って!
「う、見ません!」
「じゃあ、早く出てけ」
しっし、とまるで犬でも追いやるようにされたのは気に食わないけれど、そのまま綜の着替えを見続ける気もないので、とっとと部屋から出ることにした。
もっと丁寧に言ったってバチは当たらないわよ。
いろんな意味で腹立つ。
……付き人って、大変だなぁ。
テレビの中だけの話だと思っていたのに、形は違えど同じ付き人をやっている今。
改めてそんなことが浮かんだのは、言うまでもない。
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