「……こんな時間に入るなら、そう言ってくれればよかったのに」 
「お前が7時に来るから悪いんだろ」 
「綜が悪いに決まってるでしょ!」 
 結局、綜と一緒に会館に入ったのは、15時を回ってからだった。 
 それもそのはず。 
 だって、今日のリサイタルは夜の19時開演なんだから。 
 これからリハーサルをやって、それから少しの休憩が入るらしい。 
 で、本番。 
 昨日と同じようにたくさんの人が綜の演奏を聴きに来るのは、幼馴染としてはかなり鼻が高い。 
 私は何もしてないんだけど、それでも嬉しくなっちゃうのは仕方ないよね。 
 昨日の夜、父がパスを見せた警備員が、『お疲れ様です』と綜に頭を下げた。 
 そして、私が付き人だと綜が告げると、こちらにも笑みを見せてくれる。 
 ……いい人だなぁ。 
 綜とは大違い。 
「おはようございます」 
「あ、おはようございます」 
 向こうから歩いてきたタキシード姿の人に、綜が笑みを見せた。 
 ……ああ、そうか。 
 もう、綜の『猫かぶり』は始まってるんだ。 
 ものすごく怪訝な顔をしたままでツッコミを入れる所だったわ。 
 危ない危ない。 
「ずいぶんと、かわいらしいお嬢さんをお連れですね」 
「え」 
 かわいいなんて、お世辞でも久しぶりに言われた。 
 人のよさそうなメガネをかけているこのおじさんも、どうやら楽団の人らしい。 
「ええ。幼馴染で、しばらく付き人をやってもらうことになったんです」 
「そうなんですか。いやぁ、羨ましいですなぁ」 
「なかなか優秀で助かります」 
 ……嘘だ。 
 ミジンコ並みにも思ってないクセに。 
 と心の中では思うけれど、何も言わないで笑みを浮かべる。 
「それでは、またリハで」 
「どうも」 
 差し障りないやり取りにもかかわらず、騙し合いって感じぷんぷんなのは気のせいかしら。 
 昨日と同じ廊下を通って、昨日入った楽屋のドアを開ける。 
 ――と書くと、ふっつーに歩いてふっつーに何もなかったように思えるけど、実際は、たどり着くまでに綜は超絶笑顔であいさつをしていた。 
 あー……。 
 なんかそろそろ、そんな綜に慣れてきた感じもする。 
 私って、結構順応性高いのね。 
「飲み物」 
「え?」 
「飲み物」 
「……む」 
 まったく同じ調子で2回も言わなくてもいいんじゃない? 
 ……さっきまでの綜はどこへやら。 
 楽屋へ入った途端、態度も口調も一変。 
 私にそれだけ告げた本人は、ヴァイオリンケースをテーブルに置いて椅子に腰かけた。 
 ……なんか、ものすごく偉そう。 
 とは思うけれど、そんなの今に始まったことでもないか。 
 ため息をついてテーブルの端にまとめられているお菓子やらコーヒーやらの類の所に向かってから、紙コップを手にする。 
 ……飲み物。 
 何がいいんだろ。 
 コーヒー、紅茶と、緑茶……ココア? 一通り揃ってるんだけど、どれも綜が飲みそうにないなぁ。 
 ホット以外に何かないかと思ってあたりを見回すと、小さめの冷蔵庫が目に入った。 
「はい」 
「お前、1番手間のかからないもの持って来たな」 
「手間がかかってるとかかかってないとか、そういう問題じゃないと思うけど」 
 結局、私が綜に持って行ったのは、ミネラルウォーターのペットボトル。 
 昨日も飲んでたの見たし。 
 それに……。 
「カフェインが入ってるものは、よくないんでしょ?」 
 キャップを外した綜に呟くと、意外と言わんばかりに瞳を丸くした。 
「え、違うの?」 
「お前、どこでそんなこと知った?」 
「え? いや、あの……雑学っていうか……まぁ、そんなトコ」 
 違うのかと思ったんだけど、どうやら正しいってことでいいのかな。 
 ちょっとだけ、聞きかじったことがある。 
 カフェインが入っている飲み物は、テンポが速くなってしまうから本番前に演奏者は口にしないって。 
 綜がカフェインに弱いとは思わないけれど、でも、摂らなくていいならば摂らないに越したことないし。 
「……そうか」 
「え、なぁに?」 
 珍しく、綜が何も言わなかったどころか、ちょっとだけ優しそうな顔をしていて、なにごとかとこっちの目が丸くなる。 
 え……ナニ? 
「なんだ」 
「いや……なんか、気持ち悪いなぁ……って」 
「ほう。時給半額でいいのか」 
「え!? ちょ、まっ――」 
 まさかのセリフに慌てた瞬間、タイミングよくドアがノックされた。 
 慌ててそっちを見ると、返事を待たずに薄くドアが開く。 
「……あ」 
 顔をのぞかせたのは、昨日の夜ここにいた女性だった。 
 私を見るなり驚いた顔をして、中へ入ってくる。 
 向かう先は、一直線。 
 綜の隣だ。 
「綜のお知り合いよね?」 
「幼馴染です」 
 です・ます口調は、妙な感じ。 
 さっきまで人に普通に命令してたくせに。 
 と思って彼を見るものの、視線を合わさなかった。 
 代わりに、ヴァイオリンを手にして、ゆっくりと立ち上がる。 
「山川さん。アップをしますので」 
「え? あ、ごめんなさい」 
 ほんの少しだけ、口調が冷たく感じた。 
 ……こんなかわいい人にそんな言い方しなくてもいいのに。 
 でも、彼女はにっこり微笑むと、ドアへ向かう。 
「それじゃあ、またリハで」 
 綜へ視線を残しながらも、彼はまったくのスルーという、どが付くくらいの失礼な態度。 
 やーだ、この人。 
 ぜんっぜんかわいくない男そのものだわ。 
「かわいい人だねー。どなた?」 
「ピアニストだ。山川 幸子」 
「……そんなぶっきらぼうに言わなくてもいいのに。綜の彼女なんじゃないの?」 
「またそれか。しつこいぞ、お前」 
 ……怖っ。 
 何もそんなに、睨まなくたっていいじゃない。 
 思わず眉を寄せて彼を見ると、ヴァイオリンを肩に乗せてこちらを一瞥し……ゆっくりと弓をあてがった。 
 ……って、ちょっと待って。 
 アップって、ウォーミングアップ? 
 それで彼女を追い返したとなると……私もいないほうがいいよね。 
 っていうか、檄が飛ぶ前に出てったほうが身のためかも。 
 朝の着替えのことがよぎり、行動すべくそっとドアへ向かう。 
 綜は、目を閉じて調弦をしているから、今なら叱られずに済みそう。 
 よし! 
「優菜」 
「はぃっ!?」 
 小さくノブを回したとき、いきなり名前を呼ばれた。 
 え、何? なんで? 
 いきなりの出来事にどきどきしていると、何かを払うかのように一度弓を振った綜がテーブルに腰かける。 
「どこ行く気だ?」 
「え? いや、邪魔かなぁって……」 
「誰が出ていいと言った」 
「……だって、山川さん――」 
「お前は付き人だろ? ここに残って俺の世話をしろ」 
「く……わかったわよ」 
 世話ってあーた、ずいぶんな言い草ね。 
 扱いが、さっきの彼女に比べて随分とぞんざいじゃない。 
 シモベじゃないんですけど、私! 
「…………」 
 いろいろと言いたいことはある。 
 けれど、久しぶりに生演奏を聞かせてくれるならば、正直全部許してしまいそうだ。 
 私にとって、綜が弾いてくれる時間がいつでも特別だった。 
 ……こんなふうにふたりきりで……ううん、聞かせてくれるのは、久しぶり。 
 そう。 
 9年振り……だ。 
 まじまじと彼を見つめたままでいると、息を吐いてから姿勢を正した。 
 その動きがすらりと伸びた線のようで、きれいだと素直に思った。 
 弓が弦にあてがわれて、ゆっくりと動き出す。 
 ――途端、澄んだ音が響いた。 
 昨日の夜とは違って、すごく柔らかい音。 
 知らない曲だけど、聞いたことのあるような……そんな不思議な曲。 
 彼の演奏を聴きながら椅子に座って瞳を閉じると、昔の彼の音と同じような……ううん。 
 でも、やっぱり違うかな。 
 昔はもっと、荒削りって感じだった。 
 だけど、今はまったく違う。 
 昨夜の演奏は、研ぎ澄まされていて切れそうな鋭さがあったけれど、今はそれがない。 
 ……すごいなぁ。 
 当り前すぎる感想だけど、それしか出てこなかった。 
 ゆっくりと音が小さくなって……そして、消える。 
 にんまりしてしまった頬へ手を当てながら目を開けると、何か言いたげな綜が私を見ていた。 
「すごい」 
「……普通のエチュードだぞ?」 
「普通の、って……。でも、なんか……優しい感じがして、綜じゃないみたい」 
「ひとこと余計だ」 
「あはは、ごめん」 
 素直に謝ると、彼が弓を構えたままでこちらを見た。 
「ん?」 
「リクエスト、1曲くらい聞いてやってもいいぞ」 
「え! ホントに?」 
「ああ」 
 まさかのセリフに、テンションが急上昇。 
 って、ちょっと待った。 
「……お金取る?」 
「何?」 
「だって、綜ってばもうプロでしょ? タダで演奏しないんじゃ……」 
「……なるほど。そういう考え方もあるな」 
「え! やだ、冗談! えーとえーと何がいいかなっ!」 
 慌てて手を振り、リクエストを考えるーーなんて、ね。 
 私が綜にリクエストする曲なんて、最初から決まってる。 
 小さいころから、彼にねだって弾いてもらった曲は、ただの1曲だけ。 
 
「「星に願いを」」 
 
 にんまり笑った瞬間、声がダブった。 
「……え。え!? なんでわかったの?」 
「当り前だろ。お前、昔から何も変わってないな」 
「悪かったわね」 
 むっとはするものの、覚えてくれていたことが素直に嬉しかった。 
 椅子に座りなおして彼を見上げると、呆れたときとは違う笑みを見せ、目を閉じる。 
 ……あ、来る。 
 瞬間的にぞわりと鳥肌が立ち、静かに紡がれ始めたメロディで心の奥が刺激される。 
 ああ、懐かしい。 
 私がピノキオの映画が好きだった私にとって、この曲は特別だった。 
 ヴァイオリンを弾くようになった綜に、何度も何度もねだった曲。 
 あの中に出てくるキリギリスが、ヴァイオリンを弾いて……あーそう。そうだよ。 
 ……懐かしいな。本当に。 
 小さいころの記憶が蘇って、思わず笑みが漏れた。 
 でも、綜ってやっぱり昔と比べて大人になったんだなぁ。 
 音がすごくきれい。 
 ひとつひとつの音が滑らかに繋がって、すごくきれいで。 
 それは、9年という歳月を改めて実感することにもなったけれど。 
 
 ――結局。 
 その後も、綜は幾つかリクエストを聞いてくれた。 
 1曲って言ったくせに、意外とサービスがいい。 
 だけど、17時を回ったころに弾いてくれた曲が、最後の曲になった。 
「はい」 
「芹沢さん、そろそろリハお願いします」 
「わかりました」 
 私が拍手したのと同じタイミングで、ノックのあとスタッフの人がドアを開けた。 
 ……これだけタイミングがよかったとなると……ひょっとしたら、待っててくれたのかもしれない。 
 すみません、お手数かけました……。 
「お前は客席にいろ」 
「え? でも……」 
「俺の連れだって言えば、誰も何も言わないだろ」 
「……それはそうかもしれないけど……」 
 いいのかな。 
 そう続けようとしたら、綜が瞳を細めた。 
 ……だ、だから、怖いんだってば。その顔! 
「付き人なら、しっかり見てろ」 
「……了解です」 
 相変わらずの横柄な態度は、もう慣れた。 
 これが大人になった綜だと思えば、痛くも痒くもないわ。 
 ヴァイオリンと弓を持ったままドアへ向かった綜を見て、慌てて隙間へ身体を割り込ませる。 
「なんだ?」 
「いや、あの……ドア開けるのは私の仕事かなと思って」 
「ほぅ。よくわかってるじゃないか」 
「まぁね」 
 綜より先にドアノブへ手をかけると、意外にも綜が笑った。 
 その顔に、ついこっちもつられる。 
「……え?」 
 ドアを開け、彼を通すように身体をずらしたら、ふいに綜が肩へ触れた。 
「なに?」 
「……別に」 
「えー? なによ、気になるでしょ?」 
「なんでもない」 
 今までなかった姿だけに、思わず何度か聞き返すものの、綜は何も言わなかった。 
 すると、しばらく瞳を合わせてから綜が先に視線を逸らした。 
「もー、なによー。気になるのに」 
「なんでもないと言ってるだろ。……ほら、さっさとどけ」 
「う、かわいくないなぁ。これだからソリスト様は」 
「まぁな」 
 にやっと笑って言ってやったのに、まさか嫌味を嫌味として受け取らないとは。 
 ……まあそうか。そうでした。 
 そういうタイプじゃなかったんだった。 
「がんばってね」 
「席で聞き惚れてろ」 
「はいはい」 
 演奏者が向かう方向とは、別。 
 ドアを出てステージ側に向かう綜に声をかけると、顔だけでこちらを振り返った。 
 ……えへへ。 
 リハーサル見れるのって、ちょっと得よね。 
 だって、アンコールの曲まで聴けちゃうんだよ? 
 綜の演奏もすごいとは思うけど、でもそれは一緒に弾いているほかの人たちのバックアップあってのもの。 
 ……ちゃんと綜はわかってるのかしら。 
 すでに小さくなっている彼の背中を見ながら、ふとそんなことが思い浮かんだ。 
 
  
  
 
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