リハーサルもとうに終わり、開場時刻からは結構経った。
綜の控え室から入り口や会場は離れているはずだけど、慌しさは伝わってくる。
……でも。
「…………」
リハーサルを終えた綜は、ソファにもたれて目を閉じたまま早30分が経過中。
ちょっとー。いいの? 寝てて。ほんとに?
むしろ、もっと練習したほうがいいんじゃないかと思うんだけど。
タキシードの上着と蝶ネクタイを付けていない状態とはいえ、シャツはシャツ。
だから、横になったら皺になるって言ったのに、綜はスルーした。
それにしても、よく本番前に寝れるわね。
ある意味感心しちゃう。
でも、一応雇われ主でもある彼に放置されると、正直、やることがなくて手持ち無沙汰なんだけど。
「…………」
エゴサーチがわりに、綜の情報を検索はしてみた。
すると、今回の公演だけじゃなくて、東京や仙台、札幌などの主要都市で開催された過去のリサイタルや、海外のものまで出てきたからびっくりよ。
ああ、本当にこの人はすごい人なんだなぁ。
幼馴染だというだけで、彼を呼び捨てにできている私は、どうやら相当しあわせな人らしい。
「……え?」
どうせだから、寝てる姿を記念に1枚……なんてことを考えた瞬間、ドアがノックされた。
さっきと同じ叩き方……ってことは。
「あ……」
顔をのぞかせたのは、やっぱり幸子さんだった。
リハの前に訪れたときとは違い、きれいなドレスをまとっている。
「えっと……綜は……?」
「あ、今そこで――」
おずおずと入って来た彼女にソファを指差すと、一瞬瞳を丸くしてからかわいく笑った。
……こういう笑みが似合う人って、本当に羨ましい。
私がやったら、みんなに熱でもあるんじゃないかって言われるよね。
とほほ。
「綜って、いつもこうして寝ちゃうのよ。驚いたでしょう?」
「え? あ、はい」
ふわりふわりとした物腰で、ああ本当に私とは違う世界を生きてきた人なんだなと実感する。
まるで、映画に出てくる妖精みたいだ。
ソファに近づいて、愛しげに綜を見る彼女を見て、ああ、やっぱり綜のことが好きなんだなとピンとくる。
こういう人が綜の隣に、というのはちょっと想像できない……っていうのは、私のやきもちなのかな。
ああ、待って。
ネコかぶってるときの綜ならばぴったりかもしれない。
「……あの……お名前、伺ってませんでしたね?」
「あ。ごめんなさい!」
そうでした。
綜は私のことを『幼馴染』として紹介してはくれたけれど、名前は言ってない。
もー。しっかりしてよね、雇い主!
依然、眠ったままの綜を一瞥してから彼女に向き直り、頭を下げる。
「佐伯優菜です」
「優菜さん? すてきなお名前ね。私は――」
「山川幸子さんですよね? 伺ってます」
「……綜が?」
「ええ」
瞳を丸くした彼女に笑顔でうなずくと、頬を染めてから嬉しそうに笑みを浮かべた。
……ああもぉ、ホントかわいい。
こういういかにも『お嬢様』って、いいよねぇ。
私の周りにはいないタイプだ。
「えっと……優菜さん」
「はい?」
「綜とは、どういうご関係なんですか?」
「え?」
いきなり何を言われるのかと思いきや、突拍子もないことを。
思わず面食らってしまったものの、慌てて手と首を振る。
「あ、私はただの幼馴染なんです」
「……よかった……」
「え?」
たったひとこと。
だけど、心底ほっとしたように笑った彼女を見て、ほんの少しだけ胸がちくりとする。
「綜が女性を連れてくるなんてこと、今までなかったから。てっきりお付き合いをされているのかと思ったんです。幼馴染なんですね」
「……ええ」
ぽん、と両手を合わせた彼女は、まったく悪気のない様子で『よかった』ともう一度つぶやいた。
「…………」
瞳を閉じたままの綜を見ると、さっきまでとは違って、存在自体が遠くなってしまったような錯覚を覚える。
なんか……私、ちょっとイヤな子かもしれない。
今、幸子さんに対して少しだけ、『幼馴染』と言ったのを後悔してるから。
「綜とは、以前パリでの演奏会で出会ったの。それ以来、こうして一緒になる機会が多くて。ただ、日本での公演で一緒になったことがなかったんだけれど……ようやく今回、一緒になることができたでしょう? だから、この仕事が終わったら、両親に会ってもらおうかと思っているの」
「っ……それって……」
乾いた唇が動いたものの、その先の単語は出てこなかった。
でも、行間を読んだかのような彼女は、はにかんだように笑う。
……うそ。
綜が……結婚?
「まだ、正式にはそうなってないんだけれど。でも、できればそう――」
「そんな話は聞いてない」
「っ……」
微笑んだ彼女の言葉を遮るように、綜が低い声で答えた。
いつもの、ネコをかぶってるときの彼とは明らかに違う。
「……綜……」
そんな彼に、驚いて幸子さんが振り返る。
だけど、綜は彼女に対して鋭い眼差しを向けた。
「誰がいつ、そんな約束をしたって?」
「あ、だから……それは……。そうなったらいいなっていうだけで……」
「両親に会うなんて話、聞いた覚えはない」
ソファから立ち上がって冷蔵庫に向かった綜が、彼女の横を無言ですり抜ける。
でも、先に動いたのは彼女だった。
高いヒールの靴を履いているせいもあると思うけれど、すらりとした幸子さんは、すごく綜に……お似合いだと思うの。
「…………」
私が履いているのは3センチにも満たないヒールの靴だし、そもそもドレスなんかじゃない、ただの私服。
華やかな彼女とはまったく違って、飾り気のない格好に、低い身長。
ああ、そうだよね。
正装しているふたりからすれば、場違いなことこのうえない。
物理的な面だけでなく、心理的にも距離は開く。
『綜を取らないで』なんて言えたら、どれだけいいだろう。
……あはは。無理だよね。
私は9年も昔に、フラれてるんだから。
ましてや、見栄を張って嘘をついた私が、大層なこと言えるはずなんてない。
「ねぇ、お願いよ……綜。もう一度……もう一度だけ、考えてほしいの」
「何度言われても、変わることはない。一度嫌いと言ったものが覆るほど、単純な人間じゃないからな」
「けど! 私は……私はまだ、綜のこと――」
「……いい加減にしてくれ」
腕にしがみつくようにした彼女の腕を振り解いた綜は、完全に否定するかのように背を向けてしまった。
そのまま乱暴にミネラルウォーターを取り出し、キャップをひねる。
「……っ……」
あ、って思った。
俯いた彼女が、綜へ伸ばしかけた手を戻し、ぎゅうっと身体を抱いたの。
唇を噛むと同時に背を向けたけれど、その背中が震えたようにも見えた。
どう声をかければいいか悩んだものの、その一瞬に、彼女はドアへ向かうと部屋をあとにした。
「…………」
何をどう言えばいいの?
この、ものすごく重い空気が漂う中で。
って瞬間的に思ったけど、でも、違う。
ううん、こうしなきゃいけないんだと思う。
だってーー今から9年前の私も、できればそうしてほしかった。
「なんだ」
「……なんだ、じゃないよ。早く行ってあげて」
ペットボトルを持ったままの綜の腕を引くと、瞳を細めて睨まれた。
……う。怖い……けど、私なんかよりもずっと、幸子さんのほうが怖かったはずだ。
これまで、優しい綜しか見てこなかったんだから。
「俺が行ってどうしろと言うんだ? 慰めの言葉でもかければいいのか?」
「そうじゃないけど……でも、そばにいてあげてよ」
「……お前、何言ってるかわかってるのか? そんなことして何になる。俺は彼女を受け入れるつもりはないんだぞ?」
まっすぐ私を見た彼に、何も言えず唇を噛む。
『俺が好きなのはお前じゃない』
そう言われたあのときの自分に、すっかり戻ってしまったような錯覚さえ覚えた。
「……わかってる、けど……っ。だけど、彼女泣いてたでしょ?」
「俺に慰めてこいとでも?」
「違うよ、そうじゃない。でも、本番前にあんなふうに泣いてたら、彼女――」
「は。じゃあ、どうしろと? だいたい、彼女はプロだぞ? こんなことくらいで演奏を疎かにするような人間じゃないだろ?」
「ねぇ、待ってよ! プロである前に、ひとりの女性なんだよ? 好きな人にこっぴどくフラれて、自分の気持ち否定されて……平気でいられるわけないじゃない……!」
最後まで顔を見て言い切れず、視線が落ちた。
ああ、だめだな私。
クリアしたと思ってたのに、やっぱり全然だめらしい。
あのときのつらかった気持ち、全然忘れられてないんだもん。
「……わかるんだもん。幸子さんの気持ち」
ぽつりと漏れた本音。
ああ、ダメだ。
どうしても、さっきの彼女が昔の自分とダブる。
「お前に何がわかる」
「わかるわよ。……彼女の気持ちは」
「……は。お前にわかるわけないだろ? お前と彼女は違ーー」
「っ……わかるわよ! 私だって、綜のこと好きなんだから!!」
鼻で笑われたのが、悔しかった。
私じゃないのに、私自身の気持ちまで否定されたかのようで、つらかった。
……ああもう、最悪だ。
こんなかたちで全部ぶちまけるなんて、かっこ悪い以外のなにものでもない。
「……お前……」
「私だって同じなの。幸子さんと同じ気持ちだから……ううん、だったから、わかるの」
「…………」
「好きになった人にフラれたら、誰だってつらいんだよ?」
目を丸くした綜を見ていられず、自然に視線が落ちる。
……そんな顔しないでよ。
まるで私が、いじめてるみたいじゃない。
「ねえ、行ってあげて?」
ぎゅ、とつかんでいた腕に力がこもったのは、どうしてだろう。
行ってって言ってるくせに、行ってほしくないかのような行動。
ああ、だめだなぁ。
私はやっぱり、諦められてない。
「っ……」
「お前……」
「やだ、いいから早く行ってあげて!」
綜の大きな手が私の手を取った瞬間、泣きそうになって突き放す。
「優菜」
「っ、いってあげて、お願いだから!」
私のことは呼んでくれなくていいから。
今すぐここから見えなくなってくれなきゃ、じゃなきゃーー……諦めなんてつかないじゃない。
「いいからっ……」
彼の背を押しながらドアへ向かい、さっきと同じようにドアを開けて、背中を押す。
ああ、さっきは『がんばって』って言ったのにな。
……ごめん、今はできないや。
がんばれ、私。
目の前で傷ついた女の子がいたら、同じようにするでしょ?
「……っ」
彼を廊下へ出した瞬間、振り返った綜の眼差しが戸惑っていた。
ああ、やだな。だめだよ、そんな顔したら。
あなたは世界で生きてるでしょう?
そう。
こんな幼馴染のことなんかに、引っ張られてる場合じゃない。
選ばれなかった私は、見送る側でいい。
綜とはもう、生きる世界が違うんだから。
「…………」
綜のことが、ずっと好きだった。
9年前のあの日に蓋をしたはずなのに、全然褪せてなくて自分でも驚く。
だから、たとえどんな理由であれ、ほかの女の人のところになんて行ってほしくない。
でも、だぶって見えたんだもん。
彼女の小さな背中が、昔の私と。
「……は……」
ドアにもたれると同時に、理由がわからない涙が一筋伝った。
……何してるんだろ、私。
自分の気持ち押し殺して、人の世話焼いて。
「ほんと、おせっかいは直らないなぁ」
情けなくて、自嘲が漏れた。
きっと、綜は幸子さんのそばに行ってくれるだろう。
だから……大丈夫。
きっと彼女は、昔の私みたいにならずに済むはずだ。
余計なお節介だとは思う。
でも、同じ人を好きになった以上、どうしても赤の他人とは見れなかった。
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