ホールに響くヴァイオリンの音は、伸びやかで、それでいて鋭くて、透き通っている。
 添い遂げるかのように響くピアノの音は、穏やかな表情をした幸子さんが弾いていた。
 ステージには、光を身体いっぱいに受けて演奏する人たちがいる。
 みんな、すごくすごくきれい。
「…………」
 今日も、ホールに空席は見当たらない。
 ぎっしりとたくさんの人たちがお行儀よく席に着いて、ステージを見つめている。
 私は、最前列にいた父のところへ一度行ってからカメラを手に、一番後ろの出口へ立っていた。
 父は、綜の一番そばで見ているけれど、さすがにその隣へ並ぶことはできない。
 滑ったとはいえ、綜に自分の気持ちをぶつけてしまった。
 ……ああ、馬鹿だなぁ。なんであんなこと言ったんだろう。
 何も言わずに笑って過ごしていたら、かりそめの契約だとしても、しばらくは一緒にいられたのに。
「…………」
 拍手が沸き、綜と幸子さんが立ち上がって頭を下げた。
 いよいよ、ラスト。
 ふたりのアンサンブルのあとは、アンコールに用意されている1曲だけ。
 最後だから、少しだけそばへ行く?
 でも……。
「あ、ごめんなさ――」
 後ろのドアが開いて、思わずぶつかりそうになった。
 ……と思ったら。
「宗ちゃん!」
「あれ、優菜。こんなとこで何してんの?」
「それはこっちのセリフ……! 何してるのよもー。演奏終わっちゃったよ?」
 拍手に紛れながら小さな声でささやくと、宗ちゃんは片手で『ごめん』のポーズをして苦笑を浮かべた。
「いやー、ちょっとトイレ行ったんだけどさ。曲の途中って入りづらいじゃん? だから、今まで待ってたんだよ」
「もぉ。びっくりしたー」
 どんな理由かと思いきや、トイレとは。
 宗ちゃんらしい緊張感のないセリフで、ちょっと笑えた。
「それよりお前、こんなトコにいていいのか? もっと前で見ればいいのに」
「……あー……うん。ちょっと、ね」
「なんだよ。何かあった?」
 ……う。鋭い。
 眉を寄せたままで彼を見上げると、何かを察したのか外へと連れ出された。
「で? 何があったんだよ」
 途端、宗ちゃんが普通の声で私を見る。
 館内ではまだ拍手が続いていて、ここでも十分すぎるほど聞こえていた。
「……その……綜と、ちょっと」
「綜と? ははーん。喧嘩したのか」
「いやー……性懲りもなく、もう一度うっかり自分の気持ちを伝えちゃったというか……」
 さすがに宗ちゃんを見ることはできず、視線を落としたまま小さくつぶやく。
 ……馬鹿だなぁって言われて当然。
 誰だって呆れるに決まってる。
 だって、昔と何も変わることなく二の(てつ)を踏んだんだから。
「え……?」
 なのに宗ちゃんは、鼻で笑うこともなく、『そっか』とだけ笑った。
「やっぱり、お前まだ綜のこと好きだったんだな」
「っ……」
 優しい顔で見られ、思わず泣きそうになる。
 ああ、ダメだなぁ。
 優しくされると、たちまち泣き出しそう。
「……情けないよね。1回、フラれたくせに」
 ほんと、情けないと思うよ。
 なのに宗ちゃんは、何も言わずに腕を組んだ。
「お前、どうしてフラれたか知ってるか?」
「え……?」
「アレさ、どうやら俺のせいらしいんだよ」
「…………え?」
 意外な言葉に瞳を丸くすると、珍しく宗ちゃんはバツが悪そうに笑った。
「綜が、ヴァイオリン始めた理由は知ってるか?」
 これまでと違う話になって思わずまばたくと、『だよなぁ』と言いながら宗ちゃんが苦笑した。
「優菜、小さいころから『ピノキオ』好きだったろ?」
「え……うん」
「あれの中で、キリギリスがヴァイオリン弾くの覚えてるか?」
「もちろんっ!」
 小さいころから、あの話が好きだった。
 いろんな登場人物が出てきて、くるくるとお話が展開して。
 あったかい気持ちにも、どきどきする気持ちになる、とっても好きな話。
 ああ、そういえば何年も見てないな……なんて懐かしい話で何度もうなずくと、宗ちゃんは『だよな』と笑った。
「じゃあ『ヴァイオリンを弾く人のお嫁さんになる』って言ったのは?」
「…………は!?」
「あー、やっぱりな。お前、当時あんだけしょっちゅう言ってたのに、覚えてないって……どうなの? それ」
「え、嘘っ! 私、知らない……」
 え、やだ待って、私がそんなこと言ったの!?
 ヤバい。
 全然覚えてないよ?
「それ聞いた綜のヤツ、『ヴァイオリンを弾くヤツはたくさんいるんだぞ』ってからかったんだよ。そしたら、お前が半泣きになりながら、『じゃあ、世界で1番ヴァイオリンをうまく弾く人のお嫁さんになる』って、言い出したんだ」
「っ……」
 嘘だ。
 そんな話、聞いてない。
 ……あ、いや、正確には覚えてない。
 え……あの、ちょっと待って。
 じゃあ、何?
 綜がヴァイオリン弾いてるのって……どう、してなんだろう。
 そういえば、綜がヴァイオリニストを目指した理由を、私は知らない。
 だけど今、宗ちゃんに言われた言葉で、急にどきりとした。
「それ聞いた夜、アイツ親父とお袋に『ヴァイオリンやる』って言い出したんだぜ」
「うそ……」
「馬鹿だと思うだろ? あからさますぎて、さすがに俺もびっくりしたよ」
 心底おかしそうに笑った彼を見ながら、だけど私はまったく笑えなかった。
 知らなかったのか、覚えてなかったのかはわからない。
 だけど、綜がヴァイオリンを始めた理由がそれだとしたら、一体、どういうことになるのか。
 でもだって、待ってよ。
 それならどうして、9年前、綜は私をーー……ってもちろん、ヴァイオリンを習い始めてからだいぶ経ってはいたから、気持ちに変化があって当然だとは思う。
 だけど。でも!
 そんな想いが顔に出ていたのか、宗ちゃんはちょっとだけ柔らかい眼差しを向けた。
「けど、優菜はアイツにフラれたって泣いたんだよな?」
「……うん」
「じゃあ、どうしてフラれたんだと思う?」
「え?」
 忘れもしない、9年前の3月。
 綜がパリへ行っちゃうって聞いて、寂しくてつらくて、勇気を振り絞って自分の気持ちを伝えた。
 だけど綜は、気持ちに答えてはくれなかった。
 ……なんで?
 綜がヴァイオリンを始めるきっかけが私なんだとしたら、どうして断ったんだろう。
 その理由が、わからない。

「俺がずっと優菜のこと好きだったって、気付いてた?」

 ……。
 …………は……。
「はい!?」
「……あー、やっぱり。お前、絶対気付いてないと思ったんだよなぁ」
「え、ちょ、ちょっと待って! だってそんな……えぇえ!? 嘘! なんで!?」
「なんでって……なんでだろうなぁ。しょがないじゃん、好きだったんだもん」
 肩をすくめたのを見ながらも、何を言うこともできないまま。
 えぇ!? なんで? どういうこと!?   宗ちゃんが私を好きでいてくれたなんて、これまで全然気づかなかった。
「だからさ、お前が綜に告ったって聞いたあの日、俺はものすごくショックだったんだぞ?」
「うそ……嘘っ!! だってだって! 宗ちゃんはいっつも私に優しくて……!」
「そりゃ、好きな女に優しくするのは当然だろ?」
「っ……うそぉ!!」
 呆れたように苦笑を浮かべたのを見ながら、情けなくぽかんと口を開ける。
 ……だ、だだだ、だって!!
 そんな……ええ!? 聞いてないよ、私!!
「だからさー、あの日お前をフったって聞いて綜に詰め寄ったんだよ。なんで優菜を泣かせたんだ、って。……でも、アイツひとこともなーんにも言わなかったんだよなぁ」
「っ……」
 宗ちゃんと綜は、仲がいい。
 だから、ふたりが喧嘩しているところを見たことはない。
 ただ、一卵性の双子にもかかわらず、性格というか愛想は本当に違っていた。
 宗ちゃんの笑顔はとっても優しいけれど、綜がこんなふうに笑ったところは見たことはなかったもん。
 それこそ、今の猫かぶり綜以外では。
「でもさ、アイツがパリに発つとき……空港でひとことだけ言われたんだ」
 宗ちゃんがまっすぐに私を見つめた。
 それはそれは、すごく優しい瞳で。
「お前に何年かチャンスをやる、って」
「え……?」
「その間チャレンジしてダメだったら、そのときは諦めろ、ってさ」
「っ……」
 思わぬ言葉に、目が丸くなった。
 綜が、そんなことを宗ちゃんに言っていたなんて、想像もできない。
 でも、宗ちゃんはその約束をずっとずっと覚えていたんだ。
 もしかしたら……ううん。
 宗ちゃんだけじゃなくて、綜も彼とした約束を覚えていたんだとしたら、ちょっとずつうなずける部分が増える。
 ああ、ダメだなぁ私。
 ずっとふたりのそばにいたのに、全然気づかなかったことだらけだ。
「アイツも馬鹿だよなぁ。俺なんかに遠慮しないで、とっとと優菜に告ればよかったものを。あのときアイツが余計なことするから、お前は9年もずっと悩んで待ってたのになぁ」
「っ……」
 ぐりぐりっと頭を撫でられ、思わず涙が浮かんだ。
 宗ちゃんは、こんな私を好きでいてくれた。
 ううん、宗ちゃんだけじゃなくて……綜もそうだとしたら、ふたりの時間を私はずっと与えられ続けていたことになる。
 どうやってお返しすればいいんだろう。
 なんにも取り柄なんてないし、できることだって多くない私。
 なのに好きになってもらえたことは、何よりの財産だと思う。
「宗ちゃん、ありがとう」
「……そんな顔して言うなよ。いつだって、見てる相手まで引っ張るくらいの笑顔でいるのが、お前なんだから」
 両手を腰に当てた宗ちゃんが、手を伸ばしてーーふわりと頭を撫でた。
 ああ、そういえばこんなふうに宗ちゃんが私へ触ることは、これまでなかったなぁ。
 もしかしなくてもきっと、私の気持ちをわかっていてくれたんだろう。
「ありがとう」
「……ん。それでこそ優菜だな」
 涙をぬぐい、いつもの私らしい笑顔で彼を見上げると、目を細めて優しく笑った。

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