「あ。アンコール始まるんじゃないか?」
拍手がやんだのに気づいてか、宗ちゃんがドアノブを握った。
「ちゃんと聞いててやれよ。……お前のための、ヴァイオリンなんだから」
「……うん」
綜がヴァイオリンを始めた理由が私だと知った今、誰よりも特別な想いを抱くことを許されるんじゃないだろうか。
そっと開かれたドアから体を滑らせると、宗ちゃんは手を振ったもののこちらへ入ってくることはなかった。
「…………」
あたりは静まり返り、すでにステージ上には一度下がった楽団のみなさんが着席している。
……あ。あの人だ。
今日、来たときに綜へあいさつしていた眼鏡のおじさんは、指揮者さんだったらしい。
いつも背中しか見ていなかったから、ピンと来なかったことを反省する。
「…………」
指揮者にいちばん近い席。
そこに座った綜は、姿勢を正すとヴァイオリンを肩へ乗せた。
振り上げられた、タクト。
全員が指揮を見つめ、呼吸を合わせるかのように体を動かす。
「っ……」
きれいな曲だと、素直に思った。
でも、特にそう感じたのは、綜だけがメロディを奏でているからだろう。
次に聞こえたのは、幸子さんのピアノ。
ほかの楽器の音は、ごくごく小さくしか聞こえていない。
この曲がなんていうタイトルなのかは正直わからないけれど、すごくきれいで、穏やかで、あたたかい気持ちになる。
まさに、聞き惚れるってこういうことなんだなと思った。
……あれ?
改めて綜を見て気づいたけれど、譜面台に楽譜が置かれていなかった。
まあ確かに、暗譜でのぞむのは知っているから、なくても変ではない。
だけど、リハのときは置かれていたし、綜が器用にめくっていたのも見ていたから、不思議だった。
でも……でもね。
この曲、リハのときには弾いてなかった曲なの。
アンコール用には違う曲が用意されていて、リハのときにはそこまで聴いている。
なのに、今流れているのはまったくの別。
聞き惚れていたけれど、よくよく考えてみるとやっぱりヘンだよね。
ーーとは思ったんだけど。
「…………楽しそう」
あまりにも気持ちよさそうに弾いている綜を見ていたら、ぽつりと言葉が漏れた。
ライトを浴びてきらきらと輝いているのはもちろんなんだけど、表情が、いつにも増して穏やかで。
綜にとってヴァイオリンは、なくてはならないものなんだろうな。
そのキッカケになれたことはすごく嬉しくて誇らしいけれど、今彼に聞いたら、違うと否定するかもしれない。
でも、それでも全然よかった。
だって、綜は間違いなくヴァイオリンを弾くことを楽しいと思っているだろうから。
「っ……」
ゆっくりと弾き終えた彼が弓を上げると、同時に観客からも割れんばかりの拍手が注がれた。
再び、ホールの観客もキャストも立ち上がって互いに拍手で称え合う。
……すごい。
やっぱり、綜はすごいよ。
これだけの人に、讃えられているんだから。
多くの観客たちが出口へと向かう中、私は独り違う方向へと足を進めていた。
スタッフオンリーと書かれた先へ足を踏み入れたとき、立っていた警備員さんに止められるかなとも思ったんだけれど、ちゃんと顔を覚えていてくれたおかげで通してもらえた。
「っ……」
目指すのは、綜の控え室。
思わず小走りで駆け出しそうになったものの、途中、ステージへの廊下から大勢のキャストが出てきたことで、歩みがゆっくりへ変わる。
そんな中、ふいに見つけたひとりのおじさまへ思わず近づいていた。
「お疲れさまでした」
「ん? ああ、君は確か……芹沢君の」
「覚えてくださっていて、光栄です」
人のよさそうな笑顔を向けられ、思わず笑みが浮かんだ。
お疲れ様と言うためだけに、声をかけたわけじゃない。
そうじゃなくて、もし可能なら教えてもらいたいことがあって、ついこうしていた。
「あの、どうしてアンコールの曲変わったんですか?」
「え? 芹沢君に聞いてないのかい?」
「はい」
意外そうな彼にうなずくと、苦笑を浮かべてから軽く首を振った。
肩をすくめ、はは、と小さく笑う。
「いやー、芹沢君には参ったよ」
「そう、なんですか?」
「だってねぇ? 本番前、急に『アンコールの曲を変えてほしい』って言うんだから」
「え! そーー彼が、言ったんですか?」
「ああ」
まさか、事の発端が綜のひとことだとは思わなかっただけに、思わず目が丸くなった。
だって、今日の公演は彼のソロじゃない。
これだけ大勢の人がいる、オーケストラなのに。
いくら招かれたとはいえそんなことを言いだしていたとは、よもや信じられなかった。
「まぁ、たまたま練習リストにあった曲だからよかったけれど……でもまあ、ね。さすがに、あそこまで頼み込まれたら断れないよ」
「え……そんなに、お願いしたんですか?」
「ああ。そりゃあもう、こっちが恐縮してしまうくらいにね。普段の彼と違って……止めなかったら、あのまま土下座さえしてたかもね」
「っ……」
くすくすと冗談交じりに呟いた彼の言葉ながらも、その光景が想像できそうでできなくて、驚く。
あの綜が……頼みごとだなんて。
しかも、決まっていた曲を自分から差し替えさせてくれとお願いしたなんて。
もちろん、綜はかなり自分勝手な面があるだろう。
でも、プライベートならともかく、公の場でそんなことをしでかす人じゃない。
だからこそ、そんなことを彼が言い出したとは未だに信じられなかった。
「あ……あのっ! あの曲……アンコールの曲は、なんていう曲なんですか?」
「え? ああ、あの曲はね。エルガーの――」
「ッ……!」
曲名を聞き終えたとき、心臓が大きく跳ねた。
慌てて頭を下げ、そのまま綜の控え室を目指す。
きっと、今は間違いなくそこにいるはずだ。
それこそまた、上着を適当にハンガーへかけてしまいながら。
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