「綜!!」
走ってきた勢いそのままに、ドアを開けて中へ飛び込む。
ノックもせずにドアを開けた私に一瞬瞳を丸くしたものの、綜はこちらへ背を向けた。
「……付き人失格だぞ、お前。出迎えて、最初に労いの言葉をかけるのが仕事じゃないのか?」
ミネラルウォーターをあおってからテーブルに置いた綜は、想像したとおり、持っていた上着をハンガーへ適当にかけた。
「その……ごめんなさい」
ドアを後ろ手に閉めてから、そっと彼へ近づく。
まったく、私を見ることがない姿。
背中を向けられていることが、少し……ううん、すごく寂しかった。
「だいたいお前、俺の演奏をちゃんと聞いてたのか? 俺がどれだけ――」
「……ごめん、なさい……っ」
こちらを振り返らずに呟いた彼の言葉を遮って、背中に手を伸ばす。
とはいえ、さすがに抱きつくことはできなかった。
ゆっくりと両手を当て、そっと……擦り寄るように体を寄せる。
ああ、こんな風に近づける日がくるなんて、思わなかったな。
薄いシャツ越しに伝わってくる彼の温もりが、なんだかやけにどきりとする。
「ごめん。私、ウソついてたの。本当は、その……彼氏なんて……」
「ンなことわかってる」
「……え……。え! なんで?」
予想しなかった答えで顔を上げると、首だけで振り返った綜が、あからさまにため息をついた。
「こっちへ帰ってきたその日に、宗に聞いた。……まぁもっとも、いようがいまいが、俺には関係ないけどな」
肩をすくめた綜を見ながら、言っている意味がわからず、きょとんと目が丸くなる。
すると、体ごと振り返った綜は、シャツのボタンを2つほど外してから両手を組んだ。
「お前を取り上げるくらい、造作ない」
「な……っ、な!?」
「お前、俺のこと好きだろ? 第一、彼氏がいる女がほかの男といてあんな嬉しそうな顔するかよ」
「えぇ!? ちょ、え、私、そんな顔……!」
「してただろ。……無防備な顔しやがって」
……む……無防備!?
どんな顔よ、それ!!
は、と鼻で笑った綜を見たまま、ぱくぱくと情けなく口が開く。
「何赤くなってんだ?」
「な……なってないもん」
「なってるだろ。ほら」
「わっ! やだ、やめっ……」
すい、と顎を取られ、たちまち顔が熱くなる。
うわ、やだやだ、やめてよ!
ただでさえ、綜を顔正面から見るとどきどきするのに、こんなふうに触られたら、恥ずかしくてたまらない。
「えと、だからっ……あ! アンコール!」
「何?」
「アンコールの曲、なんで勝手に変えちゃったの?」
「勝手にじゃない。ちゃんと許可を得た」
「で、でもっ! そんな急に変えらたりしたら、みんなだって困るじゃない!」
「仕方ないだろ。どっかの馬鹿が人の話聞かないで勝手に動くから」
「ば……馬鹿!? ちょっと! え、なにそれ! じゃあ私のせいってこと!?」
「ようやくわかったのか? お前、本当に馬鹿だな」
ああ言えば、こう言う。
顔を近づけた彼が目の前で笑い、反射的に眉尻が下がる。
ああやだ、やめてよ。
そんなふうに見られたら、どうしていいかわからなくなる。
これまでの何年もの間、ずっとずっと好きだった人。
その人のきっかけになることができたなんて、知ってしまった以上、どうしようもなく嬉しい。
「……綜」
「なんだ」
「私……綜が好き、なの」
目を見たまま言えたのは、奇跡に近い。
でも、顎をとった手がずっと私へ触れたいたこともそうだけど、何より、目の前で柔らかく笑ったのを見て、感情がたかぶったせいもある。
「っ……」
「なんで泣くんだよ。お前は何年経っても泣き虫だな」
「……いいもん。泣き虫だって……」
「ったく」
まるで、大事なものを扱うかのように、綜が両手で私の頬を包んだ。
刹那、涙がぽろぽろとこぼれて、情けなくも声が潤む。
……ズルイ……。
そんな……ネコかぶってるときみたいな、優しい顔見せられたら困る。
ただでさえ、綜の笑顔なんて見慣れてないんだから。
……ああ、宗ちゃんに似てる。
ううん、でも違うんだよね。
小さいころの綜は、いつだってこんなふうに笑って私の名前を呼んでくれていた。
「…………」
顔が近づいて、一瞬触れるだけの優しいキスをされた。
だけど、私にとっては、ずっと……ずっと待っていたものだ。
こんなふうに触れてもらうことはおろか、キスなんてありえないと思っていた。
9年前、私の前からいなくなった彼は、今、目の前にいる。
おずおずと両手を伸ばして綜の背中へまわすと、私がそうするよりも先に引き寄せてくれた。
「……もう1回弾いてくれる?」
「何をだ?」
「“愛のあいさつ”」
先ほど聞いたタイトルを口にすると、頭の上で綜が笑った。
「考えといてやる」
「っ……綜らしい」
は、と短く笑ったのがわかって、思わず噴き出す。
本当にこの人は、どこまでも素直じゃないんだなぁ。
いや、正確には素直と褒めるべきなのかもしれないけれど。
「もー」
くすくす笑って涙を拭うと、付け足すように『高いからな』と綜らしいセリフが降ってきて、また笑った。
あ、そうそう。
あとで知った話だけど……“愛のあいさつ”は、作曲者のエルガーが自分をずっと献身的に支えてくれた最愛の妻に捧げた曲だそうだ。
……私も、いつか綜に言ってもらえる日が来るのかな。
献身的に尽くしてくれてありがとう、って。
…………。
いや、ありえないわね。
綜が私に感謝するところなんて、想像もできない。
でもまぁ、彼があの曲を選んだことは、すごくすごく大きなことで。
口に出してはこないけれど、人に頭を下げてまで演奏することを選んだのは、何ものにも代えられない事実だもんね。
天邪鬼だとはわかっていたし、素直じゃないのも承知してる。
だからこそまぁ仕方ないじゃないと、私のほうが折れてあげるしかないのかもしれない。
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