「ねえ、ちょっと待って。俺の話も聞いて」
「いいわよ? 聞きましょう」
 眉を寄せた彼に、腕を組んだまま大きくうなずく。
 いわゆる、反論タイムね。いいよ?
 口を挟まないよう、我慢はします。
「俺、彩さん以外に声なんてかけてないよ?」
「嘘。じゃあ、どうして抱き合ってたの?」
「……抱き合ってたって言うけど……いつのこと? 俺、そんなことしてない」
「別に、隠さなくてもいいじゃない。昨日の昼間、スタッフルームで抱き合ってたの……私見たよ?」
「昨日の昼間って……あー」
「ほら」
 やっぱり。
 どこかの政治家みたいに『忘れました』とは言わせない。
 おかげで、昨日は晴海から貰ったチョコ食べすぎちゃったんだから。
 それもあって、ちょっとイライラしてる。
「……何よ」
「ちょっと、立って」
「なんで?」
「いいから」
 くすくす笑った彼が腕を取り、私を促す。
 ……何よ。
 眉を寄せてため息をつき、仕方なくその通りに――。
「っ……な……!」
 いきなり抱きしめられた。
 ふわりと香る自分じゃない彼の香りに、瞬間的にどきりとした。
「ちょ、ちょっと待って! 巧君には、さゆちゃんが――」
「三河さんの言う通りだね」
「……な……ええ? なにが?」
 彼を見上げるように顔だけを向けると、おかしそうに笑ってから再び腕に力を込めた。

「彩さんには、直接態度で示さなきゃダメだって言われた」

「……なっ……!」
 なにそれ!?
 わけがわからず、口がぱくぱくする。
 ……って、金魚じゃないんだから。落ち着きなさいよ私。
 なんて自分でつっこみを入れるものの、頭の中には『?』がいっぱい。
 言われたって……さゆちゃんに?
「彩さん、鋭いようで鈍いから、ちゃんと好きだとか言わないとわからないって」
 ……む。
 何よそれ。
 まるで私が鈍感で何も知らない子みたいじゃない。
「ちょっと」
「何?」
「離して」
「ダメ」
「……ダメじゃない」
「じゃあ、嫌」
「っ……ちょっとぉ」
 ぶんぶんと腕を振ったりして彼の中でもがいてみるも、まったく動じる様子はない。
 ……くそぅ。
「っ……!」
「まったく。人のことを子ども扱いしないでくれる? だいたい、巧君のほうが年下なんだからね!」
「……まぁね」
 脇をつついてすり抜けてから『あ』と思ったけれど、彼は気にしていないように笑って腕を組んだ。
 でも、その態度は完全に子どもを見てる格好。
 ……悔しい。
「でも、彩さんよりも精神年齢は上だよ?」
「っ……嘘」
「本当ですって」
「ほー。言うねぇ、君は。何? どこが大人なの?」
「俺は、ムキになって怒ったりしないよ?」
「なっ! 私だって、そんなふうに怒ったりなんかしない!」
「……怒ってるじゃない」
「おっ……怒ってないわよ」
 くすくす笑って指摘されると、悔しいよりも先に恥ずかしいからやめて。
 子ども扱いされてる。
 その上あなた、馬鹿にしてるでしょ。
「っ……なによ」
「だから、話聞いて」
「聞きません」
「じゃあ聞いてもらう」
「だから、聞か――っん!」
 抱き寄せられて抵抗を見せると、簡単に顎を取られて唇を塞がれた。
 ぐいっと胸元に手を当てて逃れようとするも、相変わらずびくともしない。
 何度か離されて繰り返される口づけをされていると、いつしかその手も滑り落ちてしまっていた。
「……聞く気になったでしょ?」
「…………ズルい」
「ズルい?」
「キスするなんて、聞いてない」
「こうでもしないと、彩さんは聞いてくれなさそうだから」
「ちょっ……ねえ待って。さゆちゃんは? さゆちゃんと抱き合ってた、理由聞いてない」
 小さく笑って再度唇を寄せようとしたのを見て、慌ててすとっぷをかける。
 すると、くすくす笑ってから私の足元を指差した。
「足元に大きい虫いるけど平気?」
「っきゃあ!?」
 抱きつく、というよりはしがみつくほう。
 瞬間的に身体へ力が入り、巧君の腕を両手でぎゅうっと握りしめる。
「やだやだやだ、何!? どこ!?」
「平気だってば、昨日退治したから」
「えぇ!? じゃあ嘘ってこと!?」
「嘘じゃないけど、今は嘘になるかな。正確には再現だけど」
「はい!?」
 くすくす笑った彼は、そう言うとまた頬へ手を伸ばした。
 あ。
 目があった瞬間『わかったでしょ?』と言われ、あのときの光景がフラッシュバック。
 ……さゆちゃんの照れた顔は……ひょっとしてこれか。
「っ……」
「彩さんて、かわいいよね」
「……はい?」
「俺、邦立で彩さんのこと見たことあるんだ」
「な……」
 思いもよらなかったセリフを言われ、目が丸くなった。
 邦立クリニックで、私は勤務していない。
 だけどーーあそこは私の、研修場所だったことがある。
「きっとまだ研修生だったと思うんだ。もう何年も前だから。そのときさ、ずっと泣いてる小さい子のこと、ひとりで一所懸命あやしてたんだよ」
「え……?」
 覚えてない記憶を言われ、巡らせてはみるけれどやっぱり思い出せはしない。
 それでも巧君は、まるで昨日のことを話すかのように、優しい顔で笑った。
「俺が知ってる医者ってさ、みんな傲慢で、変に上から目線で、看護師に対して妙なプライドはってて、やだなーって思う人が多かった」
「う……耳が痛いわ」
「彩さんは違うでしょ。あのときだって、看護師に任せればいいのに……痛がる女の子のこと、ずっと励ましてた」
「っ……」
 そんな優しい顔しないでよ。
 私の記憶にはないことだけど、巧君の中にいる私はどんな顔をしていたんだろう。
 あまりにもいい思い出のように話されて、気恥ずかしさが立つ。
「ああいい人なんだろうなって思って、一緒に仕事できるの楽しみにしてたんだけど……ご実家を継がれたって聞いてさ、俺は相当慌てたよね」
「巧君が?」
「そうだよ? だから……こんなふうに、ストーカーみたいになっちゃったのに」
 苦笑まじりにとんでもないことを言われ、ぽかんと口が開いた。
 あー。
 あーあーなるほど。そうでしたか。
 ひょっとしなくてもあなた、私のこと探してくれてたのね。
 だからーー妙な必死さを感じたのか。
「……笑わなくてもいいのに」
「え、だって! 巧君、かわいいんだもん」
「かわいくなくていいの。俺は男なんだから」
「男だってかわいいじゃない、そんな」
 くすくす笑って首を振ると、少しだけ嫌そうな顔をした巧君が私に手を伸ばした。
「……キスしたいなって思った」
「っ……最初からそんなふうに見てたの?」
「うん。だめ?」
「だ……めでしょ、もう」
 目の前で囁かれ、ぞくりと身体が震える。
 そんなふうに男の人の顔されたら、どきどきしちゃうじゃない。
「お試し期間、終わりだよね?」
「……うん」
「で? 俺はどう?」
「…………ズルいから、嫌」
「ひどいなぁ」
 すっかり勘違いしていたっていう自分が恥ずかしくて、どうしてもまっすぐ彼を見ることができない。
 ……昨日はすごく悩んだのに。
 こんなふうにキスされて、あっさり腕に納められて、すっかり気持ちまで逆転しちゃってるし。
「お買い得だよ?」
「……どこのバーゲン品ですか」
「今だけの限定品です」
 彼の声で顔を上げると、相変わらずの優しい笑みでこちらを見た。
「今じゃなきゃ、間に合わないよ?」
「……でも……」
「使い心地、悪かったかな」
「それは……よかったけど」
「でしょ?」
 第三者が聞いたら、妙な会話だと思うだろうなぁ。
 まさかこれが『彼』についてだなんて、誰も思わないはず。
「どう?」
「何が?」
「彼氏として」
「……それは……」
「俺は、彩さんに花丸あげるけど」
 …………ん?
 ちょっと、待て。
「……ちょっと。なんで私まで採点されてるの?」
「え? だって、そういうもんでしょ?」
「違います」
「違わないよ」
「……なんでよ」
「何事も、平等に」
 至って平然と呟いた彼に、思わず瞳が丸くなった。
 ……と同時に、笑みが漏れる。
「もー。何よ、それ」
「ねえ、俺じゃダメ?」
「っ……またそうやって、急に変わる」
「確かに、彩さんは俺にはもったいなさすぎる彼女だと思うけど」
「……そんなことないでしょ」
「じゃあ、お返事は?」
「…………」
 だから、そんな優しい顔で見られたら、何も言えなくなっちゃうじゃない。
 そっと鼻先をつけられて、彼が笑うたびに吐息がかかる。
 ……くぅ。
 どうしても先ほどのキスが蘇ってくるんですけど。
「……ください」
「何を?」
「巧印のお買い得品」
「んー……どうしようかな」
「え!? ちょっ――」
 焦らすような声で目を丸くすると、再び唇が訪れた。
 今度は、さっきと違うキス。
 まるで、味わうかのようにゆっくりと唇を舐めてから、舌を取られる。
「っ……ん……」
 耳にやけに残る音が恥ずかしくて、なんかおかしくなりそう。
 今、こうしてキスしてるっていう実感が湧いて、どうしても力が抜けた。
 ……っていうか、何よ。
「ん……」
「……ね。お買い得でしょ?」
 なんでこんなにキスがうまいのかと、本当にびっくりしちゃうんですけど。
 ちょっと立ってられなくてもたれると、それはもう得意げに彼が笑みを見せた。
 ……むー。
「う」
「ちょっとー。何よその顔。ていうか、どこで覚えたの? そんなキスは」
 むに、と頬をつまんで眉を寄せると、困ったように笑った。
 それが、ちょっと悔しい。
「こらっ」
「どこでって言われてもなぁ……まだ開発途中なんだけど」
「開発途中?」
「うん。彩さんでいろいろ鍛えようかと」
「……私はトレーニングマシーンじゃない」
「もちろん。でも、彩さんに喜んでもらうためにいろいろがんばりたいっていうのは、悪いことじゃないでしょ?」
「……そりゃそうだけど……」
 つねってやった頬をさすりながら優しく笑われ、こっちが困ってしまう。
 これじゃいじめてるみたいじゃない、私が。
「じゃあ、キスだけで落とせるようにがんばるから」
「……がんばらなくていいです」
「どうして?」
「だって……困る」
 視線を外して小さく言ったのに、彼はしっかりと拾ってきた。
 ……くぅ。
 頬が染まるのがわかって、やたら恥ずかしいんですけど。
「彩さんの困る顔も見たいね」
「……嫌だ」
「俺は見たいの」
「私はヤなの」
 瞳が合った瞬間、思わず一緒に笑ってしまった。
 こういうやり取りをしてきた彼氏なんて、そういえば――これまでいなかった。
 だからこそ新鮮で、結構楽しい。
「じゃあ、改めて」
「ん?」
 にっこりと笑い、彼が目の前に手を差し出した。
 ……手。
「ん。よろしくね」
「こちらこそ」
 最初に彼を迎えたときのような、握手。
 だけど、あのときとは何もかもが違っていた。
「じゃあ、明日デートしようか」
「デート?」
「うん。ふたりきりで」
「……エッチなこと考えてるでしょ」
「うん。ダメ?」
「だ……もうね、あなた変わりすぎ。好青年はどこへ行ったのよ」
「だって、彩さんのかわいい顔見たいんだもん」
「っ……もう……ねえ待って、困る」
 にっこりとストレートに言われ、どきどきがやまない。
 …………はっ。
 相変わらず、彼に抱きしめられたままなのに今ごろ気づいた。
 むー……。
 でもまぁ、よしとするか。
 ぽんぽんと彼の背中を叩くようにしてやると、彼も同じように背中を撫でた。
 なんかなぁ。
 まさか自分が5つも年下の男の子に掴まるとは思ってもいなかったので、ちょっと笑える。
 けど――。
「ん? 何?」
「……なんでもない」
 ときおり見せるなんとも言えない表情は、やっぱり男って感じがして……ちょっとえっちくさいんだけど。
「じゃ、明日迎えに来るから」
「……しょうがないなぁ」
「ちゃんと。ね、お返事は?」
「楽しみにしてます」
「ん。よろしい」
 ぽんぽんと頭を撫でられ、やっぱりちょっと年上のようにも思える。
 むー。
 不思議だ、彼は。
 まぁ、だからこそきっと私も惹かれたんだろうけれど。

 さて。後日、そんな彼から聞いた話がある。
「……は?」
「だって俺、別に期間設けてないよ?」
 ……うわ、私ハメられた?
 彼が『お試し期間』をいつまでとはっきりと言わなかったのは、やっぱり最初から策略があったんだそうな。
 でもさ……。
「私が巧君を好きになるまでお試しって、長すぎない?」
「だって、そのつもりで言ったんだもん」
 ……やっぱり、策略家だ。
 ていうか、確信犯。
 まぁ、結果として彼を好きになってしまった私には何も言う権利ないんだけど。
 きっとねぇ、彼がときどき妙に年上のように感じるのは、そこにあるんだと思う。
 年下っていうかわいらしさが、まるでないんだもん。
 いや、まぁ……そりゃあ笑顔とかはかわいいと思うけど。
 だけど、口を開けばびっくり箱みたいにまったく別人。
 結構辛口。
 口調は優しいけど、だからこそ余計にたちが悪いっていうか……。
「彩さん?」
「ん?」
「アイス、溶けてるよ」
「わ!?」
 持ったままのアイスが、すっかり手の甲まで流れてきてた。
 昔から、ダメだ。
 こうして考えごとしちゃうと、ほかが疎かに――。
「って、なんで!?」
「え? こうしてほしかったんでしょ?」
「違いますっ!」
 ぐいっと手首をつかまれて、ぺろりと舐められた。
 こ……ここ、こんな公衆の面前でっ!
「っ、や、だっ……やだ、巧君」
「…………」
「う。何よぉ」
「そんな声出されたら、その気になっちゃうよ?」
「ッ……もう!」
「誘われてるのかと思って、すごいびっくりした」
「違うったらもう!」
 真顔で言われたとびきりのセリフに、かあっと熱くなった顔のまま首を振る。
 ……まったくもー。
 こんな彼氏、ほんっとに今までいなかったぞ。
 だから余計に、どっぷりハマってしまってるわけですが。
 なんとかこう……彼も私みたいに照れてるところが見れないものかと、いろいろ模索はしてみてる。
 なんだけどねー。
 なかなか、手ごわいです。……はい。
 まぁ、いいけど。
 オロオロされるよりは、ずっといいし。
 っていうか、彼の場合はオロオロしたりするところなんて想像できないんだけどね。
 ――とりあえず。
 彼といるときの自分がかなり笑えてるから、幸せだなぁと思う。
 これから先なんて、どうなるかはまだわからない。
 でも、彼は……ねぇ?
 じぃーっと見ていると、目が合った。
 すると、決まって優しい笑みをくれる。
 それはやっぱり嬉しいし、ほっとするんだよね。
「じゃ、次は向こうね」
「まずは、手を洗ってからね」
「……あ。そっか」
「蟻が寄ってくるよ」
「えー。困る」
「持っていかれちゃうと困るから、洗ってこようね」
「はいはい」
「はい、は1回」
「はぁい」
 くすくす笑ってできるやり取りが、こんなに何気ないものだけど幸せなんだとは思わなかった。
 肩の力を抜いて付き合える関係。
 ……幸せってこういうことなのかもね。
 彼といると、そう思えることが多い。
 いいことだ。
 なんて考えながらうなずき、べったべたの手を握ってくれる彼を見る。
 ……もー。
 心底惚れちゃうじゃない。こんなふうにされると。
 ぎゅっと握ってやって、今度は私が彼を引く。
 それを笑って許してくれる彼。
 ……ありがたい存在に出会えました。
 人間の出会いって、偶然のようで必然なんだなー……なんて、ガラにもなく思いつつ。
 今ある幸せを、ゆっくり大事にしていきたいと思う。
 ……って、やっぱりガラじゃないかも。
 不思議そうな顔をした彼に笑顔で首を振り、ともに歩き出す。
 これからのふたりの道を。
 ……できれば、長く続いてほしいそこを。



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