いったい、何がいけなかったんだろう。
右手には、受け取ったときとはまったく違って、今にも零れ落ちそうになっているソフトクリームがあった。
いつもならば、にこにこ笑いながら、相手の承諾なんて得ずにとっとと口にしている物。
……だけど、今はそんな気にならない。
それどころか、口を開いて笑顔を向けるだけの力もない。
「…………」
何してるんだろう。私。
俯くとすぐ目の前に、ベンチに座ったままの私の影が映っていた。
天気のいい、本日。
周りの人たちは、とっても楽しそうにきゃいきゃい笑いながら、パンフレット片手に歩いていく。
家族連れ。
友達。
そして、恋人同士。
……恋人……。
みんなとってもとっても仲がよさそうで、本当に本当に幸せそうで。
なのにどうして、今の私にはないの?
……なんで、私は独りぼっちなの?
「…………馬鹿」
仲睦まじく手を繋いで歩いていくカップルから視線を落とすと、眉が寄った。
同時に、溶けたアイスが手の甲を濡らす。
……いったいどれほど、昔の出来事だったんだろう。
ううん。
“昔”なんて言葉は、絶対に似合わないことなんだけれど。
だってあれは、思い出すまでもなく鮮明に頭へ浮かんでくる“ついこの前”のことなんだから。
「『女優・郷中美和 若いツバメの正体はヴァイオリニスト』ぉ!?」
キィンという音とともに部屋へ響いた声は、もちろん私のもの。
だけど、それほど大きな声だと言うにもかかわらず、誰ひとりとしてそのあとに続く声はなかった。
今日はこれから、このホールでコンサートがある。
だから、今いるのはいつものリビングじゃなくて、控え室。
そう。
『芹沢綜様』と書かれている、いつもと同じような……いや、今回はちょっと豪華よ。
そんな控え室だった。
「…………」
「…………」
「っちょっと!! 綜!!」
「なんだ」
待つこと数秒。
声らしい声は返って来そうになかったので、思わず両手で雑誌を開いて握ったままぐるんっとそちらを振り返る。
っく……ありえない。
ありえないよこの人!
っていうか、張本人じゃない! 張本人!!
なのにどうして、こんなにも平然とヴァイオリンの手入れなんてしちゃってるワケ!?
もーー信じらんない。
ワケわかんない。
綜の馬鹿!
「どういうこと!? コレ!!」
ずかずかとそちらへ歩いて行って、テーブルへ音を立てて雑誌を叩きつける。
……って、ちょっと。
ちらっと。
本当に本当にチラ見しただけで、また視線戻したんですけどこの人。
「…………」
「…………」
「…………がぁああもう!!」
キュッキュという単調なリズムで続いている音にいたたまれなくなって、もうちょっとで雑誌を半分にぶち切る所だった。
……うー。
うーうーうー。
なんでこんなに普通なのよぉ。
だって、ありえないでしょ?
『ツバメ』よ? 『ツバメ』!
今どきそんな言葉遣う? ……ってまぁ、雑誌に書いてあるんだから遣うんだろうけど。
でも、そういう問題じゃないんだってば。
だって、この人私知ってるんだもん。
……く……悔しいけれど、好きな女優さんだから。
郷中美和。
この名前を聞いて、『知らない』なんていう人はよっぽどのモグリだと思う。
それこそ、今や公共放送しか見てませんなんていうお爺ちゃんお婆ちゃんだって、知ってるであろう人だもん。
彼女は、CMはもちろん、若手の子が主役のドラマや大河ドラマ、挙句の果てにはちょっと軽いノリのバラエティー……と、本当に多岐に渡って出演している女優さん。
元々はモデルから出たらしいんだけど、今や女優としての地位をしっかりと築き上げていた。
……それに、すごいんだよね。この人。
キレイって言葉がばっちり似合うような雰囲気なのに、なんていうのかなぁ。
こう、茶目っ気たっぷりっていうか。
そんな感じのちょっと砕けた表情を見せる人だから、ツンとお高く留まってるって感じがしない。
時々ぺろっと舌を見せて『ごめんね』みたいな表情をするんだけど、それがまたかわいいのなんのって!
年は確か30代後半だとは思うんだけど、でも、そんな感じじゃないんだよねー。
ヘタすると、私より少し上か、同い年位に見え――。
「って、だからそうじゃないんだってば!!」
ぶんぶんと首を振ってから雑誌に目を戻し、食い入るように一言一句を辿っていく。
眉を寄せていたはずの眉間の皺がすっかり取れて、挙句の果てにはほっぺたが緩みまくっていた。
……うぅ。
だってこの人、昨日だってちょー面白い発言して、めちゃめちゃ笑ったんだもん。私。
計算なのかどうかはわからないけれど、でも、バラエティーとか見てると本気で『え? 天然?』みたいに思っちゃうくらいなのに、シリアスの役柄をバリバリこなしちゃうっていうんだから、もう!
このギャップにハマっちゃって抜け出せなくなった子は、きっと多いはずだ。
……って、現にそのいい例がココにひとりいるんだけど。
だから。
だから余計に、信じられなかった。
あの人がそんなことするなんて。
…………そして。
「……っ」
「ねぇ、嘘でしょ!? 嘘よね! 嘘って言って!!」
「なんだいきなり」
がばっと身体の向きを変えて、ちょっと高そうな椅子に座っていた綜の襟元を引っ掴み、そのままゆっさゆっさと揺さぶってやる。
だって!
信じられないし、当然だけど信じたくなんてなかったんだもん。
綜が……っ……綜が、あの人と密会してたなんて。
……ん?
『密会』とはちょっと違うのかな。
なんだろ。
『逢引』?
いや、なんかそれもちょっと違うような……。
「……ってだから、それはどうでもよくて!!」
ぎゅうっと綜の服を掴んだまま考え込んでから首を振り、改めて目の前の彼を――。
「あ!? ちょっ……! 綜っ!?」
「時間だ」
ぱしんっ、という音とともにあっさりと払われた、我が両手。
それを呆然と見つめるだけの余裕はなく、この行為は当然とばかりに椅子から立ち上がってこちらに背を向けた彼を慌てて追う。
「ねぇ、待って!」
「しつこい」
「だって!! ねぇ、嘘だよね? ほら、だってコレっ……ついこの前の夜じゃない!!」
そう。
この記事をざっと読んだ限りでは、この写真が撮られたのは今週。
しかも――綜が『クライアントと会う』ってひとことだけ告げて、私を家に残して出かけて行った水曜の夜だ。
別に、これまでだって綜がひとりだけで仕事の話をしに出かけたことがない訳じゃない。
……だけど……オンナの勘とでも言っておこうか。
なんとなくだけど、変な感じがした。
だから、彼に何度も聞いた。
しつこい位に。
……でも。
「だって、綜何も言わなかったじゃない……! 彼女と会うなんて、そんなこと……っ……ひとことも……」
ぎゅうっと握り締めた彼の背中から、手が滑り落ちそうになる。
同時に視線は地へ落ち、きゅっとほんの少しだけど唇を噛んでいた。
嘘だと思う。
綜が、私に嘘をついてまで、こんな……っ……こんなふうに、彼女と満面の笑みを浮かべて肩を並べたことがあったなんて。
しかもだよ?
しかも、内容が許すまじことばかり。
『親密な』とか『誰が見ても羨む美男美女カップル』だ……あ。
それはまぁ、うん……後者はうなずけるけどさ。
でも! それにしたって! だからって!!
何も、『そのあとふたりは怪しげなネオン街へと消えていった』みたいな文はいらないと思わない!?
確かにこの夜はちょっと遅かったけれど、別にヨソの女の人の匂いなんてしなかったし、綜の素振りだっていつもと同じだった。
っていうか、ホントにありえないんだけど!
こんな、いかにも『世界的ヴァイオリニストという地位を築き上げたのは、彼女のお陰』みたいな内容が気に入らないし。
……そりゃまぁ、一応形だけとはいえ『か?』って付いてるけどさ。
でも。
でも……ねぇ……。
嘘だよね?
こんな、コンビニで立ち読みしてたら目に留まった雑誌なんかに書いてあることなんて!
本当じゃないよね……うん。
そう。
そうだよ。
綜はこの人の愛人でもなければ囲われてるにーちゃんでもない。
だって、私は綜の彼女なんだから。
綜を小さいころから知っていて、それでいて――今現在、『恋人』というポストにいるのが私なんだから。
「ねぇ、綜。お願いだから、本当の――」
「お前は相変わらず、マスコミにとって格好の餌食だな」
「餌食?」
言い終わる前にため息をついて、視線をふいっとそらした綜を見たままでまばたきをしていた。
……餌食。
それはやっぱり、『食べられちゃう』ってこと?
マスコミに?
……なんですかそれは。
ちょーっとだけ、綜が言いかけたことの意味がわからない。
「利益のためならば、法に抵触したとしても『報道の義務』を振りかざして横暴っぷりを発揮する」
「……え?」
「どこの国のメディアも、そういう記者を何人かは抱えているが……日本ほど腐敗してる国はないな」
心底嫌そうに。
そして、まるで何か思い出したくない出来事でも抱えているみたいな表情で、綜は唇を結んだ。
「連中にとって、お前みたいなヤツを操るのは、子どもよりずっとラクだろうよ」
「……は……ぁ?」
フン、と軽く鼻で笑われたのが悔しかった。
ぷちん、という音とともに切れそうな我が理性を精一杯押しとどめながら、ひくつく口元に手を当てる。
……ダメよ優菜。
あなたは何歳なの?
綜とは付き合いも長いでしょ?
ついでに言うと、彼と違って『大人』でしょ?
だもん、ダメダメ。
こんな場所で叫んだりしたら、はしたない。
そうよ!
だって私、誓ったんだもん。
新年を迎えたのを機に、『今年こそは綜にぶち切れたりしない』って。
…………。
って……ちょっと違うんだけど。
あれ?
私、あのとき確か『今年こそは綜が私を切れさせる言動しませんように』って願ったんじゃなかったっけ?
あれれ?
それじゃあどうして、反対に私が我慢するような形にすり替えられてるワケ?
……まぁ、いいけど。
結果的には、まぁ、そんなに大差ないだろうから。
「……って、だから! 綜!」
「相変わらずだな」
「……何が?」
ドアノブに手をかけた彼が、足を止めて呆れたように息を吐いたのが聞こえた。
当然、それに伴ってこちらの眉が寄る。
……相変わらずって……。
いったいどれくらい前と比較しての、『相変わらず』なんだろう。
「お前は、いつまでメディアに弄ばれるつもりだ?」
ちらりと向けられた視線は、綜特有の冷たいものだった。
完璧に、優しさとか温かさの欠片もないもの。
……のはずなのに、なぜか瞳が丸くなる。
意味がわからないからじゃない。
これといって頭に来たわけでもない。
……なんだけど……。
「綜……?」
なんだか、いつもの綜と違うような気がした。
いつもの、ただ私を『馬鹿かお前は』って言うときの彼と違って、なんだか――……ほんの少しだけ、寂しそうな。
そんな気がした。
「…………」
……傷ついてる……?
…………いやいやいや、いやまさか。
そんなのは、綜に限ってまずないと思う。
むしろ、こんな記事を見つけちゃった私のほうが、何倍も何倍も傷ついてるんだから。
……だから…………。
…………なんでそんな顔するのよ。
ズキ、と胸の奥が痛んで、『ごめん』と咄嗟に言いそうになった。
「あっ、ちょっ……! ねぇ、綜! だから、『Yes』か『No』かどっちかだけでも――」
「お前には関係ない」
「……え……?」
大きくない、低い声。
耳に入ると同時に、1度だけどくんっと鼓動が大きく鳴った。
「あ……」
パタン、と閉められた控え室のドア。
そこから徐々に遠ざかっていく、革靴の音。
……なんか……おいてきぼりとか、そういうんじゃなくて。
まるで、『捨てられた』みたいな気になったのは、どうしてだろう。
突き放されるかのような――……ううん。
実際に突き放された、綜の冷たいひとこと。
一瞥と同時に向けられたその言葉で、リアクションも取れないほど奥深くまで追いやられた気がした。
……境界線って、こういうときに使うのかな。
先ほどまで彼が座っていた椅子を振り返ると、ヴァイオリンを磨くのに使っていたガーゼのハンカチが落ちていた。
『さよなら』
ハンカチって、そういう意味があるんだっけ。
思い出さなくてもいいときに、思い出してしまうこと。
人って、ある意味巧く創られているのかもしれない。
神様の都合イイように。
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